婚約者とイチャイチャするお嬢様のお話
――親が決めた婚約者とは、どのように接するのが正解なのだろうか。
私は対面の席に座っている、同い年の青年の顔をちらりと見つつ考える。
婚約者の存在を知らされたのは、この寄宿制学校に入学する少し前だった。なんとも唐突な話だが、議会で交流した父親同士が意気投合し、そのままノリで決めてしまったらしい。
もちろん貴族の家柄では許婚の文化も根強いことを承知していたが、いくらなんでも当人同士の意見くらい聞いてやれと私は思ってしまった。
そして、ほとんど入学直前に婚約者たるアレクシスと顔合わせをし――
――悪くはない。
私が抱いた感想は、そのようなものだった。
身長は平均より高く、顔立ちは凛々しさがあり、性格は穏やかで癖がなく、会話からは良識と常識がうかがえる。至極真っ当な好青年だった。
一目で恋に落ちるような魅惑の美青年などではないが、長く付き合っていくに値する良き人間。
少ない交流ながらも、私は婚約者に対して悪くない印象を抱いていた。
そして――
――大して進展もないまま学校生活を送りつづけ、今に至るのである。
「――ミラベル」
ふいに、彼はこちらの名前を呼んだ。
私はブラウンの髪の青年を見つめる。その瞳は、どこか困ったような色が浮かんでいた。
「その……こうして、きみと話すことは……これまであまりなかったが……」
うまい言い方が見つからなそうな婚約者――アレクシスの様子に、私はおもわず失笑してしまいそうになった。
もしかしたら、彼は緊張しているのかもしれない。こんなふうに二人で向かい合ってティータイムを過ごすのは、初めてだったから。
学校に入ってからはそれなりに時間が経っているものの、私とアレクシスはそれほど言葉を交わしているわけではなかった。男女共学とはいえ寮は別々なので、授業以外ではあまり会うことがないのだ。そしてお互いに同性の友人との付き合いもあるので、どうしても二人で時間を過ごす機会というものがなかった。
――いちおう婚約者同士という間柄なのに、そんな調子で大丈夫なのだろうか。
たぶん、アレクシスもそう思っていたのだろう。
だから「今日の午後の休み時間に、二人でお茶をしないか」と、彼はめずらしく私を誘ったのだ。
そして――私も迷わず了承の意を伝え、今に至るというわけだ。
「……たまには、こうして話をするのも悪くないんじゃないか。そう思ったんだが……迷惑じゃなかったか?」
「ううん、大丈夫。私もあなたと、少しは交流しておいたほうがいいと感じていたから。……婚約者だしね?」
「まあ、うん……。一応は、な」
どこか小恥ずかしそうな表情で、アレクシスは頬を掻いた。
お互いに関係性自体は否定していない。つまるところ、それだけ嫌悪感や不満感は持っていないということだった。
私は穏やかな気分で紅茶を飲み、不思議な心地に口を綻ばせる。
恋愛というものは、その人に夢中になり忘れられなくなることだと思っていたけど――
現実の男女の関係というものは、もしかしたらこんな感じのほうが良いのかもしれない。胸を高鳴らせ、恋煩うような相手よりも……平静な心で話し合える異性のほうが素敵だった。
「……ミラベル」
「うん?」
「今日は――」
アレクシスがそう言いかけた時だった。
私たちと同様に、喫茶と歓談をしていた周りの学生たちが――何やらざわめきたつ。
その理由は、皆々の視線の先を見やればすぐにわかった。目立つバラの花束を抱えた金髪の男子が、女子の一人に話しかけていたからだ。
「……カルヴィンね、あれ」
私は有名な……もとい悪名高い、キザな色男の名前を呟いた。
黙っていれば美青年、喋ればただのナルシスト。女子たちの間ではそんな評なのが、カルヴィンという男子だった。きっと、また誰か可愛い子を口説き落とそうとしているのだろう。
いったい相手は誰なのか――
そう気になって、彼が話しかけている女子の顔を確認した。
そして――私はなんだか妙に納得してしまった。
「こ……困りますっ。こんな花束、わたし、急に渡されても……」
「フッ……遠慮することはないさ。ボクの気持ちは本物だよ。このバラは、きみに対する情熱の証なのさ」
