10 To be or not to be,that is the question.①
その頃、旧野崎邸の離れである宿舎では。
九条円が縁側で、煙草を吸いながらぼんやり夜空を眺めていた。
月はそろそろ、満月が近そうだ。
帰り際に結木夫妻が蚊取り線香をつけておいてくれたお蔭か、あるいは円自身が立て続けに煙草を吸っているせいか、ありがたいことにやぶ蚊は寄ってこない。
沓脱石の上にあるサンダルを軽く引っ掛けるような感じで履き、コオロギの声と水のせせらぎを聞くともなく聞きながら彼は、肺へ深く煙を入れる。
多くて年に数回のなんちゃって喫煙者である円だ、いつもならふかす程度の吸い方しかしない。が、今は若干、やさぐれた気分なのだ。
やけくそというか自虐というか自傷的というか、己れを痛めつけるような気分で煙を肺の奥まで入れる。
身体によくないのは百も承知、医者の不養生とはまさにこのこと。
だけど『それがナンボのもんやっちゅうねん』、と、わざと慣れない関西弁で彼は思いながら、咳き込む寸前まで無理に煙を摂取する。
(……えーと。何だったっけ?確か『 To be or not to be,that is the question.』……だっけ?)
有名なシェイクスピア戯曲の一節だ。
俺はハムレットか、と彼は、煙に紛らせるように自嘲する。
あの神事の後、結木氏に背負われて宿舎へ帰った円は、『正装』を脱いで部屋着に着替えた瞬間、猛烈な眠気に襲われた。
自覚はなかったが緊張状態だったのだろう。
部屋着に着替えてホッとした途端、緊張の糸が切れたらしく、キョウコさんが後ろで何か言っていたような記憶はあるが、その先の記憶は曖昧だ。
そして、気付いたのは。
【home】のリビング、ソファベッドの上だった。
「目が覚めたようだね、九条君。体調はどうだ?」
キョウコさんの声に、悪くないですと答えながら円は、上掛けを剥いで身体を起こす。
思いがけないくらいすっと身体が動いたことに、逆に軽い違和感を持った。
「下腹の傷は完治させたよ。治せるものは治しておいた方がいいと判断した。事後報告になってしまって申し訳ないが、あまり余裕のある事態じゃないから、この件については勘弁してほしい」
キョウコさんはいつもの真顔であったが、どことなく表情がさえないというか、たたずまいに余裕がない。
「あ……、はい。わかりました」
次の定期検診で、傷の異様に早い回復状態に驚かれるだろうが、彼女の言う『あまり余裕のある事態じゃない』の意味はわかる。
「でも、どうして【home】へ……」
言いかけ、円はなんとなく理解した。
円は今、夢を司る能力者の怨霊に魅入られているのだ。
小波に限らず、現実世界で眠るのはリスクがありすぎる。
少なくとも、今回のようなイレギュラーな重い疲労を癒す為なら、余計な干渉を受けずにゆっくり眠れる【home】へ戻った方がいい。
「時間の方もいじっている。リアルと【home】の時間差は、最高比率の60 : 1にしておいた。君の体感で10時間は眠っていたが、アチラでは10分ほどしか経っていない」
言いながら彼女は、あたたかい湯気の上がる中華粥を持ってきた。
「10分や20分くらいなら、怨霊をごまかすことも出来る。まあ、せいぜいそれくらいが限界だがな」
食べ物がのったお盆をローテーブルへ置き、彼女は、自身が愛用しているソファに座った。
二人掛けのラブソファに一人でゆったり腰掛けるのが、円が彼女と知り合った頃と変わらない、好みというかこだわりだった。
「九条君」
彼女の声はどこか沈んでいた。こんな声を、彼女とはそこそこ長い付き合いになる円であっても聞いたことがなかった。
「君としてはさぞ鬱陶しいだろうけど。……戻ってきてくれて、ありがとう」
「……え?」
円が不可解そうにしているのに、キョウコさんはかすかに苦笑いをした。
「君の記憶には曖昧な部分もあるかもしれないけれど。君は『月のはざかい』神事で、冗談抜きで死にかけた」
恐ろしさにひゅっと息を吸い込んだ一瞬後、ああそうだったかもしれないと心のどこかで納得もした。
あの時に見た、ユニコーンの瞳のきらめきは美しかった。
言われるままに黄泉路へ駆け去りたい、すさまじい誘惑も感じた。
その時、何故かスイが現れ、ユニコーンの瞳に白銀の円錐の槍を投げつけてくれたお蔭で正気に返り、祭主である結木夫人の声に導かれるまま現世へ戻れたのだ。
「戻れたのは結木夫人……神鏡の巫女姫が、霊的な意味での剛腕で引っ張ってくれたお蔭ですよ。あ、その前に……」
一瞬ためらったが、ここは正直に言っておくべきと円は判断した。
「アチラ……『神の庭』でスイと会いました、ほんのちょっとでしたけど」
「スイに?」
目をむく彼女へ、円はうなずいた。
「はい。彼はアチラでうっかり死にそうになった俺を、助けてくれたんです。円錐の浄化の槍を投げて、俺を黄泉路へ誘おうとしていた妖しのモノを撃退してくれたんです。『……九条君。自分の【dark】の掃除はマメにしなさい』って、注意されました」
円は手を伸ばし、中華粥の乗った盆に添えられている、頃合いに冷めていそうなお茶を取り上げ、すすった。
緑茶の甘みが嬉しい。
「その後、彼はニヤッとしながらサムズアップして、サッサと消えてしました。いかにも彼らしい……」
円は思わず言葉を止めた。
キョウコさんはうつむき、細かく肩を震わせていた。
もしかして泣いているのか、と、驚愕した。
【管理者・ゼロ】が泣くなど、そもそも『泣く』などという無駄?な行動を取るなど、普通あり得ない。
顔を上げた彼女の瞳は乾いていたが、表情にどことなく、泣いた後の人のような倦怠がほの見えた。
「そう、か。……スイにも感謝だな」
ポツリとそういう彼女へ、円は、どう答えていいのかわからなかった。
曖昧に笑んでうなずき、ごまかすように粥の入った器を取り上げた。




