8 神の庭⑤
九条の左手首から伸びた発光する蔓草は、瞬く間に彼の全身を包み込む。が、一瞬で力を失くしたのか、それらはすぐに光を失ってボロボロに砕け落ち、消えた。
「そんな! エン! 九条君! 九条円ァ!」
イザナミノミコトの絶叫に被せるように、母は唱える。
「九条円! すべてを丸く包み込む、太陽にも海にも大地にも似た大きな器を持つ者であれかし、と名付けられし者よ! はざかいの主が命じる、疾く戻れ、 現世へ疾く戻れ!」
再びビクッとひとつ、大きく彼の身体が痙攣した。
ひゅうウウ、と大きく息を吸い込む音がして、パチパチと数回、彼は瞬きした。
「……せん、せい」
ぼんやりとそう呟くと、彼は、ぐらりと身体を傾がせた。
「九条さん! しっかりなさって下さい!」
虚空へ鏡を消し、急遽神事を終わらせた母が、傾いで倒れそうになった九条の肩を、さくやと一緒に支える。
ひゅう、ひゅう、と苦しそうに息をしながら九条は、膝立ちの状態でぼんやり辺りを見回した。
「あ……はは。戻れた、みたい、ですね」
彼はそう呟き、自嘲するような小さい笑みを口許に閃かせ……再びまぶたを閉じた。刹那、ずしりとした重みがさくやの腕にかかる。
と、さくやの手の甲へ温かい大きな手が重なる。ふっ、と腕にかかる重みが消えた。
「後はお父さんらに任せとき」
声に見上げると、父がいた。彼独特の柔らかな笑みが、ふわりと浮かぶ。
「彼はちゃんと戻って来はったんやから、大丈夫やで。九条さんはしんどなって、ちょっと気ィ失いはっただけや、過剰な心配はいらん。お父さんも初めてアッチ行った時、戻ってすぐに気ィ失った覚えがあるからなァ。月の一族の人らはそうでもないみたいやけど、一族以外の人間は、ほんのちょっとアッチ行くだけでも結構キッツいからなあ……」
飄々とした口調でそう言うと、父は、よっこらしょ、と九条を背負う。
「るりさん。彼を離れの宿舎へ運んでくるワ。後、ナンか気ィ付けといた方がエエことある?」
「特には。ああ、このまま自然に目が覚めるまで、ゆっくり眠っていただいて下さい。目が覚めれば消化のいい食事をとって、明日までゆっくり過ごしていただければ大丈夫でしょう。夕飯はこちらから、うどんか何かをお持ちしようかと……」
「あ、いや……お気遣いありがとう、神鏡の巫女姫。彼の夕飯は私が手配しよう、最初からそのつもりでいたし」
ようやく安心したのか、顔色はやや悪かったが、イザナミノミコトの口調はいつものものに戻っていた。
彼女はひとつ、大きく息をついた。それが意外なほど人間くさい仕草で、さくやは驚く。
「先程はすっかり狼狽えてしまって、申し訳なかった」
そう言うと彼女は、不意に母へ深く頭を下げた。
母はもちろんさくやも、いや結木家の者は皆、驚愕して固まってしまった。
国生みの女神の名で呼ばれる存在が人間ごときに頭を下げるなど、想定外もいいところだ。
「彼をアチラから引き戻してくれて、感謝する。感謝などという言葉では足りないくらい、感謝している」
「……あ、あの。どうか、その、頭を上げて下さい、イザナミノミコト」
絶句して硬直していた母が我に返ってそう言うと、ゆっくり彼女は頭を上げた。人形めいて美しい彼女の顔は、かすかながらも泣きそうに歪んでいた。
「彼の親代わりを務めている者として、礼を言わせてほしい。本当に……ありがとう」
父に背負われ、イザナミノミコトに付き添われて九条は宿舎へ帰った。
その後姿をぼんやり見送っていたさくやは、木立の陰にいる木霊たち――父の眷属として従っている、さくやと蒼司にとっても近しい木霊たちだ――に気付いた。
「木霊さんたち」
呼びかけると、何故か三人とも少し驚いたように目を見開き、一瞬互いの顔を見合った後、そっと近づいてきた。
「お呼びでしょうか、オナミヒメ」
妙に畏まった態度で、三人を代表するように大楠が口を開いた。
違和感にさくやは軽く顔をしかめたが、言わなくてはならないことがある。
「三人の中の誰でもいいから、九条さんへ付いていてあげて。そばにいて、彼を『緑蔭の癒し』で悪夢から守ってあげて。お願い、お願いします」
「ご命令でしょうか?」
冷ややかなくらい冷静な声で大楠が問うのに、さくやは激しく苛立った。
「命令、とか、そんなんやないってば! 私が小さい頃、木霊さんたち交代で付いててくれたやん! ずっとやない、あの人と怨霊の決着が付くまでの間の話……」
「お嬢」
優しいが、芯に怒りめいた強さをひそめたナンフウの声が、さくやの言葉を断ち切る。
「その怨霊が問題なんや。あのにーさん……エンノミコトに憑いてる怨霊は、ただ者やないやろ? オレらが『緑蔭の癒し』をあのに-さんに付けるっちゅうことは、オレらに、夢の中へ忍んでくる怨霊と、ガチンコで戦えっちゅうことになるんやで?」
「もちろん我々の気持ちとしては、結木さくやさんのお願いを出来るだけ聞いて差し上げたい……生まれた頃から見知っている、小波の子供の願いですから」
大楠は言う。
「しかし、自分の命に関わるとなると。土地に住む子供の、あどけない『お願い』で済まない話になるでしょう? ……だから訊いたのです。『ご命令ですか?』と」
「結木さくや、やなくてオナミヒメ……水神の娘・オオモトヒメノミコトとして、命じる覚悟、お嬢にあるか?」
ナンフウの、真っ直ぐな視線と静かな声が痛い。
……でも。
「……オナミヒメとして。命じます」
「了解」
「わかりました」
若い木霊たち……ナンフウと遥が答えた後、大楠は瞬間的に複雑そうに笑んだ。が、すぐに真顔になると、すっと腰を落として片膝をつき、頭を垂れた。
「オナミヒメの、思し召しのままに」