「うぅ……」
話の通じなさそうなバカに大困惑している女子――プリシラは、今にも泣きだしそうな様子だった。
清楚でおとなしそうな見た目の彼女だが、じつはプリシラも学校では有名人の一人である。
その理由がまた不可思議なのだが――
率直に言うと、彼女は“モテすぎる”のである。
いったい何がそこまで男子を魅了するのかわからないのだが、プリシラはとにかく異性からの人気が凄まじかった。彼女が告白される場面を見かけるのは、じつはこれが初めてではない。私が目にしただけでも数回はあるし、見えないところではもっと求愛されているのだろう。
そしてプリシラ本人は恋人を持つ気がないらしく、延々と男子の声を断りつづけているようだった。だというのに、ああして毎度まいど男から言い寄られているのは……なんというか、ちょっと可哀想かもしれない。モテすぎるのも考え物だった。
「……あんな花、もらっても置く場所に困るでしょうに」
私は遠方のやり取りを、呆れ顔で眺めながら呟いた。
綺麗な花はプレゼントの定番ではあるが、状況を考えなければ逆効果である。実家の屋敷なら花瓶がいくらでもあるかもしれないが、ここは寮で生活する学校だった。大量の花を活けておけるようなスペースなんてあるわけない。
そんな私の言葉を聞いたアレクシスは、どこか不安そうな表情で、確かめるように尋ねてきた。
「……寮室には花瓶が一つ、備えつけられてなかったか?」
「ああ、ちっちゃいアレでしょ? 数輪くらいしか入らないけどね」
たまに同室の女の子が、週末の休日に芍薬などを買ってきて花瓶に挿しているのを思い出す。殺風景になりがちな寮室では、その程度の花でもある程度の華になった。
私は紅茶をすすりながら、相変わらずナルシストなカルヴィンと対応に苦慮しているプリシラの様子を覗き見する。個性の強い人間に好かれると難儀なものね、と内心で同情していると――
ふいに、おそるおそるといった声色で、アレクシスがふたたび尋ねかけてきた。
「……花のプレゼントは嫌いか?」
「えっ? ……あー、ううん。べつに、私は嫌いじゃないけど……」
唐突な質問に少し戸惑いながら、私はそう答えた。
実際に、花の匂いは好きなほうだ。あのカルヴィンみたいに、いきなり大量の花を押し付けてきたら迷惑するかもしれないけど――
家族や、親友や、そして……恋人のような身近な人から、真心をこめて贈られる花はとても素敵で嬉しいプレゼントだった。
私がその自分の考えを話すと、アレクシスは一安心したように穏やかな笑みを浮かべた。
そして――彼は、隠すように椅子の下に置いていた紙袋を取り出すと、その中にあるものを表にした。
それは花束だった。
たった二輪のバラを紙で包装した、慎ましやかな花のプレゼントである。
こんなものを、目の前に見せられる心当たりは――少しだけあった。
「――明日が誕生日だろう?」
「……なんだ、覚えてたのね」
私はちょっと恥ずかしさを感じつつ、ごまかすように笑いながら言葉を返した。
学生が外出できるのは週末だけなので、昨日の休日に花屋にいって買ってきたのだろう。寄宿制学校の学生生活はストイックなので、貴族が実家でやるような誕生日パーティーなんてものは存在しなかった。
だから今年の誕生日も、両親からメッセージカードが届いておしまいと思っていたけど――
どうやら、そんなことはなかったらしい。
「……ありがとう」
私は婚約者からの贈り物を受け取りながら、ちらりと向こうで注目を集めているプリシラたちを見遣った。
どうやらほかの学生たちはあっちばかり見ているようで、私たちのやり取りに気づいている人間はいないようだ。
誰にも見られない中で、私はアレクシスへと視線を戻して口を開いた。
「次のあなたの誕生日には、私も何かプレゼントしないとね」
「無理にしなくても――」
「無理にじゃなくて、したいからするのよ」
私ははっきりとした口調で言いながら、そしてニッコリと笑って伝えた。
「――だって、あなたは私の婚約者なんだから」
◇
大人の社交といえばダンスパーティー、などというのは、なんとも古臭い考え方なものである。
