2 交差する①
(い……イザナミノミコトォ?)
彼女をそう呼ぶものがいる、らしいことは聞いている。
古くから付き合いのある【eraser】は、彼女をそう呼ぶこともある、と。
彼は確かに『【管理者】と古くから付き合いのある【eraser】もしくはその関係者』なのだろう。
キョウコさんは苦笑いを浮かべた。
「謙遜する必要は無かろう、オナミの水神。(おなみのすいじん? すいじん……水神? え? 神様なのこの人、と円は心で驚く)すべて本当のことだ。あなたは神格者、この国の古い言葉で表現するなら国津神の系譜を正しく継ぐ方なのだから(ヒー、やっぱり神様なんだ!)」
相手を『神』と呼ぶこと、キョウコさんにしては?相手に対してへりくだった態度、円はとにかく驚いた。驚愕、とでも言った方が正しい。
それに……
(あ……あなたァ?)
自身が『神』の名で呼ばれる彼女が、『君』『お前』以外の、敬意を感じる丁寧な二人称『あなた』を使っているのなど、そこそこ長い付き合いになる円ですら、初めて見た。
「そして……」
彼女は軽く振り返り、円へ視線を向けた。
「あなたにさっきも少し話したが。彼は九条円君。半分、私の身内のような存在だ。少年時代、大いなる不浄である【Darkness】を、同じ【eraser】――あなた方の言葉で表現するなら、天津神の浄化の力を顕現できる、類いまれな器の持ち主――である角野英一と共に、完全浄化した実績を持つ【eraser】だ。もちろん、普段はあなた方と同じように、人間として仕事や学びをして暮らしている。現在彼は、小児科医として活躍中だ」
(いえ、まだ修行中の駆け出しですけど)
胸の中でもぞもぞと思いつつ、円は曖昧に笑って軽く会釈した。
キョウコさんに『あなた』呼びされている彼は、スッと立ち上がって円に会釈した。
体幹のしっかりした、綺麗な立ち姿なのに少し驚く。
年齢を感じさせない、若々しい身のこなしだった。
髪に半ば白いものの混じる、目許に優しげなしわのよった気のよさそうな表情の紳士で、そばにいる者を寛がせる、独特の雰囲気を持つ人でもある。
(彼自身が【eraser】……タイプ・波の【eraser】じゃないのか?)
円の母校である高校の、校門近くにあった年を経た桜の木に感じたのと同質のものを、彼のたたずまいに感じる。
「はじめまして、九条さん。結木と申します。イザナミノミコトには、自分でもわからんくらい昔から、ありがたいことに気にかけていただいております」
なんとも浮世離れた不思議な挨拶をし、彼は、柔らかくほほ笑んだ。
「あ……、はじめまして。挨拶が遅れてしまって申し訳ありません、九条円と申します。い、イザナミノミコトには高校生、16になる頃からお世話になっている者です」
あわててそう言い、円は頭を深く下げた。
不用意に身体を動かしたせいで、下腹からビリッと痛みが走ったが、そこは歯を食いしばってこらえる。
キョウコさんは可笑しそうに、片頬を少しゆがめて円を見たが、特に何も言わなかった。
相手に合わせて彼女を『イザナミノミコト』呼びする円が、可笑しかったのかもしれない。
キョウコさんに勧められ、結木氏の向かいに円は座る。
彼が、大阪にある恵杏大の准教授にして樹木医であること、同時に『小波』という土地の産土神(本性は水神)だと、キョウコさんは言う。
「いえいえ。私はただのオッサンですよ、イザナミノミコト。確かに私は小波という土地との因縁は深いですし、人間ならざるものとの付き合いも、若い頃からソコソコありますが」
そんなことを言いつつ少々困った顔で、彼は、ローテーブルの上からティーカップを取り上げ、静かに紅茶を飲んだ。
謙遜している(というか、かなり本気で彼は、自分は大したことない存在だと思っている雰囲気だった)が、【home】のリビングでお茶を飲んでいる時点で、すでにこの人は普通ではない。
キョウコさんはふと、表情を改める。
「実は九条君は、二週間ばかり前に不幸な事件に巻き込まれ、ひどい怪我を負った。そのせいで、療養を兼ねて三ヶ月ばかり、休職することになったんだ。そうだね、九条君?」
「え? あ? た、確かにそうですけど……」
初対面の人にずいぶんとツッコんだ身の上話をすると焦るが、キョウコさんは圧のある目で円の言葉を抑える。
「少し質の悪い【dark】、つまり。怨霊化しそうな不浄が、最近、彼の周りをうろついていてね。彼が健康だったのなら怨霊の一体や二体、それほど問題はないんだが、ちょっと……今は。状況が良くない。そこで、あなたにお願いがある。彼を小波で匿っていただきたいと……」
「キョ……じゃない、イザナミノミコト!」
あわてて声をかけるが、彼女は真顔で円を見返す。
「九条君。事態は、君が思うより緊迫しているよ。これは【管理者】としての命令だと思ってくれてもいい。君が心から死にたいと思っているのなら、私も、どうしてもそうしろとは言わないが。たとえ健康を損なっている今であっても、怨霊ごときにむざむざやられる【eraser】・エンではない。だが私が見るところ、今回は怨霊と相打ちになる可能性が、五分以上ある。本当に命が惜しいのならば、小波での『療養』をお勧めする」
円は絶句するしかなかった。