3 追憶②
結木氏は約束通り、午後七時直前くらいに迎えに来てくれた。
「どうですか、宿舎の方は」
「ありがとうございます、当面不便はなさそうです。生活に必要なものが過不足なくそろっている感じで」
円がそう言うと、結木氏はふわりと笑った。
「そうですか、良かったです。私も、たまにあそこに泊まり込んで論文まとめたりしてますから、それなりに必要なもんはそろってると思います。2~3日くらいは不自由なく暮らせるとは思いますけど、私はそれ以上、暮らしたことありませんのでね。ナンか必要なもんがあったら、いつでも私やウチの者に声をかけて下さい」
そんな話をしながら、二人は屋敷の正門へ向かう。庭にはそれなりに灯りがともされているが、秋の午後七時は暗い。
かすかに響く水の音。
この敷地内には泉があり、その周辺が『ビオトープ』として保護されているという話は聞いている。
せせらぎの音とコオロギの鳴き声が響く中、歩く。
どこで咲いているのか、木犀の花の香りが強く匂う。
「『昔の人の袖の香ぞする』……木犀の花の香りがする頃になると、そんな古い和歌の一節を思い出しますねえ」
「え?」
「ああ、スミマセン。ただの感傷です」
薄闇の中で、結木氏はかすかに苦く笑った。
「実は私は十四の秋、ちょうど今時分の頃でした。突然、今はビオトープとして保護されてる泉を、守る者としての役目を担うことになりましてねえ」
円は静かに、彼の言葉に耳を傾ける。
『泉を、守る者としての役目』に、言葉以上の重みを感じる。
単純な、たとえば自治会活動的な意味合いでなく……、霊的な意味合い、が含まれているニュアンスを感じる。
「それまで私は、どこにでもおるフツーの中学生として、のほほんと生きてたんですけど。それ以来、この世ならざるものと深く関わることになりまして。最初の頃は神さんとか運命とかを呪いましたねえ、ナンデこんなことになったんかと」
軽い笑声を交え、結木氏は言った。
「……わかる気がします」
【eraser】としての能力が顕現した、高一の初夏。
受け入れ難くて荒れたことを、円は、懐かしさや気恥ずかしさと共に思い返す。
結木氏は薄闇の中、優しくふわりと笑んだ。
「さっき九条さんが、大楠さんに丁重に接されて困ってはったでしょう? 私、なんとなく九条さんの気持ちがわかりまして」
ゆっくり歩きながら、結木氏は言葉を続ける。
「九条さんが成し遂げはったことは、まあ話で聞いてるだけですけど、私もすごいことやと思います。九条さんにしか出来へん、そういうことやとも。でも……あんまり『すごいすごい』言われても、本音言うたら困るでしょう? なんちゅうのか……たとえば。普通の人には持てんくらい重たい荷物があって、でもそれは自分やったら何とか持てる、それ持って決まったところまで運ばんと大変なことになるって、わかってたら。その荷物、フツーの感覚持ってる者やったら、考える前にあわてて持って運ぶでしょ? 持って行かんと、自分も自分の周りも大変なことになるとわかってるんやったら、なおさら。若い頃の私がやったことは、九条さんほどすごくはなかったですけど、意味合いとしてはおんなじやろうなと思うんです。それを、あんまりすごいすごい言われても恥ずかしなってくる、っちゅうのんか……」
「……おっしゃる通りです、結木先生」
なんとなく、うるっとなる。
初めて他人に、この辺の自分の気持ちをちゃんと理解してもらった気がした。
結木氏はふと立ち止まり、円の瞳をまっすぐ見た。
「この感覚、あんまり他人様にはわかってもらえん部分ですから。……孤独で、辛いですよね」
絶句する円へ、いたわるようにふわりと笑むと彼は、先へ進むよう促した。
円はひとつ、深呼吸した。
水気を多く含んだ清浄な森の香りに、どことなく官能的な木犀の花の香りが混じった、冴えた秋の宵。
キョウコさんが『命令』という言葉を使ってまで、円は小波へ来るべきだと言った意味が、ようやく少し、わかった気がした。