さりとて、古臭い貴族の家系の子供たちばかりが通う学校では――相変わらずそういうのが重視をされていた。
世間と価値観がズレているのではなかろうか、などと思うこともあるのだが、貴族の一員である私が声高に言えるはずもなく。
結局のところ強制参加のイベントには抗えず――
私は久しぶりにドレスを着こんで、パーティーホールで暇を持て余していた。
「……退屈だわ」
テーブルの上に並べられた皿からビスケットを一つ摘まみながら、ぼけーっとホール中央のほうを眺める。
そちらには礼服姿の男子と、ドレス姿の女子たちが、演奏に合わせて楽しげにダンスをしていた。慣れた足取りの学生もいれば、たどたどしく相手に合わせている学生もいる。前者は上級生が多く、後者は下級生が多いのだろう。
私も入学初年度は、ダンスなんてろくにしたことがなかったので戸惑ったものだ。今でもあの時のことは記憶に残っている。上級生の男の子から誘われてペアを組んだのだが、思いっきり相手の足を踏んでしまったりして恥ずかしいことこの上なかった。
そんな経験もあって、私はどうにもダンスに参加するのは乗り気になれないところがある。だからダンスパーティーのイベントの時は、たいてい端っこの歓談スペースで友人とおしゃべりして時間を過ごすことが多かった。なんとも有意義でない時間の過ごし方なものだ。
「…………」
で、なんで今は独りぼっちで突っ立っているのかというと。
理由は単純――さっきまで話していた同じ寮室の友達が、異性からダンスの誘いを受けて旅立ってしまったのである。
ちらっと件のペアを覗くと、わが親友はなんとも乙女な顔つきでハンサムな殿方からリードされていた。……あの子のあんな顔、初めて見たんだけど?
いやいや、べつに羨ましいわけじゃないけど。うん。
ただ、こうして無言で楽しそうにしている諸君を眺めているだけというのは、なんというか若干の虚しさというものが――
「――ずいぶん暇そうにしているんだな」
「うわぁっ!?」
真横からいきなり声が降りかかってきて、私は思いっきりビクっと後ずさってしまった。
「……そんなに驚くことか?」
すぐそばには、呆れ顔のアレクシスが立っている。いつの間に近づいてきたのだろうか。ぜんぜん気づかなかった……。
私はアハハと笑ってごまかしつつ、彼の礼服姿を一瞥した。
さすがは良家のお坊ちゃんらしく、正装が着慣れていている。その凛々しい顔立ちと相まって、なんとも絵になる光景である。こんな男子がダンスホールでフリーだったら、すぐさま女の子が寄ってきそうなものであるが――
「……そっちこそ、暇なの? 踊る相手とかは?」
「残念ながら俺はモテなくてな」
「うっそだぁ」
「こういう場所で人気があるのは“フリー”のやつだろ?」
「……まあね」
私は苦笑しながら頷いた。
そう、ここでいうフリーとは暇そうにしている学生のことではない。まだ恋人のいない、恋愛関係になるチャンスのある相手のことを指しているのだ。
その意味では、私やアレクシスは“脈なし”の存在だった。べつに婚約関係を隠しているわけでもないので、同学年なら大抵の人は把握しているはずだ。相手が婚約者持ちだとわかっていてダンスに誘うような度胸を持った人間は、当然だがなかなか存在しなかった。
――軽妙な音楽が奏でられるなか、ダンスの傍観者たる私たちはしばし雑談をする。
授業のことや、寮生活のことなど。何気ない普段の日常について会話をしていると、時間はあっという間に過ぎ去っていった。
ふいに音楽が聞こえなくなり、ホールの中央に目を向けてみると――ダンスを終えたペアたちの多くが離散してゆく様子が見えた。
次の一曲が始まるまでは、少しの休憩を挟むことになる。その間に参加者たちは歓談したり、あるいは次のダンス相手を探したりするのだろう。
「――あ」
私は向こうから、旅立っていた親友が帰還しようとしているのを見つけた。
ダンスの感想はどうだった? なんて聞いてみようかなと思いながら、小さく手を振る。
彼女もこちらに気づいたようで、私たちのほうを見ると――
――逃げていった。
…………なんで?
