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八話:「惑う光」




 息が止まりそうだった。乱れた呼吸が耳に掠れかすれ入ってきて、止まった風の中で忘れそうになった。

 自分がどこにいたのかを。風の吹く場所を。大事なひとときを。足を止めて、また―――。


 すでに道という道はなく、薄暗く影が落ちる鬱蒼とした森林が断崖のように立ちはだかっている。恰も何者も立ち入らせない草木や蔦で壁を作って世界を分けているかのような、異質な空気感が目や鼻や肌から伝わってくる。

 足跡はこの森の中へ迷うことなくまっすぐ続いていた。何かあるのではと考えたくはないが用心するに越したことはないだろう。危険とは常に近いところにあるものだとオルグさんが言っていた。


 森に足を踏み入れようとしたとき、違和感のひとつに何か物足りなさを覚えた。まるで、川の中とは違ってただ水の中にいるのと同じ、とても静かで――鳥の囀りに虫の声が…、聞こえない。風もない。だから枝葉の擦れる音もなく静寂としている。

 それに頬を舐められているかのような汗とベタつき、じめじめとして蒸していて、目の前に立っているだけで不快感を覚えずにはいられなかった。

 息を呑んで、さらに歩みを進めたそのとき――カサカサと草の擦れる音が耳の鼓膜を揺らした。手前の藪で何かが動いていた。同時に心臓を手で鷲掴みにされたような息苦しさが視野を狭める。


 そこに誰か、消えた羊が…いるのか。


 既視感のある薄茶の汚れた白い毛が、藪の裏にほんの少し頭をだし微妙に動いていた。そっと音を出さないように近づき、なんとかしないとという気持ちが少しずつ体を動かしていた。

 またカサカサと葉が揺れ、思わず出そうになる声を自分の手で止め、息までも止まりそうになりながら、ゆっくり近づいていく。

 一歩足を踏み出す度に嫌な想像が横切る。――あと三歩。ゆっくり深呼吸をして、また少しずつ体を動かしていく。あと二歩。そっと足を前へ進ませ、そっと上から覗きこむ。

 そしてあと一歩、距離を詰めていく。――ふわふわした白茶の綿毛がまた左右上下に動いた。

 思わず動いているものに反応して息が止まった。


 森の中を数歩進んだ藪におぶさるようにして覗きこんだ。藪の裏には口もとをもしゃもしゃと左右上下に動かして、何事もなかったような顔で安穏と草を食べている羊の姿があった。自分だけ時間が止まったような、消えた羊が眼の前で草を食べているのだと認識できるまで、少し時間がかかった。

 いっきに出たため息が緊張の糸までみるみる緩んでいく。いつもと変わらない姿で見つかったからなのか、力が抜けて膝に手をつけ、視界が地面しか映らなくなっていた。よく見れば、小刻みに手足の震えが止まらなくなっている。

「よかった…」

 探していた羊が無事でよかったのもあるが、早くここから離れたい気持ちが背反してあった。


「早く帰ろう。みんなを置いてきたままだ」


 ごわごわした羊毛を撫でてメェと鳴く羊に、硬直した顔の筋肉が思わず綻んでいた。

 そもそもどうしてこんなところまできたのだろうか。いや、そんなことよりも、今は無事に見つけられてよかったと思うべきだ。奥まで行っていたらと思うと、それこそ大変なことになっていたかも知れない。そう思うだけでゾッとする。あとは早くこの場から立ち去りたい。


 振り返り、森を立ち去ろうとしたそのときだった。「――ん?」数瞬、眼の端に何かを捉えた。

「今、何か一瞬…」再び走った緊張が全身を岩のように硬直した。

 今――何かが見えた。


 森の木々の隙間から奥の方にかけて眼を凝らし、何かを探り当てようと意識を集中させる。けれど、よく見てもそこには暗く繁る森を映すだけだった。

 今のこの森は異常だと頭の中で危険信号を発している。それとは裏腹に後ずさりし、自然と足が動いていた。その後を追って羊もついてくる。


「なにかが…―――父さん、母さん…?」

 森の奥の方で何か光るものを見つけた。


「光が…」、足をどんどん奥へ導いていった。草藪を掻き分けて、薄暗い獣道を進み、凹凸のある岩肌を越えて山道を行くように登りたどり着いたのは、周囲を木々が隙間を埋めて草花はなく、何かを避けるようにして円を描くようにぽっかりひらけた薄暗い隠れ家のようなところへ出ていた。

