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女神の気持ち  作者: かのこ
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 幼い頃の記憶に、熱を出して寝込んでいる時のものがある。兄ティベリウスが怖い顔をして寝台の傍にいるので、かえって気分が悪くなりそうだった。大人たちには風邪がうつるからと、離れるように何度も諭されたのだが、意地をはって動かないのだ。

 しかも親切のつもりなのか、難しい本を読もうとするので、知恵熱を出しそうになったりもした。頼んで別のものにしてもらったような気がする。物心がつくかつかないかの頃だし、パラティウムに引き取られて以後のことだと思う。

 何故そんなことを思い出したのだろう。

 そうだ。

 兄だ。

 小アントニアと結婚できることになった、と兄に言ってみたところ、意外なことに――それも変か。でもやっぱり驚いたけど――。「良かったな」と言われたのだ。珍しいくらいのさっぱりとした笑顔で。

 幼い頃に熱が下がり、医者に起きてもいいと言われた時に見せた、兄の笑顔を思い出した。


 というようなことを、ユルスに話した。

 カリナエの屋敷に、アグリッパ将軍とマルケラの娘が訪ねて来ているので、気を遣って出てきたのだそうだ。ユルスがフォルムで知人と話し込んでいるのを見かけて声をかけ、特に予定がないのなら、と一緒にパラティウムに連れて帰ってきた。

「あんな陰気なのが枕元にいたら、カロンが三途の川からお迎えに来たかと思うよな」

 その「あんなの」って僕の実兄なんですけど。

「僕のこと、兄にまで心配されてたんですね」

 興味なさそうだったのに、一応アントニアとの話のことは気にかけてくれていたのだ。

「お主はアントニアのことになると、バレバレだからな」

 あの人間関係に疎い兄さえ見抜いていたのに、どうして本人はあんなに鈍いのだろう?

「だからこそあいつも強気だったのかもしれん。19だぞ。行き遅れもいいところだ。信じられん」

「本人は少し、納得いってないみたいです」

「何が悪いんだかな。お主の兄のように身内に意地を張ってるだけなら良いんだが」

 ユルスの言うように、兄は別に名門貴族の嫡男だから騎士階級の娘が嫌だったとかいうわけではなかった。周囲に勝手に相手を決められるのも特に抵抗はない。彼が自力で決めることはないからだ。ただ両親に「そろそろ」と煽られている状況が不愉快だったのだ。兄のような人は、無理やり強行した方が文句も言う暇もなく受け入れたと思うのだが。

「あいつも結婚自体には文句ないんだろ?」

「……の、ようですね」

 おそらく。人前では一緒にいることもないし、何を話しているかはわからない夫婦だが。兄の兄嫁に対する態度は、母や義父への「無関心の無視」とは違う気がする。どちらかと言うと自分やわずかに気を許した相手へのものと似ている気がする。ありがたいことにアントニアへの態度も、長年の自分の想い人であることを慮ったためか悪くない気もする。

「何を拗ねてんだろねあの万年反抗期野郎は。親不孝できる親が生きてるだけ、ありがたく思えっての。俺なんか親にさんざん迷惑かけられて死なれてるんだから、それに比べたらマシだっての」

 普通は、「孝行ができる親」と言うべきところではないかと思う。まあユルスの場合は父だけでなく、実母も激しい女性で敵が多かったから、政敵には彼女の子供たちまで殺そうと狙われていたとか聞かされている。人の親のことをこんな風に言っては悪いけれど、彼の場合、本当に両親の巻き添えになっていた可能性のほうが高い。


「俺さ。子供の時、オクタウィア様につきっきりで看病してもらったことあるんだよ」

 ふと、ユルスが小声で言った。アウグストゥスは通称「小工房」の天井裏で執務中だが、ユルスは事実上、ユリウス家への出入りは自由だ。形式ばる必要のある時には使いを寄越すし、アウグストゥスの時間が空いていれば必ず挨拶はするが、もはや何の用件で来たかなど誰も気にしない。ユルスも完全にくつろいで、こうやって中庭で自分と雑談している。兄が通りかかったとしても何も疑問を抱かず、適当に挨拶して去るだろう。

「……へえ」

 義理の伯母オクタウィアは、実子五人、マルクス・アントニウスの連れ子二人に加え、一時期はエジプトの女王の子供たち三人を育てていたのだ。

「すごい嫌だった」

「どうしてですか?」

「俺の親じゃねーのに、俺が独り占めにしてるのが嫌だった。オクタウィア様はマルケルスやマルケラたちや、幼児だったアントニアたちの母親なのに、俺がとっちゃってるの、おかしいだろ」