「……俺が隣にいたから、じゃないか?」
「えっ? ……ああ、そういう。んもぅ」
どうやら私がアレクシスと一緒にいるのを見て、邪魔しちゃいけないと思ったようだ。私は構わないし、たぶんアレクシスも気にしないだろうから、そんな気遣いしなくてもいいのに。
それにしても、わが親友が逃げ出したとなると――
しばらくは二人っきりになる、ということでもあった。
「…………」
「…………」
なんとなく、言葉に困って二人とも無言になる。
このまま他愛のない雑談をしつづけるのは、はたしていかがなものだろうか。
せっかくのダンスパーティーなのだから――という思考がどうしてもよぎった。
ちらり、と私はアレクシスの顔をうかがう。
彼は少し悩んだような表情で、何かを言いたそうにしていた。
そして、ついに、決意したように口を開き――
「その――」
「――プリシラ! 相手がいないようなら、オレがダンスの相手になってやるぜ?」
よく響く声が、この距離でもはっきりと聞こえてきた。
出端をくじかれたアレクシスは、困ったように頬を掻いている。どうやら言い出すのを諦めてしまったようだ。
私は眉をひそめながら、声の発生源のほうに目を向けた。
向こうには思ったとおり“あの”プリシラと、そして――
「遠慮はするな。オレが足取りをフォローしてやるから、安心しろ」
「え、えぇ!? そ、そんな急に……。あの、わたし……今日はダンスをしないつもりで――」
「さあ、そろそろ次の曲も始まる時間だ。オレについてこい」
「な、なんで踊ることになってるんですかっ!?」
うーん、ちょっと可哀想……。
相変わらずプリシラは異性から絡まれまくっているご様子である。もともと彼女はダンスをすべて断っているようだが、相手の男はそんなことを気にせず強引に誘っていた。
「……あれはクランシーか」
隣のアレクシスが、呆れたように名前を言った。
「知り合いなの?」
「いや、男子の間では有名なだけだ。家はでかいが礼儀は欠片もない――なんて陰口を叩かれているようだな。ま、本人はまったく気にしていないみたいだが」
「ははぁ……」
私は説明を聞きながら、クランシーという男子のほうを見る。
ずいぶんと長身で体格がよく、振る舞いは自信に満ちあふれていた。顔立ちは驚くほど精悍で、鋭い目付きは獣を思わせるかのようだ。間近で向かい合うと、たぶんかなり威圧されるのだろう。
……にしても、プリシラは変な男を引き寄せる業でも背負っているのだろうか。
「あんな強引な誘い方、みっともないにもほどがあるわね」
「……そうだな」
「ダンスに誘うなら――もっと紳士的にすべきだと思わない?」
「……ふむ」
プリシラとクランシーのやり取りを眺めながら口にした感想に、アレクシスは何か納得したようにあごに手を当てた。
そして彼は――意を決したように頷いてみせる。
「では、ミラベル嬢――」
改まったような態度で、アレクシスはこちらに振り向いた。
その瞳はとても真摯な色をしていて、まっすぐと私の顔を見つめていた。
……こういう彼も、たまにはいいわね。
なぁんて、内心で思いながら。
「きみが厭わないのであれば、ぜひとも――俺とダンスに興じていただけないだろうか」
私は淑やかに微笑を浮かべ、少し気取ってカーテシーをしながら。
「もちろん、よろしくお願いしますわ。――アレクシス様」
そう快く、誘いを受けるのだった。
◇
「――それでね、うちの寮の子が飲酒したのが監督生にバレて大騒ぎだったの」
いつもと変わらない、ありふれた学校生活の昼間。
私は食堂でランチを取りながら――対席のアレクシスと雑多な話に興じていた。
先に食事を平らげていた彼は、頬杖をつきながら言葉を返す。
「お前のところの監督生、かなり厳しいって前に聞いたな」
「そうなのよ! 口を開けば礼儀、礼節だのお堅いことばっかり言うんだから」
「はは……まあ、監督生なんてそんなもんだろ」
