8 神の庭②
それから。
円は結木夫人から教えられた通り、まず軽くシャワーを浴び、歯を磨いた。
洗濯された下着の中から、出来るだけ新しいものを選んで身に着ける。
明日からの仕事用にと持ってきていた、水色のボタンダウンのシャツに紺地に渋い深緑と臙脂の細かい斜めストライプ柄のネクタイを合わせる。
ボトムスには紺のビジネススラックスを選んだ。
髪を整える。
最近散髪に行っていないから、髪の量が多くなってやや鬱陶しい。
生まれつき癖のある、軽くうねる髪にドライヤーを当てて大人しくさせ、ざっと七三に別けておく。
そしてキョウコさんから勧められ、念のために持ってきていた真新しい白衣へ袖を通し、ボタンをきちんと留めた。
「別に白衣は必要ないんじゃ?」
眉を寄せて円は問うが、キョウコさんは首を振る。
「いいから着てなさい。それを着ることで九条君はより、現実とのくびきが強まる。君は九条円という一人の人間であると同時にエンノミコト、つまり【eraser】・エンであり……現実を生きる小児科の先生でもある。どれも忘れないでいることが、アチラでは大事になるからな」
「はあ……そういうもの、なんですか?」
釈然としないながらも円は、いつになくシリアスな彼女の言葉や態度に若干戸惑う。
(彼女は関われない場所へ行くせいかな? ちょっと……神経質になってる?)
密かに円は思った。
これから行われるあらましは聞かされているが、当然ピンとこない。
甘く見る気はないし、未知の場所への恐れもあるが、何とかなるだろうとも思っている。
円には過去、大怨霊である【Darkness】が創り出した恐ろしい世界で戦った経験がある。
『神の庭』がさすがにあそこほどヤバい場所ではなかろうとも、彼は思っていた。
……しかし。
『身綺麗にし、出来るだけ身だしなみを整えるのが望ましい』
と結木夫人から言われたが、医者のコスプレ?をしろとまでは言われなかったのだが。
(……まあ、いいか)
心身へ程よい緊張を与えた方が、特に初心者はうまくいくと聞かされてもいる。
こうして白衣を身に着けると、条件反射的に背筋が伸びる。
円は、国家試験に合格して研修医になった頃から、己れの職業はヒトの命と直接的に関わるのだという強い自覚を持つよう、白衣(もちろんドクターコートだけでなく、スクラブなども含む)へ袖を通すと想起するよう半ば無意識のうちに自身へ叩き込んできた。
そういう意味では白衣は今の円にとって、『正装』なのかもしれない。
「アチラへ行く場合、心身を清めて正装で向かうのが望ましいとされていますが、それは必ずしも『清めなくてはならない』『正装でなくてはならない』ということではありません。身を清めて正装を纏う心がけといいますか、心身へ程よい緊張感を持たせるのがいい、ということなのです」
結木夫人の言葉を思い出し、とりあえず円は納得することにした。
「それから……」
キョウコさんは(こういう時の彼女がいつもそうであるように)どこからともなく、緑色のミサンガ風のものを取り出した。
「これを、左の手首に着けておいてくれ」
「うわあ、懐かしい! ……でも、本音言うとあんまり着けたくはないですねえ」
これは、かつての戦いで【eraser】の『人間としての器を保護するもの』として装着させられた、【eraser】用に特化された保護装備、強いて言えばある種の鎧だ。
小さくて軽そうな見た目に反し、1㎏程度のダンベル並みの負担が腕にかかる。
円用に作られているそれはあの頃とほぼ同じで、緑の地に蔓草めいた緑の葉が連続している柄が刺繍されていた。
なんとなくセンチメンタルな気分になるが、手首に巻き付けた途端、そんな感傷は吹き飛ぶ。
やはり……かなり重い。
「準備は出来たな。そろそろ行こう」
キョウコさんに促され、円はうなずいた。
外へ出る。
ちょっとした林である野崎邸の庭だ、一歩出ただけで湿り気を含んだ落ち葉の匂いが鼻腔をくすぐる。
秋の日は短い。
陽射しはすでに黄色くなっていた。
この広い庭の奥にある、小さな泉のそばの祠。
昨日、蒼司がフルートの練習をしていた場所のすぐ近くだ。
「では。さっそく始めましょう」
祠を背に、髪を結い上げて黒の留袖を隙なく着こなした結木夫人――否、神鏡の巫女姫――が立っていた。
少し離れたところにやはり黒の紋付き袴姿の結木氏がいて、二人の子供たちもその近くに、それぞれの制服をきちんと着て立っている。
(う、うーん。みんなホントに正装だな。俺だけ場違いじゃない?)
今更である。
ここは『医者としての正装』だと思って割り切るしかない。
神鏡の巫女姫が口を開く。
静かでありながらよく通る声で、『月のはざかい』の祝詞を唱え始める。
「……我は月夜見命の末裔に連なる者にして、当代の月の鏡・結木るりなり。内にやわらかな光を抱く瑠璃色の闇のごとく、ひとに安らぎを与える夜の闇のようであれかし、と名付けられし者なり。我が真名において、ここに月のはざかいを敷く」
言葉と同時に彼女は両腕を前へ伸ばし、てのひらを上へ向けた。
(……あ!)
彼女の手の上で、直径にして50㎝はありそうな円盤状に、銀色の光の粒のようなものが凝る。
その粒はまたたくうちに質量を持ち、彼女の手の上でずしりと落ち着く。
(え? 銅鏡? 銅鏡、だよね?)
中高生の頃に社会科の資料集などで見た、古い時代の青銅の鏡を思わせるものがそこにあった。
月の氏族の長が霊力で生み出す、『月の鏡』と呼ばれるものを覗き込むことでアチラすなわち『神の庭』へ至る。
事前にそう聞いていたが、『月の鏡』がここまで文字通りの鏡だとは、円としては予想していなかったので、かなり驚いた。
「九条円」
鏡面を円へ向け、彼女は、祝詞の続きを唱えるように彼の名を呼ぶ。
なめらかに輝く鏡には、当惑した円の顔が映っていた。
「あなたの真名の意味するところを、正確には知りませんが。お聞きした話から、親御さんはあなたの名へ、円すなわち円という形の持つまろやかさ、そして大きくあたたかい包容力というイメージを込められたと考えます。我は今、月のはざかいの主としてあなたを寿ぎましょう。九条円よ。すべてを丸く包み込む、太陽にも海にも大地にも似た大きな器を持つ者であれかし、と名付けられし者よ。月の鏡に映る己れを見……己れの、真の姿を知れ」
引き寄せられるように円は、鏡に映る自分を見つめた。
ふっ、と、意識に、淡い紗がかかったような心地がした。