4 小波で暮らす⑥
昼近くまで大楠の話を聞き、円は、神社を辞して宿舎へ戻る。
大楠氏は話上手だったし、興味深いこともたくさん聞けた。
泉の縁起、泉の精である水神の娘の話、『龍神使い』と呼ばれた三太という若者の話。
そして、結木氏や木霊たちの話。
今日は結木氏の子供時代の話までしか聞けなかったが、また明日以降、話してくれると約束してくれた。
どの話も、まるで童話かファンタジー小説のような浮世離れた話だったが、自分の身に置き換えればそれが現実だと理解できる。
九条円全体の話ならば別、【eraser】・エンの部分だけフォーカスした身の上話など、安物のSFかファンタジーみたいなもの……だ。
宿舎に戻った彼は、米を研いで仕掛ける。
昼食のおかずは、昨日買った小松菜をざっときざみ、バター醬油で炒めることにする。
(調理ついでに、晩飯用のカレーも作ろうかな)
米はそれを見越して多めに仕掛けた。
昼は小松菜炒めであっさり済ませ、晩は豚小間と玉ねぎのカレーでいいだろう。
カレーを煮込んでいる間、カレーの付け合わせ用と明日の朝飯用に、たまごを2~3個ゆでてもいい。
そんな感じに段取りを考えていて、ふと彼は、我に返ったように思う。
(……そう言えば。こういう、ちまちまちまちましたところが所帯くさいって、あゆにドン引きされたっけ?)
彼女は円の初カノだったし、以来なんとなく女性と付き合うきっかけもなかったから、彼女以外の女性とちゃんと付き合った経験はない。
だから、あゆの感覚が女性の一般的な感覚かどうかはわからない。
ただ、あゆがドン引いた円の思考や行動は、男『らしい』か『らしくない』かで言えばまあ、『らしくない』と判断されるだろう、昨今のジェンダー的には問題あるかもしれないが。
家事の手順をちまちま考える男など、夢見る恋する乙女にとってドン引き案件かもしれないと思う。
(だけどなー。当時俺は実家暮らしだったけど、高校時代よりも母親は、長時間ガッツリ働いてたし。そんなに働くのも、俺が医学部なんぞに進学して予定より学費がかさむようになったからだし。勉強に時間取られるからバイトも思うようにできない俺としては、出来る時には買い物や家事の手伝いくらいやらないと、申し訳なかったからなあ……)
1LDKのセキュリティ対策バッチリの賃貸マンションに悠々とひとりで暮らし、食事はほぼ外食か宅配、勉強や実習が忙しくなってくると実家に頼んで家政婦さんに来てもらうこともある……というハイソなお育ちの彼女と自分など、合わなくて当然だったなと今更ながら円は思い、ステンレスのシンクヘ小松菜と玉ねぎを入れた。
野菜を洗いながら彼は、昨夜、楽しそうに『だしへのこだわり』について語っていた結木氏の顔を思い出し、だしは彼に丸投げなんですと困った風に惚気ていた結木夫人の顔も思い出す。
大学の、バイオ関係の学部の准教授を務めるほどの人だが――いや、だからこそ、だろうか?――、彼も彼の奥さんも、男が家事に関わることに、まったくこだわりはない様子だった。
むしろ、こだわっていると聞くと首を傾げるのではないかと思うほど、自然だった。
自然というより、家事など自分で着替えたり入浴したりに準じるくらいのこと……だと感じていそうだ。
要するに、この辺の感覚は極めて個人的な感覚なのだなと改めて思い至り、円はちょっとだけ、気持ちが軽くなった。
気持ちが軽くなったことでかえって、自覚以上にこの辺のことに、うじうじ引っ掛かっていたのだと気付き、円はうろたえた。
気持ちをごまかすように音高く、彼は、まな板の上の野菜を刻んだ。
さっさと調理をし、炊き上がったご飯、小松菜炒めとゆで卵一個をおかずに昼食を済ませる。
カレーも出来上がったし、炊飯ジャーにはご飯もある。
午後はゆったり過ごそうと、座布団を枕にスマホを眺める。
【home】で静養していた時は、せっかくだからと普段読めない漫画や小説を、ひたすらスマホやタブレットで読みふけった。
著作権の切れている古い小説などを、真面目に読み返してみるとかえって新鮮だ。
昔好きだった漫画もたくさん読み返した。
あの【home】での一週間ほどは、本当にいい『休日』――両親の息子だったり駆け出し小児科医だったりする『九条円』を休めたと感じている。
だが、小波では静養からリハビリに軸足を移してゆきたい。
保健センターの場所をもう一度確認し、市から送付されてきた非常勤の医師への依頼文書を確認する。
仕事内容や時間をよく読み、来週からの仕事に備える。
保健センターは、場所的には旧野崎邸と津田高校の間くらいになる。
月曜は乳児の発育検診、水曜は三種混合ワクチンの接種。
対象は乳幼児。
忘れかけていた戦闘開始の高揚感が、身体の奥底からよみがえってくる。
『生きる』本能むき出しの子供とのガチ勝負はいつも、円が医師を志した根源を思い出させる。




