A ー1 朝②
今朝の練習はあきらめる。
さくやは自室へ戻り、漢字の練習などをして時間をつぶす。
こういう、余計なことを考えてしまう時は、単純作業的な『お勉強』をするのに限る。
もう何度もさらった漢字のドリルを、彼女はまた、さらう。
目と手は、慣れた作業のように漢字を書き写す。
正直、頭は半分そぞろになっているが、だからといって手が止まり、放恣な妄想へ流れることはない。
実にいい歯止めになる。
ついでに漢字も覚えられる。(手が覚える感じで)
おかげでさくやは、抜き打ちの漢字の小テストで大抵満点を取っている。
一石二鳥だ。
「ねーちゃ~ん」
トントン、と部屋の扉を叩く音。
「朝飯」
扉の向こうからぶっきらぼうにそう声をかけてきたのは、弟の蒼司だ。
今年十四歳の中学二年生。
小さい頃はねーちゃんねーちゃんと懐いてきて可愛かったが、最近はむっつりしていることが多い。
そういう『お年頃』だから仕方ないのだろうが、さくやとしてはちょっと寂しい。
「わかった」
返事をし、部屋を出る。階段を降りかけていた蒼司が、立ち止まって振り返る。
「めずらしいやん。今日は天気も悪ないのに、外で訓練せーへんのか?」
「ん、まあね」
適当に流すさくやへ、蒼司はニヤッとする。
繊細な感じの美少年(自分の弟をこう表現するのは姉バカだと自覚しているが、四十過ぎても美人オーラが漂っている母によく似た彼は実際、美少年だと思う)が悪そうに笑むと、妙な色気というかコケティッシュさというか、そういうのが醸し出される。ずるい。
さくやは意味もなく、平凡な凹凸で無難に組み立てられた自分の顔を触る。
「ナンフウとケンカしたん?」
「こら。ナンフウさんを呼び捨てにしない」
さくやが窘めても、蒼司は知らん顔だ。
「ええ~、でもオレ、別にアイツに何にも教わってないしィ。ほんなら対等でええやん」
「教わってなくても。二百歳超えてる木霊さんには敬意を払いましょう!」
メンドクサ、などと呟く弟を無視し、さくやはダイニングへ向かった。
「おはよう」
ダイニングで、エプロン姿の父がふわりとほほ笑む。今日は父が朝ごはんを作ったらしい。
この人は決してイケメン枠に入る顔ではないが、笑顔がいい。
誰が見ても美人の母が、誰が見ても平凡顔の父に惹かれたのも、この独特の柔らかな笑顔のおかげではないかと、さくやは密かに思っている。
「朝飯、クレープ?」
さくやの後ろから響く蒼司の声に、父はうなずく。
「おう。具材もそれなりに用意したで。しっかり食べや」
「かーさんは?」
蒼司の問いに、父は
「今日は仕事の都合で早出や」
などと言っている。
さくやは焼き上げて重ねられているクレープ生地を皿に取り、バターを塗って蜂蜜をかけ、ナイフとフォークを使う。
いろいろな具材と一緒に食べるのも美味しいが、シンプルなこの食べ方が、さくやは一番好きだった。
蒼司は食べ盛りの少年らしく、カリカリに焼いたベーコンやスクランブルエッグなどと一緒に、モリモリ食べていた。
「おい、野菜も食え、蒼司」
父に窘められ、蒼司は申し訳程度にプチトマトをひとつ、口に入れる。
「お父さん、明日から出張やったっけ?」
さくやが問うと、父はコーヒーを飲みながらうなずく。
「ああ。学会があるからな。明日明後日、家を空ける。明々後日には帰ってくる予定や。せやから、特に夜、くれぐれも戸締りに気ィつけてな」
「大丈夫や。任せろや」
下を向いて咀嚼に励んでいた蒼司が不意に顔を上げ、ニヤッとする。
「そんじょそこらのドロボーやゴートーに、オレ、やられるわけないやん」
父の目が少し陰ったが、ため息を飲み込むように彼は、コーヒーを飲み干した。
最近の蒼司に、両親は危うさを感じているようだ。
蒼司自身もそれは覚っているようだが、無視している。
『月の一族』、特に高い能力者であるほど、幼児期から思春期にかけて苦労をする。
これはもう、必然として受け入れざるを得ない現象だ。
ツクヨミノミコトが司るのは『夜の食す国』。
すなわち真昼の光――建前やあるべき姿――の裏に隠された、本音や、弱さ狡さを含めた欲を見通す霊力が、その根幹となる。
具体的に言うのなら。
他人の『夢』を覗き見、場合によると関与できる能力が、『月の一族』の者には強弱の違いはあれ備わっている。
眠って見る『夢』だけに関与する能力であれば、それほどの弊害はない。
しかし、能力の根幹は『本音、並びに本人が隠しているあるいは気付いていない欲』を見通し、関与できること。
『夢の中』は、そうするのに一番都合がいいだけで、覚醒している相手であっても見通すことは可能なのだ。
高い能力者ほど、そして幼いほど、覚醒している相手の本音や欲をあからさまに見通してしまう。
幼児期から思春期の人間はだれしも、己れの心身の危険に対して鋭い恐怖を持っているものだが、『月の一族』の能力者は特に、周りの人間からの拒絶や嫌悪、無関心、稀に歪んだ性欲を向けられることなどにおびえながら、成長する。
彼らは文字通り、心の姿が『見えてしまう』のだから、幼い心に強いストレスを受け、傷を作って成長する。
それは成人後『夢』を司る者に必要な試練でもあるのだが、心を狂わせる者も少なくない。
両親は多くを語らないが、母の兄にあたる人がこの過程で狂い、十四歳で亡くなったあげく、祟り神クラスの怨霊になったと聞いている。
彼を鎮めるのは、掛け値なしの命懸けになったとも。
蒼司は、数少ない写真でおぼろげにしか知らぬその伯父に、よく似ているのだそうだ。
顔立ちも、醸し出す雰囲気も。