Aー1 朝①
薄暗い部屋の中で、結木さくやは目を覚ました。
枕許の時計を確認すると、午前5時少し前。
さすがに9月になると、朝の5時は薄暗くなってくる。
夏の頃のような溌溂とした朝日は望めない。
身体を起こし、彼女は、ベッドから抜け出して着替える。
窓の外がほんのり赤い。今日は朝焼けが美しいらしい。
(もうすぐ早朝練習、外で出来へんようになってくるなあ)
ぼんやりそんなことを思いつつ、彼女はジャージを着、靴下をはく。
階下の洗面所で顔を洗い、軽く髪を整えて庭へ出た。
彼女が自主的に行っている『早朝練習』のために。
9月とはいえ、大阪の朝は涼しいとまでは言えない。大地の底に澱んだような湿気で、朝からもわっとしている。
それでも、さすがに盛夏の頃のようなすさまじい蒸し暑さはおさまってきている。
『早朝練習』にいい季節が近づいてきたのを、彼女は実感する。
彼女はまず、庭の中央に立って呼吸を整える。
胸ではなく、腹の底、あるいは全身で呼吸をする。
全身に朝の空気が満ちたタイミングに、基本の型をひとつずつ、さらう。
小学生の頃から個人的に教わってきた、古武術の流れをくむ護身術の型だ。
しかし……いつもならこの辺りで無心になってくるのだが。
どうも集中できない。
今朝方、起きる直前に見た『いつもの夢』が、何故か気にかかって仕方がないのだ。
「お嬢」
やや不機嫌そうな低い声に、さくやはハッとして動きを止める。
「集中、出来てへん時に型だけさらっても、あんまり意味ないで」
朝の挨拶もなく、ぶっきらぼうにそう言う声。
自宅の庭で最年長の庭木である和棕櫚の陰から現れたのは、二十歳を幾つか越した年頃に見える青年。
黒の五分丈Tシャツの上にカモフラのベストを重ね、ベストと共布のカーゴパンツの彼は、浅黒い肌をした、南国風のエキゾチックな風貌である。
「……はい。申し訳ありません」
彼女はすぐに頭を下げる。
声の主は彼女の武道の師であり、幼い頃から護衛を務めてくれているナンフウだ。
あ、いや、と言葉を濁し、彼は少しだけ声音を柔らかくする。
「いや別に、そないにかしこまって謝る必要はないで。せやけど、一体どうしたんや。なんちゅーか、お嬢らしないやん」
「……その」
逡巡したが、彼女は言った。
「夢を。見ました。その……」
ああ、と、ナンフウはため息を吐くように納得した。
「月の末裔が見る、例の夢やな」
結木さくやはかなり特殊な血筋に生まれた。
そちらの能力は、数百年に一人レベルの母や、母に次ぎ強い能力者の弟ほどではなかったが、それでも夢を司るツクヨミノミコトを祖神とする『月の一族』の長たる『鏡』の直系。
さくや自身も十三歳の頃、『神の庭』と呼ばれるこの世ならざる場所へ向かい、祖神たるツクヨミノミコトと会って成長を寿がれた。
ツクヨミノミコトと対面し、語り合えた段階で『月の一族』としては一人前と見做される。
故に、さくやも立派に月の一族の『姫』だ。
月の一族にはロマンティックな言い伝えがある。
『将来、結ばれるべき伴侶と夢を共有する』という現象が、思春期~青年期にちょいちょい、起こるのだと。
父と母も出会う前から同じ夢を共有していたそうだし、さくやは顔も知らない祖父と祖母も、母自身もちらっと話に聞いただけだそうだが、その現象が起こったのだそう。
だから、さくやが見たこの不思議な夢もその可能性が高いと、母はほほ笑む。
「とても綺麗でとても切ない、そんな夢でしょう?」
すべて見通すように母に言われ、さくやは赤面した。
「せやけど……夢に出てきたんは、ユニコーンだけやで?」
あら、動物なだけまだいいんじゃない? などと母は言う。
「夢の中のお父さんは長い間、常緑樹の若木だったんだから」
常緑樹の若木と、どうやって意思の疎通が出来たのか不思議だが。
現実のなれそめは、母が当時勤めていた公園へ、樹木医として父が派遣されてきたことだというから、夢の共有は後で知ったのだろうとさくやは思っている。
運命の恋人の夢かぁ、そりゃあ気も散るやろうと、訳知りっぽくナンフウはうなずく。さくやは軽く赤面した。
「せやけど。そんなん別に、今まで何回もあったやろ? 今日の気の散り方、ちょっと……」
「あー。近い、んだと思います……」
ぼそぼそと呟くように言うさくやに、ナンフウは軽く目を見開く。
「へえ? ほおぉー……」
ニヤ、と彼は、面白そうに口許をゆがめた。
「我らがオナミヒメに『よばい』かましよる男が、近々、現れんのか? 運命の恋人かもしれんけど、そう簡単にオナミヒメが手に入るとは思うなよ、ユニコーンの君」
「な……ナンフウさん!よ、『よばい』かますって……」
あまりといえばあまりにもあからさまな言葉に、さくやが真っ赤になるが、ナンフウは素知らぬ顔で言う。
「古典で習たやろ? 言い寄ること、求婚することをそういうやんか。……あれ? ひょっとしてお嬢、エッチな方の『よばい』やと思った?」
「……セクハラです!」
叫ぶと彼女は、くるりと踵を返し、家へ戻った。
「ごめんごめん、スマンって」
一応は済まなさそうな声音だったが、後ろに笑いを潜めているくらい、さくやにはわかる。
でも決して彼は、家の中へは入ってこない。
正確には、入れないのだ。
生まれた頃からさくやを守る『にいや』のひとりを自認している彼は、実は最年長の庭木である和棕櫚の木霊なのだ。
声はともかく、彼の姿まではっきりと見ることが出来るのは。
家族の中でも、さくやだけだった。
月の一族の姫ではあるが、小波という土地の産土神の娘としての霊力が濃いのだろうと、母も言っているし木霊たちもそういう認識だった。
ここは大阪の郊外。
かつて水神の恵みを受けてもたらされた泉と共に、静かに命を繋いできた小さな町・小波。
太古の国津神の息吹きが未だに揺曳するこの町で、不思議と隣り合い、生まれ育った娘がいる。
水神の魂をその身に宿す父、神鏡の巫女姫と呼ばれた月の末裔たるを母に持ち、木霊たちに慕われかしずかれてきた彼女。
オナミヒメ。もしくはオナミノイラツメ。
それが物心つく頃からの彼女のふたつ名である。
好むと好まざると、望むと望まざるとに関わらず。