「でも、あれはちょっと厳しすぎると思うんだけどなぁ。世話係になっている子も、いっつも叱られていて可哀想だし」
寮制度の学校であるここは、複数の寮に分かれて学生たちが生活している。そして学校生活の秩序は、基本的に上級生の中から選ばれた監督生によって守られていた。
さらに監督生は、雑用係を下級生から選出して自分の補佐をさせるのが通例となっている。この監督生と使役生の関係は、まさしく貴族の主人と従者のそれに近しかった。私はああいう上下関係が本当に苦手である。
「監督生なんて封建社会の悪しき名残り、って感じよね。昔は貴族社会でも、身分の低い貴族が格上の貴族に従属してたんでしょ?」
「そうだな……。小さい貴族は、大きい貴族の家に従者や侍女として奉公するのが普通だった」
「あー、やだやだ! 二百年前に生まれなくて幸いだったわ。貴族社会なんて堅苦しいだけで最低よ」
私が残ったポテトフライをモグモグしながら言うと、アレクシスは紅茶をすすりながら苦笑した。
「俺たちも貴族だろ」
「ただの地主で金持ちなだけでしょ」
「ま、それはそうだが……。あんまり大声では言うなよ。ここには“王子様”だっているんだから」
王子様――それが指している人物のことを、私はすぐに理解した。
べつに比喩ではない。文字どおり、この国の王の正式なる子息が在籍しているのである。私たちと同学年である、ローランド王子は――おそらくこの学校で一番の有名人だろう。
もっとも、私にとっては縁の薄い他人でしかなかった。そもそも話したことすらないのだ。アレクシスはちょっと会話したことがあるらしいが、寮が違うのでそれ以上の関わりもないらしい。王族と貴族なんて、所詮はその程度の関係性だった。
「……ふぅ、ごちそうさま」
――なんて、どうでもいい話をしている間に、私も彼に続いて昼食を終える。
何気なく周りを見渡してみると、ほかの学生たちもだいたい食事を済ませている様子だった。昼休みはわりと時間が設けられてるので、これからみんな思い思いに過ごすのだろう。野外でスポーツをする人もいれば、屋内でカードやボードゲームで遊ぶ人もいたりする。
私は、どっちかというと屋内派だった。
以前は寮の友達と、お茶を飲みながら歓談したり、カード遊びをしたりすることが多かったのだが――
「――アレクシス」
「ん?」
「今日という今日は、ぜったい負けないわよ」
「ああ、はいはい」
余裕な表情で応える彼に、私はむっと険しい顔をした。……ムカつく。
ここ最近は、昼間にアレクシスと遊ぶことも増えたのだが――だいたい昼食後にチェスを一戦やるようになっていた。ちなみに累計二十数戦して、私は一回も勝ったことがない。どうも彼の祖父がボードゲーム好きだったようで、幼いころからチェスやらナインメンズモリスやらを嗜んでいたらしい。道理で強いわけである。
私は対抗心を燃やしつつ、食べおわった昼食の食器を片付けて、アレクシスと一緒に遊戯室のほうへ向かいはじめ――
その道中の廊下で、ふいに見知った女の子の顔が映った。
直接的な交流があるわけではないけれど、印象に強く残っている人物。
いつも男子に惚れられて、可哀想なくらい求愛されている少女プリシラは――
――今日も、やっぱり男の子に話しかけられていた。
「……せ、先輩!」
少し背が低くて童顔気味の下級生の男子が、緊張した面持ちでプリシラと向かい合っていた。
……と、とうとう年下からもアタックされているのね。
などと勝手に衝撃を受けた私は、おもわず足をとめて二人を眺めてしまう。アレクシスは立ち止まったことに一瞬、不思議そうな顔を浮かべたが、プリシラのほうを見て納得したような顔色を浮かべた。どうやら彼も、彼女の逸話を把握しているらしい。
「ボクは、ベ……ベイリーと言います。そ、その……先輩をひとめ見た時から、気になって……。よ、よろしければ……こ、こんどの週末に――」
「え、えーっと……」
「ボクと、一緒に遊びに出掛けませんか……!?」
わぁお、デートのお誘いだ!
