A ー1 朝⑤
校舎へ入り、HRへ向かう。
早いので、校内にはほとんど人がいない。
『よんどころなく』早めに学校へ来ることになったさくやだが、早朝の学校というのは悪くないんだな、という新しい認識を得たのは、ある種の怪我の功名だろう。
ひと気のない朝の校内は、たとえるなら真新しいノートの1ページ目にも似た、快い緊張感と贅沢さがある。
教室の引き戸を開ける。
窓から差し込む清浄で柔らかな朝の日の光、整然と並んだ机。
これが雨の日だったとしても悪くない。
しとしとと響く雨音、ひんやりとした教室のたたずまいは、少しばかり憂鬱さはあるが、詩的な雰囲気だ。
耳をすませば、あちこちからそれとないかすかな物音は響いてくるが、それ故かえって『静謐』と名付けたくなるたたずまいがある、おそらく大部分の生徒が知らない、教室の朝の一瞬。
悪くない。
さくやは思い、自席に着く。
刹那だけの贅沢を味わいながら、さくやは、ゆっくりとリュックから教材を取り出し、一時間目の支度をする。
午前中は特にいつもと変わりがなかった。
静かに授業を受け、芸術科目の時間には書道教室へ移動して作品を仕上げ、休み時間は仲のいいクラスメートと他愛のないおしゃべりをして過ごした。
「ヒメちゃん」
一番仲のいい上谷花は、さくやをそう呼ぶ。
コノハナサクヤヒメからとった名前なん? と、新学期の自己紹介後に話しかけてきたのが彼女だ。
ソチラもかけているらしいが、新月の未明に生まれたから『朔夜』、それだと男の子っぽい雰囲気だからひらがなにしたと聞いてると答えると、花は感心したように
「……ロマンティック」
と呟いた。
どこがロマンティックなのかよくわからないが、花のツボにはまったらしい。
以来なんとなく仲良くなり、今ではクラスで一番、仲がいい。
最初『さくちゃん』と呼んでいた彼女が、何故かいつの間にか『ヒメちゃん』と呼ぶようになっていた。
理由を聞くと『なんとなく』だと花は言う。
「なんとなく『ヒメちゃん』がピタッとくる気がするねん」
元々、花は直感で生きているようなところがある子なので、それ以上は聞くのをあきらめる。
一応彼女、名前の由来、コノハナサクヤヒメとも関わりあるんやしエエやんと言っているが、後付けっぽい。
そのうち、花以外の級友たちもさくやを『ヒメちゃん』と呼び始め、今ではすっかりその呼び名で定着した。
弊害?として『結木さくや』ではなく『結木ヒメ』という名前だと思われているっぽいのが、やや気になるが。
まあ、それくらいの誤差?、目くじらを立てるほどでもないだろう。
「ヒメちゃん、今日の放課後、時間とれる?」
お昼の準備をしながら、花は言う。
さくやもお弁当を出す。
今日は父が作ってくれた。
クレープの皮を使ったラップサンドのお弁当だ。
具材は朝食とほぼ同じだが、昨日の晩ごはんの蒸し鶏の残りを照り焼きチキン風に作り直したのもひとつ、入っていた。
照り焼きチキンの好きな蒼司が、お弁当箱を開けた瞬間、喜んでいる姿が見える気がする。
「別にこれって用はないけど。何?」
さくやが問うと、
「うん。ちょっと買い物、付き合ってほしいんやけど。秋物の服とか小物とか」
「エエよ。どこで見る?」
「まずは駅前の……」
そんなのん気な話をしていた、次の瞬間。
左脇腹に衝撃が来た。
さくやは思わず、食べかけのラップサンドを取り落とす。
衝撃に遅れ、強烈な異物感と全身を貫く鋭い痛み。
「……かはっ」
咳き込むような息がもれる。
さあっと血の気が引き、冷たい汗が全身を濡らす。
「ヒメちゃん!」
花の悲鳴。
周りで食べていた級友たちも、何事かと顔色を変えてこちらを見る。
「い、いたた……」
うめき、花を見上げる。
「おなか、痛い。急に。花ちゃん。保健室……」
とぎれとぎれの単語を拾い上げ、一瞬後にハッと表情を改めた花が、さくやに肩を貸す。
「あり、がと。ごめん」
左脇腹を押さえ、花に支えられながらなんとか立ち上がり、歩こうとした瞬間。
ふ、ッと、視界が暗くなった。
「ヒメちゃん!」
花の金切り声を、聞いた気がする。
しかしそれ以降は闇しかない。
(……ああ、くそ!)
暗闇の世界で、誰かが舌打ちしそうな声音で忌々しそうに呟いている。
(マジか、腸までイッてるくさいな、これ)
そこでふっと、声の主は嗤う。
『笑う』ではなく『嗤う』。
でもそれは、なんとなく自分自身へ向けているような『嗤い』のような気がして、さくやはぞっとする。
(殺して、俺が手に入ると?……それは無理なんだよ、可哀相だけど)
無理なんだ。
絶望に近い、諦念。
そこで声の主の意識は途切れ……さくやの意識も、完全な闇の中へ呑み込まれた。