 そういうことを面と向かって言えないので、ユルスは「大丈夫だから」と彼女を追い出そうとするのだが、義母のオクタウィアはやさしく笑って、手ずから食事をさせようと、それこそ本当の母親のように頑固に居座ったのだそうだ。父親はニヤニヤ笑ってるし、彼女の実子マルケルスは「何を恥ずかしがってるの」という顔をしていた。違うのだ、俺が独占していいもんじゃないんだ、とユルスはひたすら寝たフリをしていたそうだ。

 結婚してからその話をすると、マルケラは「私もそうでしたよ」と言ったのだそうだ。

「私は長女だから、お母様は下の妹たちのものなの。だから何かの時にたまたま二人きりで歩いた時に、母は何でもないことのように私と手をつなぐの。でも私、そんなこと初めてなのよ。妹たちに黙って悪いことしてるみたいで、落ち着かなくて。マルケルスお兄様なんて男の子だったから、なおさらそういうこと、なかったでしょうね」

 伯母はまんべんなく娘たちに接していたつもりなのかも知れないけれど、大マルケラにとってはそうではなかったみたいだ。

 ふとユリアのことを考える。

 実の子でさえそういうことがあるのだから、ユリアだって本当に平等に扱えているかなんて、自信はないだろう。

「それでお兄様は、最後に母を独占して、亡くなってしまったのだけれど……」

 夫の裏切りにも反乱にも死にも堪えた女性であったのに、長男が早世したことは、気丈な伯母オクタウィアにも、やはり耐え難い出来事だったのだ。

 初めて彼女の泣く姿を見た。芯が強いとばかり思っていたが、どこにでもいるか弱い女性で、彼女の子供たちも戸惑っていたように見えた。葬儀で黒いトガをまとったユルスが、無表情に彼女の手を取って歩く姿が印象的だった。ユルスは彼女の実子の代わりには到底なれないにしても、彼女の希望の拠りどころにはなったと思う。少なくとも娘の婿としては、役に立っている。

 彼に拒否権はなかったにしても、マルケラとの結婚は、アウグストゥスのため、自分のため、マルケラのためというよりも何よりも、義母のためであったようにも思う――。



「出たな親不孝娘」

 義理の子供たちを送り出し、パラティウムに戻って来ていたユリアが姿を現した。実家の気安さもあってか、ユルスのいきなりの暴言にも、つっけんどんに言い返した。

「なによ。人のこと言えるの?」

 本人はこの調子で変わらないのに、体つきや姿勢の違和感が落ち着かないし、どうしても目立ってきたお腹にばかり目がいってしまう。ちょっと怖い。これからもっと大きくなるのだそうだ……。

「お主、妊婦のくせに、その身体で男くわえこんでるそうじゃないか」

 うわ。そういうことを、ここで言わないで欲しい。義父に聞かれたら!

「いいじゃない。お腹の子は夫との子供なんだから」

 ちょっと待って。そういう問題じゃないだろ。それになんでそういうことが出来るんだ? っていうか、可能なのか? じゃなくて。じゃなくて! 

「ふ、不潔だ……」

 ユルスとユリアは無言で自分を見た。

「ドルススは、こういう世界とは無縁でしょうねえ」

「あ、俺も俺も。清く正しいから、大人の世界はわかんないわー」

「何の冗談かしら。ヤヌスの神殿みたく、いつでも門戸を開放してる節操なしのくせに」

「それじゃ誰でもオッケーみたいな言い方じゃねーか。自分の奥さんのレベルが高いから、その辺の商売女や主婦相手には浮気なんかしませんて。マルケラに失礼だっての」

 何を言ってるんだこの人たちは!

 無性にアントニアが愛おしくなった。彼女なら絶対にこんな会話はしない。結婚したって、彼らのように平然と不倫を肯定なんかしないだろう。

「……」

 ユリアの表情が曇る。ユルスは長椅子を持ってきて、クッションまでそえてやっている。基本的に、彼は幼児だろうが老婆だろうが、そして人妻だろうが妊婦だろうが、どんな女性にもやさしい。伯母やうちの母どころかその母親世代までうやうやしく接する。彼は特に着飾っている女性が大好きなのだ。

「ねえ。マルケラは……」

「変わらんよ。別に」

「そう」

「心配するな」

 アントニアの話でも、マルケラは普段通りだという。

「離婚させられたのはお主のせいではないと、マルケラもわかっている」

「……」

 長椅子に腰掛け、クッションをお腹にあてて、抱きしめる形でユリアはため息をついた。

「私って、目印みたいね」

「目印?」

「お父様のお気に入りの目印。『ここにローマの第一人者が、贔屓している男がいますよ』、っていう」

 ユルスもこういうことには、うかつに返事が出来ないでいる。

「……別にね、あの人はいい人よ。可愛がってくれるし、私の好きにやらせてくれるし。マルケルスと結婚していた時なんて、自由にお金も遣わせてもらえなかったけど、今はそうでもないのよ。私、この人に家を任されているんだなあって感じがするの」

