18 コーダⅢ⑤
細い細い山吹色を、手繰るようにしてユニコーンの円は駆ける。
額の角は紡のように、糸状の肩巾を巻き取る。巻き取るたびに角と一体化し、今や彼の角はほんのりと金色がかった山吹色だった。
彼女の肩巾と一体化するからだろうか。
円はもはや、周りの状態が気にならなくなっていた。
彼の目に映るのは、何度も夢で見た光景。
白い衣装に鮮やかな山吹色の肩巾を纏った彼女が、例の新緑の丘まで来てくれる姿だ。
(俺は彼女を『黄泉津姫』と呼んだ……)
何故なのかはわからない。
ただ、彼女が『死』に近しいこと、それにも関わらず不吉な存在ではないことは覚っていた。
その彼女に迎えに来てもらえた、という静かな喜びさえあったのだ。
円にとって『死』は、忌まわしいだけのものではない。
スイと死に別れて一、二年は寂しくてたまらなかったし、すべて消えてなくなる『死』という絶対の終着点を、自分なりにどうとらえるべきか迷ってもいた。
ただ、自らの死を覚った病床のスイが、まるで遠足を待つ少年のように笑っていた顔が、とても印象に残っている。
己れに出来ること・やるべきことをやり切った彼の顔は清々しく、全体的に病み疲れてはいたが、彼と知り合って以来一番といえる、とても穏かないい表情で笑っていた。
その顔に、『死』の恐怖を突き抜けた先にある境地を見、ある種の憧れを持ったのも事実だ。
それが幼少時からの、厭世観に似た希死念慮を密かに強化したきらいはあるかもしれない。
……が。
(あの境地へ至れるのは。『今生を生き切った』者のみ)
感傷に支配されがちだった高校生の頃を過ぎ、医師として現実を生き始めた今。
円はそう思う。
十代の頃のように感傷に支配されることも皆無ではないが、それなりに大人になった今、観念ではなく実感として思う。
今生を生き切らない者に、本当の意味で穏やかな死はない、と。
(……さくやさん!)
君はまだ、今生を生き切っていない!
君はただ、オオモトヒメノミコト時代の宿題を終えただけ。
『結木さくや』としては、今生でクリアしたい宿題さえ、抱える前にリタイヤしていないか?
ダメだ、それで達観なんてダメだ!
君の人生だから好きにすればいい、そうかもしれない。
でも。可能なら『結木さくや』として是非生き切ってくれ!
「俺が黄泉津平坂の向こう側へ転がり落ちないよう、引き止めたのが君のわがままならば。今度は君が、俺のわがままを聞いてくれ」
少しずつ太くなる肩巾を手繰り寄せつつ、祈るような気持ちで円は言う。
「俺に出来ることなら何でもする。だから黄泉に沈まず、生きてくれ!」
君は無自覚だっただろうが、君のおかげで俺は少なくとも二度、救われた。
二度目はさっき、そして一度目は。
「あの夢だ。君が、痛みにうめいているユニコーンの俺を訪ねてきてくれたこと。救われたんだ、あの丘で、ただ独り痛みに耐えているのは自覚以上に辛かったから。たとえ通りかかっただけであっても、気にして、来てくれる人がいると知ったことでどれだけ救われたか。その経験がないままだったら、俺はきっと、もっとあっさり斉木千佳の誘いに乗っていた気がするよ……」
いつの間にか円は、ヒトの姿に戻っていた。
かろうじて布と呼べる太さになってきた肩巾を、腕に巻き付けるようにして手繰る。
静かに静かに、根気よく。
ついに、彼女らしい小さな後姿が見えてきた。
ひとつ大きな息を吐き、円は慎重に肩巾を手繰る。
一歩、一歩、近付いてゆく。
彼女の背中がはっきり見える位置まで来た瞬間、気配を感じたのか、彼女は振り返った。
「く、じょう、さ、ん?」
こぼれ落ちそうなほど目を見開いた後、彼女はみるみる青ざめた。
「どうして! ここへ、命のある人は来たらアカンのですよ! ここまで深く来てしもたら、帰れる人も帰られへんように……」
「帰れます」
円は断言した。
不思議と帰れる自信がある。
「帰れますから、帰りましょう。……さくやさんも」
「だから!」
怒りなのか苛立ちなのか、さくやは大きな声で叫んで地団太を踏む。
その畏まった装いに相応しくない頑是ない仕草だったが、円は嫌な気はしなかった。
むしろ、ようやく人間らしい彼女の顔を見た気がして、ちょっと嬉しくなった。
「帰りたくても帰られへんって、さっき何回も言うたやないですか!」
「帰れる。君のたとえで言うなら、コップの水を満たせばいいんだろう?」
腕に山吹色の肩巾を巻き付けたまま、円はいきなり、額にある角を再び折った。
血は吹き出さなかったが、彼の額に残った方の角は鮮血の色に変わった。
予想外の事態に絶句し、立ち尽くすさくや。
その額の四弁の花の真ん中へ、彼は折り取った角を素早く差し込んだ。
角は何の抵抗もなくさくやの額にするする埋まり……瞬くうちに彼女と一体化して、四弁の花を朱金に輝かせた。