でも少年よ、それはちょっと無茶じゃないかな。
だってプリシラの顔を見るに、どう考えても――
「ご、ごめんなさい……。わたし、あなたとお話しするのも初めてですし……」
ですよねー。
恋に落ちた少年の行動は勇ましかったものの、あえなく撃沈である。異性を狂わせるプリシラの魅力はなんと恐ろしく罪深いのだろうか。私にあんな呪いのようなものが備わっていなくて心底よかった……。
と、勝手に安堵していると、ふいに肩をトントンと叩かれた。
――そちらに顔を向けると、アレクシスが廊下の先を指差している。遊戯室にさっさと行こう、というジェスチャーだった。どうやらプリシラたちのやり取りには、あまり興味がないようだ。
野次馬としては、プリシラとベイリー少年のやり取りが気になるものの――
私はアレクシスの意見を優先して、ふたたび歩きはじめることにした。
隣り合って廊下を進みながら、ちょっと彼の顔をのぞき見る。
アレクシスは少し眉間にしわを寄せていた。何か考え事をしている様子である。
彼が口を開いたのは――プリシラたちの声が聞こえなくなったころだった。
「――なあミラベル」
「うん」
相槌を打つと、アレクシスは自然な口調で言葉を続けた。
「今度の週末――街に遊びにいくか」
「――うん」
私が笑顔で答えると、彼も穏やかな笑みを浮かべる。
断る理由なんてなかった。だって、私たちはずいぶんと仲良くなったのだから。
婚約者として顔を合わせて、そして学校で過ごすうちに話す頻度も増えて、今では誰よりも親密な間柄になって。
そう……デートするくらいは、当たり前のことだった。
――願わくば、これからも彼との関係が末永く続きますように。
私はそんなことを思いながら、そっとアレクシスに肩を近づけるのだった。
「……チェスで負けたほうが、デートでクレープを奢ることにするか」
「なによ、それーっ!?」
◇
月日が過ぎるというのは、あっという間だった。
この学校では勉学だけでなく、音楽やスポーツもたくさんこなして、いろんな人と仲良くなって、いっぱい数えきれないほど話をした。寮での生活にもすっかり慣れて、もはや我が家のような感覚でもあった。
きっと、ほかのみんなも同じような想いを抱いているのだろう。
一年の締めくくり、そして進級を祝して開かれるパーティーの席に、私は立っていた。
学生たちは正装姿で、それぞれ仲の良い友達とおしゃべりしたり、教師と何やら話し込んでいたりする。誰もが笑顔で――とても穏やかで和やかな雰囲気だった。
かくいう私も、同じ寮の女子グループで歓談と軽い飲食を楽しんでいたのだが――
ふいに友達の女の子から背を軽く叩かれ、そちらのほうを向く。
「どうしたの……?」
と、私が尋ねると、彼女は少しにやついた顔で目配せをした。
その視線を追ってみると――すっかり見慣れた人物が映る。
しっかりとした礼服に身を包んだ、ブラウンの髪の青年は……私の婚約者だった。
友人たちがコソコソと言い合いながら、なぜか私のもとから去ってゆく。
……まったくもう。そういう配慮をされると、逆に恥ずかしいんだけど。
私は苦笑まじりにため息をつくと、ゆっくりと彼のもとへと歩み寄った。
いつものようにアレクシスは気さくで穏やかな笑みを浮かべ、声をかけてくる。
「……楽しんでいるみたいだな」
「ええ。そっちはどう?」
「さっきまで、寮の仲間とくだらないことを言い合っていた」
「くだらないこと?」
「女にモテるには、どうしたらいいか――って話だ」
なるほど、それは確かにくだらない。でも、学生たちはそういう話が好きなものだ。女子グループも同じようなものだった。
私はちょっと気になって、アレクシスに尋ねてみた。
「それで――あなたは、なんて答えたの?」
「俺か? ……自然に相手と接すること、だな。それが一番だと自分で思っている」
「なるほどね。……ほかの人は知らないけど、あなたに限っては正解だと思うわ」
自分を飾ったり、必死にアピールしたり、甘い言葉を囁いたり。そういうことは一切していないけれど、アレクシスはとても魅力的な男性だった。
そう――ほかの誰よりも。
「……少し移動するか」
「うん」
周りに人が多いと思ったのか、アレクシスは壁際のほうを指差した。ゆっくり静かな場所で会話をしたいのだろう。私も異存はなかったので頷く。
彼と隣り合って歩いていると――
ふいに正面から、貴顕な雰囲気をまとった美青年が向かってくるのが見えた。
輝くような黄金の髪に、冷厳で端麗な顔立ち、そして文句のつけようがないほど完璧に整った身なり。
貴族のお手本のような見た目の男子学生は――私の知っている人物だった。
いや……むしろ、誰でも知っている存在だ。なぜなら、彼は――
「ローランド王子……」
隣のアレクシスが、聞こえないような小声で名前をつぶやいた。
そう、私たちと同学年である、この国の王の子息。
王族に匹敵する格を持った貴族家系も少なからずあるが、それでも王家の“箔”というものは特別だった。この学校でもっとも高貴な人間といえば、満場一致でローランド王子が選ばれるだろう。
そんな彼は、いま――何かを決心したような面持ちで、こちら側へ近づいていた。
どこかに用があるのだろうか。このままでは正面からぶつかってしまうので、私とアレクシスはいちど道を譲ることにした。
通りすがる彼に、軽く会釈をしたが――どうやらローランド王子は私たちなど眼中にない様子で、まったく反応を返さなかった。
……無視はなくない?
