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Bー1 刺される⑤

 ようやく退院の許可が出た。

 実際は二週間ほどだったが、その倍は入院していたような気が、円の実感としてはある。


 荷物をまとめ、自宅である1LDKの賃貸マンションへ帰る。

 療養を兼ね、しばらく休職することになったのだ。



 『傷害、あるいは殺人未遂事件』である。

 話が出来る状態になった円の病室へ、警察が何度も来た。


 円には相手の女性と面識らしい面識はないこと、(綺麗に録れてはいなかったものの)音声レコーダーに彼女の声で、一緒に死にましょうとか死ねばわかりますとかの不穏な言葉が入っていたこと、彼女は確かに、円が別の病院の救急科の研修医として勤めていた時の患者ではあるが、その後まったく接点がなかったこと……等が明らかになった。


 加害者の女性は事件後、何故か前後不覚になったままずっと目覚めずにいるということで、彼女サイドの詳細はわからないままであったが。

 直近まで精神科の通院歴があることもわかり、そこの主治医の証言などもあったらしく『一方的に恋心を募らせたあげく、一緒に死ぬことこそが恋の成就だと思い込んだストーカー女性による殺人未遂事件』という結論になった。



 そういう結論にはなったが。

 あまりにも騒ぎが大きくなってしまった。



 大量出血した上に腹膜炎をおこしかけたりで、一時は生死の境をさまようほどだった円は、かなり体力が損なわれていた。

 その上、警察の取り調べ等で精神的にかなりすり減った彼は、心身ともに今まで通りの仕事ができる状態ではなかった。


 勤め先の病院側も、今すぐ彼を復帰させるのは消極的であった。

 『九条円』という人物に、人間としても医師としてもまったく問題はないと認識されていたし、同僚たちからも同情する声が大半だったものの。

 やはり『女性に刺された』という事実が変な憶測を呼び、無いこと無いこと捏造され、おかしな噂が病院の内外に広まっていた。

 病院側としては、ほとぼりが冷めるまで九条円医師を休職させるという流れになった。


(休職中の賃金はないかわり、身分の保証はされたけど。傷病手当も出るし掛けていた保険金もおりるはずだけど……キツイな)


 今後の医療費もかかる。

 いくらかは蓄えもあるし、生活できなくはないだろうが、余裕もない。


(……やれやれ)


 何故被害者がこんな苦労を背負い込む羽目に陥るのかと、げんなりする。


 休職中は実家へ帰ることも考えている。

 入院中、両親が交替で来てくれて何かと世話をしてくれた。

 退院後は実家で養生しろとも言ってくれている。

 円も、帰った方がいいかなとは思っている。

 ただ、通院の煩を考えると二の足を踏んでしまうのだ。

 基本は経過観察になるから実家近くの病院でもいいが、事情の分かっている勤務先の病院の方が安心感はある。

 しかし実家から通院するとなると、車を使って片道だけで1.5~2時間になるだろう。

 考えただけでうんざりする距離だ。


 鬱々と考え事をしながら彼が、冷蔵庫に保管したままだった生鮮食品(消費期限の切れた飲みかけの牛乳やたまご、しなびた野菜など)の処分をしていると、携帯電話が鳴った。


「退院おめでとう、九条君」


 珍しく、キョウコさんからの電話だった。


「君、今から時間、取れないか? 会わせたい人がいるんだ、可能なら今すぐ【home】へ来てほしいのだが……」


 【home】は彼女が常駐して管理している、現実リアルとの境界線上にある不可思議な場所だ。

 彼女に認められた者以外、出入り出来ない設定になっている。


「わかりました」


 特に急ぐ用はない。

 彼は、玄関の靴箱の上に置いている、自宅の鍵や職場のロッカーキーのついたキーホルダーを手にした。

 戸締りを確認し、靴を履き、キーホルダーについている丸いチャームを指でつまみ上げる。

 小さめのスーパーボールほどの大きさで水晶のような質感の、黒っぽい半透明の球形のチャームだ。

 どんな仕掛けになっているのか、球の中央部に白で『4/3πr³』という球の体積の公式が浮かんでいる。


「【home】へ帰還」


 チャームへ向かってそう言うと、その場から彼の身体は、忽然と消え失せた。



 軽い眩暈の後、円は【home】にいた。

 頂上に、広めの芝生の庭があるシンプルな一戸建ての家が建つ、小高い丘。

 現在は円が暮らす街を見下ろす、現実にはどこにもない架空の時空に存在している。


「すまないね、病み上がりの君に来てもらうことになって」


 家の玄関が開き、キョウコさんが顔を出す。

 今日は黒の繊細なレースをたくさん使った、たっぷりの布で仕立てられたフレアースカートの黒のワンピースだ。

 どうも最近、彼女はゴスロリ調のスタイルがお気に入りのようだ。


(昔は『シンプルイズベスト』っていうか、葬儀場のスタッフみたいな黒のパンツスーツを愛用していたのになぁ)


 好みが変わったのかもしれないが、デザインはともかく『黒』の多用だけは変わらない。

 そこは、彼女の変わらない好み・こだわりなのかもしれない。


「リビングにお客様がいる。君に近しい部分のある人だ」


「近しい部分? ひょっとして、【eraser】、ですか?」


 廊下を歩きながらマドカは問う。


 他の【eraser】とは実際のところ、今は亡き師匠であるスイこと角野英一氏以外、円は出会ったことがない。

 そもそも【eraser】になれる人間は、その素質上、極端に少ないとも聞いている。


「そうとも言えるが。では彼が厳密な意味での【eraser】かと言えば、違うとしか言えない。ただ、聖域の(あるじ)であり、かつ【eraser】・である霊木の主でもあるという、現在の奇跡のような人だとは言えるな」


「ナンか……どえらい紹介のされ方ですけど。勘弁してくださいよ、イザナミノミコト」


 リビングのドアを開けると、ソファに畏まった風に座っている中年の男性が、もぞもぞと西の地方のニュアンスのあるイントネーションでそう言った。

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