A ー1 朝④
小波はそもそも、産土神『オモトノミコト』の息吹が濃い。不浄のモノにとって過ごしにくい場所である。
だから、力の弱い小物の不浄はほぼ存在しない。
あちらから避けてゆく。
しかし、神の息吹があろうと影響を受けにくい、それなりの『大物』がたまに紛れ込んでくる場合はある。
そんなモノたちにとって、さくやは絶好の依代と見做された。
強い霊力を保持した、意のままに形を変える素質のある清らかな娘。
身体を欲している不浄のモノにとって、垂涎の依代ともいえた。
事実、乳幼児期の彼女に厄介なモノが憑いて困ったこともあったそうだ。
さくやの記憶にあるのは、幼稚園に通い始めた頃に一度、同じクラスの園児の誰かに憑いていたらしい不浄のモノに、意識を乗っ取られたことだ。
荒れ狂う感情に翻弄され、走って車の前へ飛び出そうとしたところを、母に命懸けの勢いで止められた。
理不尽なまでの苛立ちや理由のない希死念慮に身体が翻弄されたが、さくや自身の心や感情は、抑え込まれてはいたが身体の奥にあった。
己れでないモノに己れを乗っ取られる、表現し難い恐怖。
ひしがれ、抑え込まれた彼女は、狂いそうな恐怖の中、嵐が過ぎ去るのをただ待った。
その時は、不浄を祓うことを得意としている小波最年長の樹木・『義昭の楠』こと大楠義昭が祓ってくれたのだそうだが、さくやの記憶にない。
ただひたすら恐ろしかったというイメージだけが、さながら部分的に鮮明な悪夢のように、記憶の底にこびりついている。
この事件がきっかけになり、さくやには常時、霊的な護衛がつくことになった。
小波には元々、オモトノミコト……否。
オモトノミコトの化身たる『クサのツカサ』である父・結木碧生(草仁)に親しい、三人の木霊がいる。
ひとりは、自宅の庭木である和棕櫚の精・ナンフウ。
もうひとりは津田高校の中庭にいるメタセコイヤの精・遥。
最後のひとりは、小波の生き物で最年長の齢八百を超える小波神社の神木『義昭の楠』たる楠の精・大楠義昭。
彼らが交代で、オナミヒメたる結木さくやに不浄のモノが近付かないよう、あるいは不浄のモノに憑かれた人間が近付かないよう、務めることになり……すでにもう、十年を超えた。
(もういい加減、自分自身の力でヘンなモノに憑かれんよう出来やなアカンねんけどなァ)
ため息を吞んでメタセコイヤの葉をパーカーのポケットへ仕舞いながら、さくやは思う。
この葉は、不浄のモノを牽制するとりあえずのお守りであり、いざという時、護衛のために遥が来るよすがともなる。
枯れていると効果が半減するので、毎日彼から新しい葉をもらっている。
このためさくやはいつも、早くに登校しているのが現状だ。
学校のような不特定多数の人間が集まる場所へは、不浄のモノが紛れ込みやすい傾向がある。
さくやが高校進学時に津田高校を選んだのは、メタセコイヤの遥がいるから、が、第一番目の理由だった。
不浄のモノが紛れ込んでも、校内はある意味、校内最年長の樹木・遥の支配下にある。
場の主ともいえる遥を無視して暴れられるモノは限られるし、そんなモノであってもあと二人の木霊が助太刀に駆け付ければ大抵解決する。
この三人であっても抑えきれない不浄など、もはや祟り神クラスの大怨霊であろうが、そんなすさまじいモノはそうそういない。
それこそ、かつて両親と木霊たちが必死になって鎮めたという亡き伯父のように、元からすさまじい霊力を持った人間が怨霊化したというのでもない限り。
(でも。高校を卒業したら……どうしたらエエんやろ?)
この春に高校へ進学したばかりだが、さくやの不安は切実だ。
小波から多少は離れても、おそらく畿内、頑張れば本州内であるならば、大楠がさくやを守ってくれる。
大楠以上に長く生きた樹木はまずいないし、いてもさすがに大楠には、どの樹木も一目置いてくれる。
大楠には、小波を超えて『場の主』になり得るだけの資格がある。
しかし。
(ずっとそれでエエ訳ないし。こんな状態で、そもそも外国旅行できへん……あー、そこまでいかんでも。もっと言うたら、海を隔ててしもたら心許ないもんなァ。淡路島くらいやったらまだしも、四国や九州、北海道……沖縄とか、無理っぽいしィ)
このままでは修学旅行も心配だ。
聞いた話では、津田の修学旅行は沖縄だそう。今から気が重い。
(……ナンでこんな、ややこしい体質に生まれてしもたんやろ?)
恨みがましい気持ちがどうしても湧いてくる。
同じ両親から生まれたのに、弟の蒼司にはそういった悩みがほぼないから、余計にやり切れない。
おまけにあの子は、その辺の女の子よりずっと綺麗な顔をしている。
大人になればもう少し変わるのかもしれないが、今の彼は女装しても違和感なく『美少女』になれそうな、中性的な美形である。
本人は嫌がっているが(男女両方から邪な目で見られるらしい。月の一族の霊力が強い彼は、他人に性的な妄想を持たれているのがダイレクトに『わかってしまう』為、辟易している。美形には美形の悩みがあるということだろう)、そこもさくやは、内心羨ましい。
父によく似たこの『誰が見ても平凡顔』が、決して嫌いな訳ではないが。
目の前に美人の母や美少年の弟がいると、血がつながっているんだからもっとコッチ側の遺伝子が仕事してくれれば良かったのに、とは、やっぱり思う。
容姿も、霊力も。
(……やめやめ。そんなこと思ってても、何に解決にもならへんやん)
当面、さくやが目指すのは『強くなる』こと。
精神が脆弱だから憑かれやすい、ことは、さすがに体感でわかる。
ただ……どうすれば『強くなる』のかがわからず、行き詰っているのが現状だった。