5 月と語らう⑤
夜は明けたようだが、薄暗い。
さくやはのろのろと身体を起こした。
午前5時には少し間がある。
奇妙な夢を見た。
ただの夢でない可能性の高い、夢だ。
(せやけど。私に……私に何が出来るのん? 出来ることなんかないやん)
何だか泣きたくなってくる。
九条円に対して特別な思いがあるのかどうか、今のところさくやにはよくわからない。
一昨日、初めて会ってひとことふたこと、話しただけ。
家族と一緒に夕飯を食べ、お茶を飲んだだけ。
今のところそれだけの人なのだ、特別も何も思いなど育ちようがない。
彼に対して嫌な印象は全くない。
ごく常識的で優しそうな人という印象であり、蒼司を診ている様子からも誠実なお医者さんだろうなとも感じている。
彼の中身が対外的なその顔と違い、一筋縄ではいかない手強い存在だということはさくやには見えるが、別に彼女だけでなく結木家の者なら皆、会った瞬間にわかるだろう。
もっと言うなら結木家の者でなくても、ちょっと鋭い人ならわかる筈だ。
うまく表現しにくいが、彼は、存在そのものが際立っている。
年齢・性別・美醜や社会的な立場などを超え、人がおのずと頭を下げたくなるような『威』あるいは『徳』が備わっている……というのだろうか。
彼本人はあまりわかっていない様子だが、その辺の雰囲気は父のたたずまいに似ている気もする。
『神格者』と呼ばれる者に共通した、特性のようなものなのかもしれない。
そんな人が自ら『死へ向かう』のを、さくやごとき中途半端な霊力しかない者が止めるのなど、不可能だ。
両親の結婚前、事情があって父は一度、死にかけたのだと聞く。
母が必死になって黄泉平坂まで追いかけて引き留め、連れ帰ったらしい。
でも母は、『神鏡』とまで呼ばれる月の一族でも稀なる能力者。
『神格者』の父であっても引っ張れるくらい、霊的な意味での腕力も強い。
さくやとはまったく違う。
霊的な腕力でいえば、正直『月の若子』である弟の蒼司でも『神格者』の魂を引き戻せるか、あやしい。
……だが。
知り合いになったばかりとはいえ一緒に食事やお茶を楽しんだ人が、近々死ぬかもしれないと聞かされ、何も感じないわけがない。
(出来るだけのことは……やってみたいやん)
ぼんやりしていて彼に死なれでもしたら、後々まで後悔しそうだ。
もぞもぞと起き出し、さくやは身支度を始める。
「ナンフウさん」
薄暗い庭に出て、さくやは呼びかける。
「おう。なんや、どないしてん?」
打てば響くように返事があった。
さくやが幼児の頃からビジュアル的にほとんど変わらない、おそらくいつまでも青年の姿であろうさくやの師匠は、真面目な顔で巨木の陰から現れた。
「ナンフウさん。ちょっと相談があるんですけど」
目顔で続きを促すナンフウへ、さくやはひとつ、大きく息をつく。
「あの。私。さすがにフィジカル面はある程度、強くなったんやないかと思うんですけど。でも……霊力って言うのんか、そっちも鍛える必要あるかなって切実に思うようになったんです、その、精神的に強くなるのを待つだけやなくて」
さくやは考えながら言葉を続ける。
「精神の強さとか一朝一夕ではどうにもならへんけど。身体を鍛えるのとおんなじくらいの速度で、霊力の方は鍛えられるかなって。そやないと私、いつまで経っても木霊の皆さん頼りで、ろくに小波の外へも出られへんでしょ?あ、潜在的っていうのんか絶対的っていうのんか、そういう部分は変わらへんと思ってます。でもその……使い方? 私なりの適性に応じた、最大限に力が発揮できる使い方を、出来るだけ習得したいと思うんです」
「……ほう」
少し驚いたのだろう、ナンフウは一瞬、目を見開いた。
「それで。師匠の目から見て、私の適性はどんな感じとか鍛えるためにはどうしたらエエとか、教えていただきたいなって思たんですけど……」
「なるほどな。今までと違うところへ目が向いたんは、悪いことやない」
ナンフウはうなずいたが、頬を引いて鋭い眼光をさくやへ向けた。
「悪いことやないけど、お嬢。『私なりの適性に応じた、最大限に力が発揮できる使い方』で、ダレとナニと闘うつもりや?」
「は? え? いえ別にそんな、闘うとか想定してません……ってか、強いて言うなら自衛の為ですけど?」
困惑顔のさくやへ、ナンフウは問う。
「訊くけど。お嬢の持つ霊力で、突出しているのは何や?」
「よ……依代体質、です」
うつむき、苦い小声でそう答える彼女へ、ナンフウは困ったように笑う。
「依代体質は確かに強いけど。そもそもお嬢が『依代体質』になるんは、ナンデか考えたこと、あるか?」
「え? えーと?」
「お嬢は納得しにくいのかもしれんけど」
やや遠慮した口調で、ナンフウは言う。
「お嬢は『オナミヒメ』。小波の産土神たるオモトノミコトの娘。リアルにしても霊的にしても」
「それは……何回も聞いてます」
首をひねるさくやへ、
「……あんまり意味、わかってへんのやな」
ナンフウは苦笑する。
「坊が『月の若子』って呼ばれるんと、同じような意味やねんけどなぁ。お嬢は月の末裔でもあるけど、本質的には次代の『オモトノミコト』なんや。水神の娘で泉そのものでもある姫神は、要するに水神なんや。つまり……水というものの強みと弱みが、お嬢の強み弱みになるやろうな。そこへプラスα、月の一族の能力も持ってる。どっちもかなりとりとめのない、扱いにくい能力ではあるかもしれんけど。お嬢は、かなり稀有な能力者やねんで」
茫然としているさくやへ、ナンフウは真顔で続ける。
「水にして月。どっちも制するのが難しいやろうし、無理に押さえつけるのも良くない、ある意味厄介な能力かもしれん。でもお嬢がこの先、大人として独り立ちする為には、ある程度はコレを制御して折り合い付けて、共存してゆく必要がある。オレが師匠役買って出て、お嬢のフィジカル面を鍛えたのんは、そのための訓練でもあったんや」
不意に彼は張顔した。
「今日、お嬢はひとつ、段を上った。おめでとう。きっかけは何か知らんけど、このままでは埒が明かんと切実に思って行動に移したのは成長や。この先の道は、オレでは指導がしにくいやろうけど。相談くらいは乗るし応援してるで、オナミヒメ」
「え?」
さくやは戸惑う。
先生に質問しに行ったら急に、その質問を待っていたと笑顔で卒業証書を渡されたような気分になったが。
ナンフウの、少し寂し気な明るい笑顔に、ひとつの区切りが今日、来たことを覚る。
覚らざるを得なかった。
自室へ戻り、さくやは、ナンフウとのやり取りを咀嚼する。
(私は……水神の娘。水神、でもある?)
オモトノミコトの娘だとかオナミヒメだとか、物心がつく頃から言われてきた。
ただ、あまりにも何度も聞かされてきたせいか、意味のわからない念仏のように聞き流してきたかもしれない。
己れの本質は『水』。プラスαとして『月』。
だからどうするべきかは、やはりわからない。
(おかあさん……月の鏡に。相談してみよう)
おそらく時間の余裕はない。
さくやは悩んだ末、そう決めた。
 