 ハッとして周囲を見回し、開いた口がふさがらないでいた。ひと目して不思議なところという印象を抱いた。

 左右前後を確認し、いつの間にどうしてこんなところにいるのか、ここまで来た記憶が朧気でしかなかった。頭上には木の枝葉が覆っていて薄暗く、ちょうどこの空間の出入口にあたるようなところで立ち尽くしている。ただ何よりも、ここに立っているだけで何故か震えが止まらない。寒いのかどうなのかも判断がつかない。

 でも、この震えはきっと――。


 すぐに引き返そうとして後ずさりした数瞬、空間の真ん中あたりにほんの少しの違いだが、周囲の風景と眼の前に映るその風景にズレのようなものが見てとれた。

「なにかが…ある?」


 自然と掬われるように手が伸びていた。すると何もないところで何かに触れた感触が指先から伝わってきた。それは平らな壁のような、岩壁みたいな出っ張りもない。触れた指先を下していき、地面までたどり着くとそれが垂直に立っていることが分かった。


「まるで生き物みたいに温かい…。でも、壁…。これはなんだ」


 少し体重を倒して耳を当ててみようとすると、まるで水の中に手を入れるようにすっと入りこんだ。咄嗟に後ろへ引くと、元通りに手が戻っていた。

 いったい何が起きたのかさっぱり分からない。手があることを触って確かめて、気味の悪さが背筋を這っていった。

 周りの景色から自分の手が消えた――「もう、帰ろう」。来ては行けないところへ来てしまったと直感した。本当にここはなんなのだろうか。驚きと疑問が渦巻き、恐怖と気持ち悪さだけが充満している。足が後ろに下がるだけでなく、足もとから指先、声までが震えていた。


 急いで折り返して帰ろうとした時、すれ違いさまに羊が見えない壁の方へ進んでいくのを目の端に捉えた。反射的に目を見張り、勢いに身を任せて首もとにしがみついた。

 引っ張ってここから離れようとするも微動だにしない。羊はそのまま向きを変えようとしても動こうとせず、何をしても全く動じずに、ただまっすぐ正面へ向かって歩き続ける。


「どうして、どうして、こんなに力強かったか?」息を吸い込み力を再度入れ直した。「止まれ! なんなんだ、いったい! ダメだ、止まってくれ。この先は…危ない気がする。行ってはダメだ」

 羊は渾身の力も役には立たないぞと言いたげに、ひたすら前進し続けた。まるで見えない力に引っ張られているみたいに、抵抗することの無意味さを思い知らされるようだ。

 見えない壁に羊の頭部が触れると当然のように消えていった。その光景を目の端でうっすらと映しながら見えない壁には水面のような波を立て、羊の進む速度に合わせてどんどん消えていった。


「待って、ダメだ! お前がいなくなったら、俺は――」


 目にいっぱいの力が入り、瞼が降り力強く押さえ込んでいた。真暗な視界に昔の景色が映りこむ。父さんと母さんに会った最後の記憶だった。

 鮮明に蘇る情景、仕事でふたりがこの森へ出かけ、いつものように帰ってくると思っていた。けれど、父さんも母さんも帰ってこなかった。

 玄関口を出ていくふたりのうしろ姿をまだ覚えている。

「いってきます。すぐ帰ってくるからね――」と母さんは言った。僕はふたりの姿を、まだ小さな手を握りしめて見送った。

 光の中に消えていくふたりの心象がずっと記憶にこびりついている。その言葉を信じてずっと待っていた。ずっと、ずっと、あの家で。待っていたのに――どうして、今になってこんなことを思い出すのか。忘れていた訳ではない。ただ、帰ってきてほしくて――。