「めずらしいな」
と、アレクシスは去り行く王子様の背を眺めながら言った。
「……なにが?」
「いや、あの人は普段から挨拶を返してるんだけどな。わざと無視するとは思えない」
「えぇ? ……考え事でもしてたの?」
「さあな。これから愛の告白をするつもりで、意中の人のことしか頭になかったのかもしれん」
「あはは、まさかぁ」
そんな言葉を交わしながら、私たちはパーティーホール壁際のひっそりとした場所に来た。
周りには数人の学生がいるだけで、中央と比べるとずいぶん静かだ。ゆっくりと、こっそりと話し合うにはちょうどいいスポットだった。
「愛の告白、かぁ……」
私はさっきアレクシスが口にした言葉を、なんとなしにつぶやいた。
「したことある? アレクシスは」
「いや、ないな」
キッパリ言って、彼は肩をすくめた。どうやら私とお仲間のようである。
あまり気にしていなかったが――そういえば、したことがない。
私も、彼も。
好きだ。愛している。……そういった言葉は、お互いに口に出したことがなかった。
でも、私は彼が好きだ。
そして、彼もきっと私が好きなのだろう。
そんなことは、言わなくてもわかる。
普通に過ごしていて、一緒に遊んでいるだけで、十分すぎるほどに感じる。ともにこれからも、末永くそばに居続けるに値する異性であると。
でも――
せっかくなら……。
「私はね、アレクシス」
一回くらいは――
言っても、いいんじゃない?
「あなたのことが、す――」
――どよめき声が沸いた。
あまりに唐突なことだったので、私はびっくりして言葉を途切れさせてしまう。周囲を見ると、学生たちは一様にホールの中央のほうに目を向けていた。向こうで何か、事件か事故でも起きたのだろうか。
そちら側へと耳を澄ませてみると――女子グループの興奮したような会話が、わずかに聞こえてきた。
――ねえ、あっちあっち!
――ローランド王子が!
――ええー!? 告白っ!?
――相手は……プリシラ!?
「うっそぉ……」
私は唖然とした表情で声を漏らした。
まさか、本当に愛の告白をしようなどとは。しかも、相手はあのプリシラだなんて!
数多くの男性を惹きつけてきた彼女は、とうとう一国の王子さえも魅了したというのか。な、なんとも恐ろしい……。
「だ、大ニュースじゃない? あのローランド王子が……」
そう言って、私はアレクシスのほうに振り返った。
だが、予想に反して――彼はいつもと変わらぬ平静な顔で立っている。騒ぎに対しては、まったく興味がない様子だった。
――彼の瞳は、ただ目の前のひとを見つめている。
みんながローランド王子とプリシラに注視している中で。
ただアレクシスだけは……私だけに目を向けていた。
「――なあ、ミラベル」
彼はひたむきに、一途な様子で、穏やかに、そして優しい笑みを浮かべて。
私の名前を、呼んだ。
一歩、彼は近づいてくる。
伸びた手が、私の肩に触れる。
ほんの少し――私の心臓が音を鳴らした。
「――なぁに?」
心にちょっとした期待をしながら、いたずらっぽく笑みを返す。
もう、ほかのことなんてどうでも良くなっていた。
ただ、今は。
目の前にいる、私の――
――最愛の婚約者の、告白を待っていた。
「俺は――」
一瞬だけ。
ほんの少し、恥ずかしそうな顔をして。
それでも、すぐにいつもの顔になって。
アレクシスは――はっきりと、告げる。
「――お前のことを、愛している」
体が、引き寄せられた。
でも、嫌じゃなかった。
うん――
たまには……ね?
私はゆっくりと目をつむりながら。
彼にしっかりと言葉を伝えた。
「私も……あなたを愛しているわ、アレクシス」
誰も見ていない、ホールの端っこで。
ひっそりと、けれども、確かな愛情を抱いて。
――私たちは、そっとお互いの唇を重ね合うのだった。