8 神の庭④
九条の、簡易的ながら『月のはざかい』神事が始まった。
さくやたちもはざかいの中へは入らないものの、神事に立ち会っている。
「なあ、ねーちゃん。あのおっさんやけどさあ……」
神事の準備のために帰宅し、それぞれの自室へ向かう途中の階段で、蒼司がそんな風に言いかけたので、
「コラ、おっさんとか言わへんの! 大体あんた、今朝方九条さんに厄介な不浄、祓ってもろたんやろ? 恩人をおっさん呼びとか、いくら子供やったとしてもアカンやん」
と、さくやはたしなめた。さすがに蒼司はきまり悪そうに口ごもり、
「く、九条サン…」
と言い直した。
「九条サンやけど。ナンか『月のはざかい』って神事のこと、ナメてる気ィするんやけど。あんなんで大丈夫なんか?」
そこは否定できない気がして、さくやは口ごもる。
「うーん。まあ……その辺は。お母さんに任せるしかないんとちゃう?」
神事をすると決めたのは『月の鏡』だ。
父であっても月の一族のことに関しては黙って母に従っているのだ、さくや達はもっと黙って従うしかない。
そもそも『神の庭』で自分自身と対峙する、ということの意味や恐ろしさを、部外者にわかってもらうのは難しい。
でもそこがわからないままでは怨霊、特に『月の一族』の者が怨霊化して本気で呪った場合の怖さがわからないかもしれない。
それがたとえ、怨霊を祓える『天津神』と呼ばれる立場の人であったとしても、だ。
さくやだって偉そうに言えるほどの知識や実力はないが、これでも月の一族の姫、全部を言葉にしなくても、母の懸念がなんとなくわかる。
危険だが、実際に体験してもらうのが一番早い。
しかし『月のはざかい』は、下手をすれば命を落としたり正気を失ったりする可能性のある神事だ。
当然、母はそのリスクについても説明している。
が、九条はその可能性をほとんど気にしていない。
おそらくだが、手術の前などに行われる、何千分の一とか何万分の一程度発生するリスクを事前に説明している……くらいに、受け取っているのだろう。
これは、彼が医師だからこそ余計そう解釈している、つまり半ば以上形式的な確認だろうくらいに思っていそうだ。
実際はそれよりかなりリスクは高いのだが、具体的な数値で説明するのは難しいし、リスクばかり強調しても相手をいたずらに脅すだけになる。
母……つまり当代の長・『月の鏡』の能力が数百年に一度しか現れないとされる、『神鏡』だというところを信じるしかない。
少なくともさくやの立場では、そう信じるしかない。
神事を行うために結木家の者はみな正装を纏い、言葉も少なく徒歩で、ゆっくり旧野崎邸へ向かう。
短い秋の日はすでに西へ傾き始めている。
父は紋付き袴、母は黒の留袖。
さくやと蒼司は制服。
両親の和装は慶事の装いではあるが、日常の町を歩く黒っぽい服装の集団は不吉だ。
黄色い光を斜めから受けて黙々と歩く自分たちの姿は、何も知らない他人が見ると、今から一家心中でもするんじゃないかと心配されかねないな、と、さくやは内心思う。
当たらずとも遠からず、だ。
『月のはざかい』という神事はある意味、ギリギリまで死に近付く神事でもある。
当事者でなく、立会人であったとしても。
神事を行うのは、野崎邸の庭にある泉にそばにある祠の前だ。
もはやここには神……神に準ずる存在だった泉の精霊はいないが、神域の空気は濃く残っている。
ここは、小波で神事を行うのに最も相応しい『場』だ。
イザナミノミコトに導かれるようにして、九条が現れた。
医師としての白衣を身に着けていたのには少し驚いたが、手持ちの服の中で一番『正装』に近い服装を模索したのだろうとさくやは思った。
実際、その白衣は彼によく似合っていたし、白衣を纏うことで最上の意味で引き締まった空気を、彼は纏っていた。
神事が始まった。
母は祝詞を唱え、自らの霊力で『鏡』を生み出す。
今回は九条をアチラへ連れて行くだけの神事だ、鏡の大きさは本気の半分強であろうが、それでもさくやの本気の1.5倍は大きい。
おそらく、今の蒼司の本気がこれくらいであろう。
「あなたの真名の意味するところを、正確には知りませんが。お聞きした話から、親御さんはあなたの名へ、円すなわち円という形の持つまろやかさ、そして大きくあたたかい包容力というイメージを込められたと考えます。我は今、月のはざかいの主としてあなたを寿ぎましょう。九条円よ。すべてを丸く包み込む、太陽にも海にも大地にも似た大きな器を持つ者であれかし、と名付けられし者よ。月の鏡に映る己れを見……己れの、真の姿を知れ」
あらかじめ九条から聞いていた名前に込められた願いや意味から、『九条円』という人物の真名を、母は『はざかいの主』として『設定する』。
これは『はざかいの主』だけに出来る技でもある。
『神の庭』で、魂が今いる器から不用意に抜け出ない為、及び、万が一抜け出そうになった場合は器へ魂を呼び戻す縁にする為、真名――人物そのもの、本質を表す名――が、この神事には必要だ。
真名がはっきりしている者は当然それを使うが、事情があってわからない者や、最近――太古の頃ほど言霊が重要視されない昨今、名前に込めた意味や望みが曖昧だったりする場合が多い――の人間に対し、はざかいの主は真名を設定する。
これはこの神事で必ず行われる手順でもある。
九条は、母の設定した『真名』という言霊の枷に包まれる。
『真名』を与えた者の命じるまま、彼は鏡を覗き込む。
「……」
彼の顔から急に表情が消えた。
半眼、という状態で、瞬きすることもなく彼は、鏡の中の己れの姿を凝視している。
(……早い!)
『己れの姿を見る』という行為に、無意識で抵抗を持つ者は多い。
というか、それが普通だ。
初めて月の鏡を覗いて、すぐ凝視の状態になれる者はあまりいない。
つまり彼は、『見る』行為そのものにはある程度以上、慣れているようだ。
さすがは『神格』だといえる。
不意に彼の身体が、大きくビクッと痙攣した。
つうッと一筋、涙が頬を伝う。
母の表情が変わったのと、イザナミノミコトの
「エン! 九条君!」
という叫び声がほぼ同時。一瞬後、九条の身体から白銀の光が鋭く発して鏡にぶつかり、その跳ね返った光がなぜか槍状になり、九条の眉間を、射抜く!
「……か、はっ」
喘ぐような声をもらすと、九条は力が抜けたように膝を折り、倒れそうになった。
考えるより先にさくやの身体は動いていた。
前に回り、九条の肩を夢中で支える。
立会人がはざかいの中へ入るのはタブーであったが、それどころの事態ではないと本能的に覚っていた。
彼の左手首の辺りから彼自身のものではない、天津神の御力が弾けるのを意識の隅でさくやは感じる。
「エン! この莫迦者、器を捨てるな!」
イザナミノミコトの泣きそうな声。
(……え?)
淡い緑色のかかった白っぽい発光体の蔓が、うねうねと伸びて九条の身体を包み始めたのだ。