 アグリッパ将軍とアウグストゥスは同い年だから、ユリアは自分の娘でもおかしくない年の花嫁だ。親友の言いなりで親友の姪と離婚して、親友の娘と再婚するなんて、どんな気分なのだろう。想像がつかない。でもマルケラも慕っていたことを考えると、ちゃんと妻を尊重してくれる、頼もしい夫だったのだろうなと思う。


「不幸ではないと思う……。たぶん。子供が出来たことを、お父様は喜んでくれるし、もちろんあの人もね。だからあの人を嫌いで、浮気してるわけじゃないんだけど……」

 ユリアは口をつぐみ、しばし考えをめぐらせた。

「……ちょっとぐらい、自分にご褒美があったっていいと思わない? これから命がけで子供を産むんだもの、ちょっと他の男と遊ぶくらい、許されると思うの」

 思わない!

「リウィア様だってそうだったじゃない」

 それは言わないで欲しい。子供たちのことを考えると自分のことのように心が痛む。

「家族に迷惑だから、やめてよ!」

 義理の姉には笑って無視される。

「だったらこの人にも言いなさいよ。同罪じゃないの」

 とユルスを指差す。

「一応俺、基本的にマルケラ一筋なんですけどね」

「何でそういう嘘を言えるかしらね」

「まあいいや」

 ユルスがうやむやにしてしまう。

 ……あんまりつっこみたくはないけど。

 女性関係のことは知らない。ただ、ユルスの近頃の交流関係をたどっていくと、ちょっと問題ありげな男たちが背後にいるような気がする。言いにくいけれど、昔の実父の陣営にいたり、恩義を受けた者だったり、それから無理やり拡大解釈するならば、アウグストゥスに対して穏やかではないであろう、遺族であるとか。

 まあローマの貴族に石を投げれば、そういうのに当たる確率はかなり高いのだから、妄想の範疇なのかも知れない。一族郎党と馴れ合うなという方が難しい。ユルスを頼ってくる親族もいるだろうし、いざという時に使えるアントニウスの一門との縁を切るわけにもいかないだろう。

 それは自分にとっても同じことで、父、母の双方からのクラウディウスの人脈を絶つわけにもいかない。アウグストゥスに何かあった時に自分が頼るのは、ユリウス家ではなく、自分の一族だろう。

 そういううさんくさい事情はどうあれ、ユルスが浮気をしているのは確かなのだし。

「信じられない」

「はいはい。ドルスス、あなたは幸せになってね。初恋の女の子と結婚して、毎日おうちに帰ってきて、『愛してるよ~』とか言うのよ。素敵よねえ」

「いいよなあ。滅多にいないよな、そういう夫婦」

 ……バカにされてる。

「二人とも、自分の結婚がアウグストゥスの言いなりだったからって、言い訳するのはやめて下さい。どうせ相手が誰だって、浮気してたんでしょ」

「たぶんね」

「仕方ないよな。プラトンだって、人間は自分の半身を探し続けるもんだって言ってるじゃん。本能なの、本能」

 そんな使い古された言い訳は聞き飽きた。

「……私って何なのかしら」

 少しユルスと言い合っていると、ユリアがぽつりと呟いた。

「不満はないの。でも、いつかリウィア様みたいに、私にも誰かが現れてくれないかしらって思うの……」

 穏やかではない。ユリアをアグリッパ将軍から、義父同様にして正式に「奪う」男が現れるとしたら、それはかなりの確率で、内乱時代の再来を意味すると思う。ユルスも難しい表情をしていたが、「とりあえずおとなしくしとけよ」と言った。マルケラのユリアへの怒りは、アグリッパ将軍をないがしろにしている部分にも向けられていたからだ。



三部作のようになりました。きちんと構成してあるわけでなく、たまたまそうなりました。

この時点では、ユリアはユルスとは不倫はしていません。 でも周囲にはもちろん、アグリッパもユリアが浮気し放題だったことは知っています。

誰もアウグストゥスには教えなかったということは、とても寂しいと思います。

ところで、ユリアが「子供たちがアグリッパに似ているのは何故か」と質問されるという話ありますよね。

それ、小ユリアも……? 有名な、石膏のアグリッパを想像。いやかも……。

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