3 追憶⑤
結木蒼司は今日、習い事のある日だった。
だから学校が終わるとそのまま駅へ行き、電車に乗ってターミナル駅へ向かった。
小学生時代から彼は、ターミナル駅のそばにある音楽教室でフルートを習っている。
蒼司が幼い頃、メタセコイヤの遥がよくフルートを聴かせてくれた。
持って生まれた強すぎる『月の一族の能力』に翻弄され、蒼司は、苛立つことや疲れることが普通の子供よりも多かった。
多かったのだと、後で気付いた。
そんな蒼司に遥はちょいちょい、自身の身体の一部で作ったらしい木製のフルートを奏でてくれた。
本来は晩秋に、自らと仲間たちの落葉を誘う為に吹く曲だと後で聞いたが、聴いていると自然に心が落ち着いた。
蒼司は彼のフルートに、何度も癒された。
基本のメロディはあるが、その時々で多少、曲想や曲調が変わるのも面白かった。
どうやら、遥の気分、あるいは聴き手である蒼司の気分を上手くすくい上げ、演奏しているらしい。
やがて蒼司は、聴くだけでなく自分でも奏でたいと思うようになり、滅多にないことに親へねだってフルートの教室へ通うようになった。
最近『基礎の教本』を終え、それなりに他人が安心して聴けるレベルまで、腕前も上達してきた。
この秋には遥と一緒に、フルートを吹けるかもしれない。
蒼司は密かに楽しみにしていた。
実は小学校低学年の一時期、蒼司は、どうしても学校へ行けなくなったことがある。
特別にいじめられたとかではなかったが、整いすぎた彼の容姿は目立つので、なんとなく遠巻きにされがちだったのだ。
日本という国のコミュニティでは、変に目立つのは得策ではない。
ないが、目立ってしまうものはどうしようもなかった。
蒼司はクラスに溶け込めず、友達らしい友達も出来ずに一学期を過ごし……夏休みが終わって、学校へ行けなくなった。
足が動かないのだ。
目に涙をためて玄関で棒立ちになる蒼司を、両親は仕事場でもあった『ビオトープ』のある野崎邸へ連れて行った。
当時健在だった野崎氏が、夫人と一緒に蒼司を看てくれ、時々勉強も教えてくれた。
その時にちょくちょく遥が、地脈を伝って野崎邸へ来ては、フルートを聴かせてくれた。
その頃くらいまでは、漠然とではあるが蒼司も、遥、庭木のナンフウ、神社の神木である大楠の姿が認められた。
姉のさくやのようにくっきりと彼らの姿は見えないものの、たとえば遥なら、黒っぽい色合いの高校の制服らしいものを身に着けていること、木製らしい色合いと質感のフルートを吹いていること、などがわかった。
「蒼司さん」
そう呼びかけ、ほほ笑みかけてくれる彼の顔が、おぼろげだがわかった。
やわらかそうな茶色っぽい髪、優し気な顔立ちをしているのがわかった。
やがて。
遥の吹くフルートの音色を、心で思い浮かべれば。
蒼司は、学校へ通えるようになった。
だが、中学に上がって一年ほど経った頃、蒼司は彼らの姿が見えなくなった。
ある日、唐突に見えなくなった。
思い当たるのは、夢精があったこと……だ。
大人になったのだと、父が寿いでくれたが。
彼らが見えなくなるくらいなら大人になんかなりたくなかったと、かなり本気で思った。
(でもそのくらいから。オレを、攻撃してくるばっかりやった他人の妄想へ、コッチから攻撃できるようになったんや……)
『月の一族』の子の義務でもある『ツクヨミノミコトへの挨拶』が出来たのも、ちょうど同じ頃だ。
『生と死のはざま』あるいは『神の庭』と呼ばれるこの世ならざる場所で蒼司が出会った祖神は、髪を角髪に結い、勾玉の首飾りに衣褲姿という神話の絵本の挿絵に出てくるような衣装の、ひょろりとした美しい青年の姿をしていた。
「ふふ」
自分の姿を確かめ、満足げにツクヨミノミコトは含み笑った。
「ずいぶんと久しぶりに、この声に似合った姿を見出す子が出てきたようだな。結木蒼司……月の若子よ。水神の荒ぶる魂を引き継いだせいもあるのか、『剣』の性を濃く持つようだが。お前は、次代の鏡だ。範を超えぬよう、身を慎めよ」
祖神なのだから当然であるが、ミコトは実に偉そうにそう言った。
ツクヨミノミコトに言われたことを、当代の月の鏡、すなわち一族の長である母へ報告した。
「月の若子……蒼司は次代の月の鏡。だけど、『剣』の性を濃く…持つ」
母が急に暗い顔になった。
何故母の顔色が暗くなったのかが気になったし、『剣』の性とはどういう意味なのかよくわからなかったが。
気安く聞く雰囲気ではなかった。
母自身も、この辺りのことはもう少し経ってから改めて説明する、と言った。
(あれから、もう半年ほどになるけど……)
母は未だに説明してくれない。
躊躇っているのと同時に、何かを待っているような雰囲気を感じるが、それが何なのかは蒼司はわからなかった。
「……あの」
ぼんやりそんなことを考えながら歩いていた、帰り道。
逢魔が時、という呼び名が相応しい夕闇の中から、蒼司に呼びかける者がいた。
最寄りの駅から出て、姉の通う津田高校に差し掛かった辺りだった。思わず立ち止まる。
「あの。ごめんなさい。ちょっとお伺いしたいんですけど」
高校の高い塀の影に沈むように、遠慮がちに立っている人がいた。
高校生くらいのおねえさんだ。
「なんですか?」
声をかけると、彼女は嬉しそうに笑った。
「実は、人を探しているんです。ちょっと前に、この学校の敷地へ入ったことまではわかっているんですけど。私……勝手にこちらへ入って、探してもいいでしょうか?」
「勝手に学校の中へ入るんは、さすがに問題あるんと違います?」
変なこと訊くなあ、と思いつつも、蒼司は答えた。
だが、それを聞いてあからさまにがっかりしたように肩を落とす彼女が、蒼司はちょっと気の毒になった。
「コッチ来て、校門の前で待ってたら?」
弾かれたように彼女は顔を上げた。
「そちらへ行って、いいんでしょうか?」
「別にかまわんでしょ? 公道やし、誰のもんでもないやん。強いて言うたら市とか府のもんかもしれんけど」
「ありがとうございます!」
そう言って彼女は塀の影から飛び出し、校門の前へ向かって小走りで進んで……消えた。
「……え?」
蒼司は硬直した。
「……嘘。ニンゲン、違うのんか?……アレ」
人間としか思えなかった。
息遣いまで感じられた。
でも。
人間は、突然消えたりしない!
音を立てて血の気が引く。
すさまじいまでの寒気に、蒼司はただ、その場で青ざめ、震えるしかなかった。