Bー1 刺される③
「九条先生。先生はきっとまだ、気付いていらっしゃらないでしょうけど」
斉木と名乗った彼女は、心から嬉しそうに言葉を続ける。
「先生と私は、運命の赤い糸で結ばれているんです」
円は白衣のポケットに入れている、音声レコーダーのスイッチをオンにした。
別にこういう時のために、常に音声レコーダーをポケットに入れているのではない。
後でカルテを整理する時、あるいは診察を振り返る時のために、円はレコーダーを持ち歩いている。
気になる患者の問診時に、本人もしくは保護者の許可を取った上で使用している。
この距離で、どのくらい音が録れるかわからないが、剣呑な事態になりそうなのは確実だ。
客観的な証拠は、ひとつでも多い方がいい。
「だから。死んでください……一緒に」
(……はあ!?)
付き合って下さいとか結婚しましょうとかじゃなく、いきなりソコへいくのか!
一周回って冷静になったのか、思わず円は、心の中でそんなツッコミを入れた。
冷静になったお陰で、周りの状況がおかしいのにも気付く。
あまりにもひと気がない。
職員用の食堂は地階にある。
エレベーターで地階に降りたところまでは、普通に職員の姿があった。
しかし、エレベーターホールからさほど離れていないのに……この近辺には何故か、円と斉木以外、誰もいない。
(久しぶりの……『大物』、か?)
人の流れをコントロール出来る程の力を持つ【dark】は大抵、明確な意思を持って行動している。
九条円――すなわち【eraser】を狩りにきたと考えて、まず間違いない。
しかし『ひと気がない』のは、かえってこちらのアドバンテージなのだが、彼女に巣食う【dark】はそこまで気付いていないのだろうか?
それとも、そこも作戦なのか?
「……困りましたねえ。私は死ぬ気、ありませんよ、斉木さん」
じりじりと後退り、距離を保ちながら円は、あえてのんびりした口調で言う。
「大丈夫です」
斉木は、多幸感に満ちた明るい声で言う。
「一緒に死ねば、これが運命だったってわかりますから。……ね?」
右手に刃渡り15㎝ほどのペティナイフをしっかり握り、彼女は一歩、近付いてくる。
(いやいや、『……ね?』とか言われても)
そもそもの話、彼女自身が元々かなり病んでいる人のようだ。
彼女に巣食っている【dark】を今すぐ浄化できれば、さすがに少しは正気に返るだろうが。
浄化するためにはある程度、彼女に近付かなければならない。
だが今、この人に近付くのは危険すぎる。
「さあ、一緒に……」
言葉の途中で彼女は動く。
信じられないほど素早い、そして迷いのない動作で彼女は、刃先を円へ向けたまま走り寄ってきた。
抵抗するとかしないとか、そんな隙すらなかった。
左脇腹に衝撃がきてから、円はあわてて彼女を振り払う。
振り払う刹那、
(……この、ボケが!)
と心で叫びながら、十年ぶりくらいになるであろう、本気の浄化の能力をぶつける。
周りが一瞬、白い光に満たされた。
彼女に巣食う【dark】は、光の中であっけなく消滅した。
振り払われ、よろめいて床に倒れた斉木千佳は、ハッと我に返った。
血に染まった自分の手、床に転がる血に染まったペティナイフ。
目を上げると、壁にもたれて脇腹を押さえている、まだ若い男性医師が小さくうめいていた。
「え?……く、九条、先生?」
うつむいている医師の髪は、記憶にある柔らかなウェーブ。
声に、彼は顔を上げる。
汗の浮いた、血の気のない白い顔。
トレードマークの縁なし眼鏡はかけていなかったが、黒曜石を思わせる大きな黒い瞳は、確かに彼だ。
真新しい白衣に、綺麗な赤がじわじわ、にじんで広がる……。
「あ、あ……い、いやあああー!!」
絶叫が廊下に響き渡る。
その凄まじい声が自分の喉から出ていることを、他人事のように感じながら、千佳は意識を手放した。
凄まじい声に、さすがに人が寄ってくる。
複数の乱れた足音、甲高い声。
円はようやく、知らず知らずのうちに止めていた息を吐き出す。
(……ああ、くそ!)
白衣の上から傷口を押さえ、円は舌打ちしたい気分で思う。
せめて、ペティナイフは抜かないでほしかった。抜かないでいた方が、出血を抑えられたのに。
(マジか、腸までイッてるくさいな、これ)
身体から徐々に力が抜け、意識が朦朧としてくる。
壁にもたれたまま、円ははずるずると座り込んでしまう。
「九条先生!」
耳へ飛び込んできた声に、円はなんとなく安心して目を閉じる。
人垣の中に知り合いがいたらしい。
それにここは総合病院、速やかに処置され、おそらく死ぬことはない。
いいのか悪いのか、何とも言えないが。
混濁した意識の中で彼はふと、そんなことを思う。
仮に、医学的に危ない状況になれば、【eraser】の【管理者】が、円を延命させるべく手を打つはず。
天寿をまっとうするまで、逆に言えば円は『死ねない』。
「……ふふ」
円は嗤う。自分の人生そのものが、ひどく滑稽な茶番のような気がした。
(殺して、俺が手に入ると?……それは無理なんだよ、可哀相だけど)
無理なんだ。
だって、俺は『死ねない』んだから。
だからごめんね。
名前しか知らない『斉木千佳』さん……。
その辺りで、円の記憶は途切れている。