「俺は、いつまであそこにいれば…」

 目に涙を浮かべて、最後は羊に押されるようにしてすべてが呑み込まれ、消えていった。






「――なにも…見えない」

 その先は真暗闇だった。今までのことは夢……ではない。羊毛の感触と力強く圧される感覚が確かに残っている。

 だが、寝ていたのかさえ思える脱力感が地面に腰を落としていた。瞼を開けているはずなのに自分の手すら見えない。壁に手や足が入っていく情景が鮮明に蘇ってくる。

 羊は、すでに触っている感覚はあるからすぐ傍にいることは間違いない。それにもう動きを止めて落ち着いている様子だった。


「いったい、ここはどこなんだ…」

 左手には羊の毛を握りしめている感覚が、唯一の心の支えであった。すると、小さな白い光が一瞬にして眼に入ってきた。瞬間的に起きた出来事に、眼を潰されたような激しい痛みが走った。

 目の前のものに距離感をつかめるようになるまで、多少の時間がかかった。光は松明の火にしては揺らぎがなく、もっとよくみれば宙に浮いていた。遠くないところにある光が暗闇を照らし、隅の方までは分からないものの、光の周囲が顔をみせていた。地面も奇妙に綺麗でいて平らであった。壁も同じように黒い板でできていることにこのときになって気づく。そしてなにより、すべすべしている。

 これは、初めての感触だ。

 眼の前の光が照らした先の下方――光の奥に、地べたに座り込んでいる誰かがいる。


「アレク…、アレク」

 聞き覚えのある声が自分の名前を呼ぶ。光の奥から――この声は、久しぶりに耳にする。


「その声は、ドルイド…様? そこに…いるんですか?」


 声と一緒に奥の人影の腕が微かに動く。それと同時に黒い塊が目の端を過ぎていく。こつこつと聞き慣れない音を反響させ、黒い何かが、人影の方へ向かって眼の前を通っていった。白い光に包まれるまで、黒い何かが羊だと気づかなかった。


「こっちにおいで…」

 同じ声なのに今度は苦しそうな乾いた声が響きわたる。地面に座ってこちらを窺っているか、そこから動こうとしなかった。壁にもたれかかり、身を屈めるようにしているように見える。

 張り裂けそうな胸の高鳴り、辺りはいっさい見えない黒い壁面、そしてひんやりする空気の中、自分の声はいつの間にか出ずにいた。


 羊がちょうど奥の人影のところまで到達したところで、伸ばしてきた腕が白い光の下に現れた。乾いて割れたような黒い腕が、すでにドルイド様ではないことを語っている。でも、さっきの声は――薄暗くて見えにくいが、人影の傍に何か落ちている。「あれは…」若しくは目が慣れてきたのかも知れない。そこには、ドルイド様がいつも羽織っていたものに似たローブが広がり落ち、腕と手が壁際の方に倒れていた。

 嫌な汗が頬を流れた。見覚えのある、皺が寄り骨が浮きでるぐらい細い指と腕、同時に顔が浮かぶ。あれは、ドルイド様のものではないのか。

 汗が流れるのと同時に嫌な想像が膨らんでいく。もう、自分の手を握ってくれたあの人はいないのかと、胸の奥にある記憶をしわくちゃにして、思い出せる記憶に身を裂かれそうだった。


 黒くて長い腕が伸びていき向かってくる羊に指をさすと、羊の足もとの地面にまで大きな黒い影が伸びてきて、羊は微動だにせず、そのまま底なし沼にでも沈むようにして黒い影の中へみるみるうちに呑まれていった。

 まるで置物だ。アレクは一部始終をただ見ていることしかできなかった。羊は鳴き声ひとつ上げずに消えていくまで、何をすべきなのか、どうすればいいのか分からないまま、ついには羊の姿は眼の前から消えていた。

 羊が消えた今、眼の前の人ならざる存在と対峙した状況にあった。眼の前で起きたことが飲み込めなかった。羊はどこへ行ったのか、眼の前のあれは、ドルイド様は――頭の中にできた渦巻きが体全体を包みこみ動かなくさせて、膝を地面につけたままただそれを見上げるしかなかった。