「……コップの水は戻りました。帰りましょう、さくやさん」
「もど、戻った、戻ったんやなくて。こここ、これって、九条さんが私に、生命力をわけてくれた……」
どもりながらもごもご言うさくやへ、円はからりと笑う。
「まあ細かいことはいいじゃないですか。あ、これは自己犠牲じゃないですし、他人を優先する、例の偽善の悪癖でもないですよ。言うなれば、俺のわがままです」
自分の言葉が自分へ返ってきたことに、さくやは複雑な顔をする。
「さくやさんが俺に生きてほしかったように、俺はさくやさんに生きてほしいんです。『結木さくや』として、ガンガン生きてほしいんです。オオモトヒメノミコトの宿題済ませただけで『結木さくや』をあっさり終わらせるなんてショートカットな人生、このおじさんは許しませんよ。なんなら、とことん付き合いますから、一緒に現世へ帰りましょう」
「……でも」
「じゃあ、言葉を変えて」
円はひとつ、大きく息を吐き、真剣にさくやの瞳を見た。
「最初に夢で逢った時から。俺は、いつかあの女神様にお礼を言いたいと思っていました。誰もいないあの場所へ、あなたはたまたま通りかかっただけかもしれない。でも、通りかかってそのまま行ってしまわず、気に掛けてくれた。あの時の俺にとって、そのささやかな気遣いがどれほど嬉しかったか。あれは、女神のあなたが三太の欠片を気に掛けただけかもしれません。だとしても俺は、嬉しかったんです」
「九条、さん」
「俺は俺で。俺の中の三太の欠片が、あなたの中の女神の欠片を懐かしんでいるだけなのかもしれません。ひょっとすると今は、その気持ちが半分以上なのかもしれません。でも俺……九条円は。結木さくやという人をもっと知りたいし、一緒に時間を過ごしてゆきたい、そう思っています。だから……一緒に現世へ帰りましょう」
「九条さん、でも……」
「大丈夫。帰れますよ。あのふざけた、クソッタレな超越者・ヒトコトヌシに俺は願ったんですから。あの神は自称とはいえ、どんな願いもひとつだけは叶える神です。己れのプライドにかけても、出来ないとは言いませんから」
腕に巻き付く肩巾を、円はそっと引いた。
肩巾に引き寄せられ、軽くよろめきながらさくやは、円のパーソナルスペースへ入る。
戸惑ったように目を泳がせる彼女へ、円は安心させるよう、仕事で鍛えた柔らかな笑みを浮かべる。
「今はまだ、愛しているとは言えませんし、言いません」
さらに混乱した目の彼女へ、円は頬を引き、真面目に言葉を続ける。
「でも惹かれています。知り合ったばかりの、結木さくやという名前のひとりの女性に。おじさんの俺に嫌悪感がないなら、まずはさくやさんのボーイフレンドのひとりに、加えてはもらえませんか?」
「……九条さんは、おじさんやないです」
軽く赤面し、さくやは目を伏せながら言う。
「九条さんは九条さんです。三太の欠片がどうとか、天津神エンノミコトがどうとか、色々ありますけど。単純に私は九条円という人が……気になります、多分、初めてお会いした時から」
思いがけない言葉。
衝動的に円は、さくやの細い肩を抱き寄せ……、
気付くと彼はおもとの泉の祠の前に、さくやを抱きしめた状態で立っていた。
「……おかえりなさい」
祠のそばにある常夜灯がともっていた。
その光を受け、結木夫人が立っていた。
夫人のそばに結木氏と、見たことのあるような無いような、黒いパンツスーツの初老のご婦人がいた。
「おかえり、やんちゃたち。無事で何よりだが……、私のアバターが一気に老いるほど、途轍もないエネルギーを使ったぞ。日常に戻り次第、しっかり仕事をしてもらうから覚悟してくれ」
「……え?」
円はしげしげと、『美魔女』といって遜色ない初老のご婦人の、きれいに整った顔を見た。
「は? え? も、もしかして。キョ、キョウコ、さん?」
彼女はニヤリと笑ってみせた。
「ああ。君からは主にそう呼ばれている、得体のしれないモノだよ、九条君」
不意に咳払いが聞こえてきた。結木氏だった。
「ま。積もる話は色々あるやろうけど。いったん離れませんか? お二人さん」
指摘されて初めて円は、さくやを抱きしめたままなのに気付いた。
あわてて両腕をゆるめる。
さくやは真っ赤な顔できまり悪そうに後退り、母親の隣へ逃げて小さくなった。
次元のはざまで、ヒトコトヌシがひっそりと苦笑した。
「ふん。なるほどね。……交響曲『青春』のコーダ、これにて終了、だな」
呟くと彼は、大事に持っていた指揮棒を虚空に消した。
そして少し寂しそうにまぶたを閉ざし……、虚空の中へ己れの姿も溶かし、消えた。
しばらく残響のような残影のような、もやもやしたものがその場に残っていたが、やがてそれも虚空に呑まれ、消える。
今までとは少し、色合いが違うものの。
【世界】に日常が戻ってきたのだ。




