A ー1 朝③
朝食を終え、身支度をする。
さくやが通うのは、父の母校でもある津田高校。
この春に入学した。
標準服はあるが、基本的に服装は自由である。
さくやは大抵、Tシャツにデニムパンツ的なスタイルで通学している。
今日は、襟元に黒のレースがあしらわれたVネックの黒のタンクトップに、淡いピンクの薄手のジップアップパーカー、ストレートのブルージーンズを合わせることにした。
さくやだってたまには、可愛い系のワンピースやミニのフレアスカートなんかも着てみたいと思うが、とある事情でおしゃれはあきらめている。
『動きやすいこと』。
彼女の外出時の服装の第一義は今のところ、そうなのだ。
その『今のところ』がいつまで続くのか、真面目に考えると暗くなるので棚上げして見ないことにしている。
通学用のリュックを肩にかけ、愛用のキャップを被って彼女は出かける。
父と、庭からナンフウが見送ってくれる。
まだまだ残暑が厳しい大阪の朝だ、出来るだけ木陰を選ぶようにして、彼女は学校へ行く。
『おはようございます、ヒメ』
『おはようございます。今日も暑いですよね』
『おはようございます、こちらの方が風が通りますから、歩きやすいですよ』
街路樹やよそのおうちの庭木、あるいは路傍に生えている草までもが、嬉しそうにさくやへ挨拶する。
これが特別なことだと気付いたのは、小学校に上がる手前だった。
さくやほどでないにせよ、家族はみんな、草木の声を聞いていたからだ。
聞こえる程度はまちまちであっても、人は皆、草木の声を聞いているのだと思い込んでいた。
『普通』の人は、まったく、全然、これっぽっちも、草木の声を聞き取れないと知った日の衝撃を、今でもまざまざと記憶している。
(……こんなにはっきり、聞こえるのになァ)
未だに不可解な気持ちが強い。
校門をくぐる。
この学校は、正門から正面玄関までの道は桜並木になっている。
『ヒメ、おはようございます!』
『おはようございます!』
『おはようございます! 今日もお元気そうですね』
『……あの、ヒメ』
元気な挨拶に紛れ、逡巡するような声が聞こえてきた。さくやはそちらを見る。
桜たちの中で一番年長の樹だ。
樹木の格は年功序列で決まる。
長く生きているものが尊重されるのが決まりだ。
『ヒメ、お父様はお元気ですか? 最近、こちらへいらっしゃいませんが、お忙しいのでしょうか?』
さくやはゆっくり立ち止まり、桜たちに軽く笑んで見せた。
『大丈夫、父は元気にしてますよ。ただ最近、仕事であちこちへ行くことが増えたのもあって、なかなかこちらへ顔を出せないんです。明日からもしばらく、仕事の都合で東の方へ行くことになってますし。でも父は桜さんたちのこと、気にかけてましたよ。お約束はできませんけど、あちらへ行く前に顔を出すよう、父へ伝えましょうか?』
声には出さずさくやが桜たちへそう言ってみると、ざわめきのようなものが桜たちの間に広がる。
現実には、突然吹いた風に木々が葉擦れの音を立てているように見えるだろうが。
『いいえ。それではかの方のご負担になってしまいます。お父様には、ヒメの方から何卒よろしくお伝えください』
桜の中で最年長の樹が、代表してそう答えた。
『わかりました』
軽く目礼し、さくやは道を進む。
その間、わずか1、2秒……というところだろうか?
一瞬立ち止まり、なんとなく木を見上げた後、歩き出した。
そんな風にしか見えないよう、彼女が振る舞えるようになって既に久しい。
歩きながら彼女はぼんやり思う。
桜たちが不安がるのもわからなくない。
彼らは父のことを、高校生の頃から見知っている上、部活動の指導を頼まれていたり、校内の樹木を研究対象のサンプルに使わせてもらっていたりした事情で、最近まで父は、よくこちらを訪れていた。
しかし、恩師の研究室を引き継ぐ形で准教授になった二年前ほどから、大学関連の用が増えた。
必ずしも父の望む働き方ではないが、その辺は『大人の事情』『浮世の付き合い』。
仕方がない部分もあろう。
さくやはそのまま中庭に向かう。
そして、中庭の中央にそびえるメタセコイヤの巨木の下で立ち止まった。
「おはようございます」
ささやきかけると、メタセコイヤの陰から津田高の標準服をきちんと身に着けた少年が現れた。
「おはようございます、さくやさん」
耳に優しい声でそう言ってほほえむ彼は、茶色がかった柔らかな髪の、品のいい美少年だ。
『美少年』である弟を身近で見てきたさくやであっても、彼のことは『美少年』と表現するしかないと思っている。
(さすがに本人には言っていないが)
一見すると、この学校の先輩にあたる男子生徒のように見えるが、実は彼も木霊だ。
樹齢百年を超える、この学校の樹木の中で一番年長であるメタセコイヤの大樹が彼である。
「今日の分をお渡ししましょう」
そう言って彼は、自らの葉をさくやへ渡す。
彼女はそれを受け取り、軽く頭を下げる。
『オナミヒメ』たる彼女は、さまざまの特殊な霊力を持っているが、それは必ずしもいいものだけではない。
小波という町の産土神である『オモトノミコト』は水神であるが、水というものはあらゆるものを受け入れ、あらゆる形になれるという性がある。
霊的な意味でも『オモトノミコト』の娘であるさくやには、その水の性が強く受け継がれていた。
有体に言うなら彼女は、依代体質……だったのだ。