5 月と語らう③
気付くと円は【home】のある丘にいた。
さっき宿舎の寝室に布団を敷き、横になった筈なのに。
いつからここにいるのか、まったくわからない。
円は茫然と辺りを見渡した。
高校生の頃から円のお気に入りである、名前のよくわからない常緑樹の若い木がすぐ後ろにある。
日差しや木の葉、芝生の雰囲気が、秋というより春から初夏の頃のような感じなのだが……。
(あ、なんだ! これは夢か!)
身体から余計な力が抜ける。夢なら変なことがあっても当然。
そんな理屈っぽいことを考えながら円は、若木の下に座る。
眼下に広がる眺めは、今の勤め先に近い町ではなく、実家や出身高校の近くの雰囲気だ。
ここから町を眺めるのが、そういえば高校時代の円は好きだった。
特別美しい訳でもない、どこにでもある平凡な町。
だけど円にとって、良いにしろ悪いにしろ身内のような自分の一部のような、そういう町だ。
だからか、このくらいの距離感で見るのが正直、一番ホッとする。
近すぎず遠すぎず。故郷との距離はそういうのが一番いい。
ぼんやりと、ある意味完全に油断して円は、若木の根元に座っていた。
「……九条先生」
遠慮がちに後ろから呼びかけてくる声。
ざっと血の気が引く。身体が瞬きの間に【eraser】としての戦闘状態へ移行。
立ち上がりながらゆっくり振り向くと、少し離れたところに、ぼやけた白い影のようなものが見えた。
「九条先生、私と……」
さながら腕を伸ばすように、白い影の一部がこちらへ伸びる。
「とまれ!」
殺気を込めて円が叫ぶと、影のごときものは硬直した。
「警告する。これ以上、俺や俺の周辺に近付くな。俺は決して、君と逝かない」
「そんな……! 先生、私たちは運命で」
「運命であろうがなかろうが」
彼女の言葉を叩き潰すように、円は言葉を紡ぐ。『言霊』を操るような意識を持って、はっきり、きっぱりと。
「俺は君とは逝かない。どうしても逝きたきゃ一人で逝ってくれ。仮に君と俺が運命で結ばれていても」
円は、今まで鬱積した怒りや苛立ちを言の葉に押し込めるよう、言う。
「そんな運命、叩き潰す! もし君がここで俺を殺したとしても。黄泉津平坂へは俺ひとりで逝かせてもらう。君のそばに俺がいることは、未来永劫、ない!」
彼自身ですら忘れかけていた、最大級の強さの浄化の円陣が刹那、広がる。
白い影のごときものは、声ひとつあげることなくその場から消え失せた。
大きく息をつき、円はその場にしゃがみ込んだ。
左脇腹がじくじく痛む。
痛みと共に気力というか生気というかが、左脇腹から流れ出ていくような感触がある。
(……くそ!)
瞬間的に浄化の光を出しただけなのに、身体へのダメージが健康な時よりかなり大きい。
この傷は、己れと怨霊である彼女とを、淡く淡く、つないでいるのかもしれないなと、円は不意に気付く。
(やられた。あの【dark】はそこを見越して、浄化されるのをものともせずに刺してきたんだ)
そこまでするならいっそ、九条円を刺し殺せばよかったのにと思ったが、ナイフを操る彼女の身体能力的に無理だった可能性を思い付く。
下腹に刺さったのはもしかするとまぐれで、とにかく傷さえつけられれば目的は達成できたのかもしれない。
『魅入られる』という言葉の意味が、じわじわ体感される。
そして。
これは夢だからまだしも、本物の怨霊と対峙した場合。
相手を完全に浄化しきるのは難しいかもしれないなと、円は改めて危機感を覚えた。
(参った……傷が治っても傷跡が残る限り、アチラへ生気が吸われてしまいかねない)
踊るように揺れる木漏れ日を浴び、円は、大きなため息を吐いて目を閉じた。
「……月の若子よ」
冷ややかでさえある声が響き、結木蒼司はハッと顔を上げた。
辺りは白い雲のようなものが立ち込めた大地が広がり、空はどこまでも青く澄んでいる。
蒼司をじっと見つめているのは、角髪に勾玉の首飾り、衣褲姿の若い男――月の一族の祖神・ツクヨミノミコトだ。
ミコトは大きな銅鏡を胸の辺りに抱え、蒼司の目をじっと見た。
その銅鏡に映し出されていた『九条円の見ていた夢』を、たった今まで、蒼司はミコトと一緒に見ていたのだ。
ここは『生と死の狭間』あるいは『神の庭』。
ヒトと神との対話の場である。
ミコトは言う。
「わかるか? アレが天津神の御力だ。問答無用で容赦がない、生かすか殺すかの二者択一。あの男はその御力を自身の身体に受け、任意に顕現できる器を持って生まれた【eraser】……神格者のひとりだ。【eraser】はそうそう現れない、この国の近辺に限れば十年に一人くらい現れればいい程度の、稀な存在だ。その【eraser】の中でもあの男は桁外れに高い能力を持っている。イザナミノミコトはある時、彼は百年に一人現れるかどうかの逸材だと言っていた。言うなれば、九条円はイザナミノミコトの秘蔵っ子という訳だ……どうだ、気が済んだか?」
『気が済んだか?』という問いの意味がよくわからず、蒼司はぼんやりと、古風な美貌を誇る若い男神の顔を見返した。
ツクヨミノミコトは薄く笑む。
「お前は天津神の器を持っていない、残念ながら、な。その代わりと言っては何だが、彼らとは違う質の力を操れる器を持って生まれた。そんなものは望んでいないとお前は言うだろうが、それを言うのなら九条円はもっとそうだろう。彼はお前のように、ヒトの身には過ぎる能力の扱い方や付き合い方を教えてくれる親兄弟なしにこの歳まで生きてきた。その道のりは、お前が思う以上に過酷だったはず。イザナミノミコトが彼を大事にするのは当然だし……お前が『知り合いの子供』以上になり得ないのもまた、当然だ」
「……なっ」
思いがけない指摘に顔色を変える蒼司へ、ツクヨミノミコトは意外にも真顔になって諭す。
「お前の中の剣の性が、イザナミノミコトを主と崇め始めているだろう? やめろとは言わない、無意味だからな。ただ、彼女は天津神。お前の忠誠も崇拝も、彼女にとっては困惑以外の何物にもなり得ないし……お前が九条円の位置と入れ代わることも、あり得ない。彼女を主とするのを止めはしないが、修羅の道になってしまう覚悟はしろ」
少し疲れたように、ツクヨミノミコトは苦笑する。
「お前のような莫迦な恋をする奴は、千年にひとりくらいはいるものだ。月の一族が歴史の影に埋もれていったのも、考えようによればそれがきっかけだったからな」
「ミコト、それはどういう……」
問いただそうとした蒼司の前からツクヨミノミコトは、ふいっと踵を返し……次の瞬間、消えた。
白い大地と紺碧の空の間に、蒼司はただひとり、取り残された。