 大きな人影が動きだした。


「なるほど、これが……"ヒツジ"。昨日は"トリ"で、その前が"リス"と"トカゲ"。それから…"ドルイドの――"。大丈夫か、アレク?」


 オウム返しのように名前を呼ぶ。

 身長は自分よりも遥かに高く、ぼさぼさした黒髪に、胸のあたりには大きな切り傷のような跡がある。黒い生き物が眼前に息を荒くして、暗闇に浮かび上がる金色の瞳をした双眸が鋭い目つきで見下ろす。

 低い声で判然と入ってきた言葉が耳をつんざく。想像が当たってしまった驚きが心臓を止めて、気持ち悪さに拍車がかかるように眼の前が見れなくなりそうだった。


 大きな荷物でも急に背負わされたかのような、この場が生き物になって動いているかのような、重い空気を揺らして大きな体をゆったり動かしている。

 まるで時間がゆっくり進んでいるみたいにひとつひとつの動作が目に留まっていく。それを巨人と言ってもいい。金色の瞳を動かし、獲物を狩る時の狩人に狙いを定められているような気の張りを覚えた。


「アレク。アレク…、今もあの木のもとにいる女を連れてこい。ワタシのもとに供物を持ってこい。そうでないと、お前の大事なものすべてが消えてしまうぞ。アレク…」


 また名前を呼ぶ。

 何かを愛でるように、また圧し潰すようにゆっくりそれは言葉を吐いた。「木のもとにいる女」、すぐに連想したのはエイルのことだった。いつも自分と一緒に木の下で休んでいる。そこにエイルのことしか思い浮かばなかった。

 もし連れて来れば、エイルも羊やドルイド様のように消える。でもそうしないと、カリトンも、オルグさんやエラさんも、すべてが……。


「さあ、約束だぞ。アレク…」

 突然視界が、眼の前にいた巨人が遠のいていき、気づいたらさっきまでいた薄暗い空間の中にぽつりと立っていた。周囲を木々が密集してできた円形の空間。木や葉などの植物が目に入ってきて、微かに陽光も入る。そして、さっき自分が消えた場所を前にしていた。

 最後に見た巨人には、羊のような角が生えたいた。すべて夢だったと思いたかった。自分の周囲を見回しても羊はどこにもいない。ひょっとしたら自分だけここへ来ただけなのかも知れない。あの木の下まで戻れば、羊もいるのでは。急いで来た道を辿り、あの木の下に着いてすぐに羊たちを数えていく。

 やはり足りない。夢ではなかった。

 出会うべきでないものに出会ってしまった。よりによっておかしな約束まで。約束という言葉があの巨人と今でも繋がっているかのように感じられた。なにかの間違いだと思いたかった。その言葉が自分の中で残響していた。


「どうしたの?」

 目を丸くしてまじまじと見つめる瞳が遠くに感じるようだった。すぐ傍にいるはずなのに。温かい光を閉じ込めたような眼をしている。


「エイル…」


 聞き慣れた声に、走馬灯のようにさっきまで起きていたことが脳裏を掠めていった。足や手が小刻みに震えている。また汗が頬をつたい、息が止まりそうになった。見開いた目の端に、黄金色の髪が風に吹かれて揺蕩う彼女の姿が映った。

 どう言葉を返せばいいのか分からなかった。ヒツジが一頭いなくなってしまったこと、そうしたら巨人のことを話さなければいけない。信じてもらえないだろうけど、すべて、話すべきだろう。


「ああ…うん」


 けど、それ以上の言葉を見つけることができなかった。

 残してきた羊たちはいつも通りに過ごしていた。また数を数えて、一頭を除いて全部いることを確認して、散らばっている羊たちを集めて今日はもう帰ることにした。

 帰る途中、手と足はまだ震えていた。何度も頭に暗闇のなかでの姿を思い描き、あの声が耳にこびりついている。




 いなくなった羊のこと、オルグさんならすぐに分かるだろう。ただなんて話せばいいのか、頭の中で必死に言葉を見つけようとしていた。

 納屋に着くとオルグさんが目を見ひらいて、もう帰ってきたのかと、開口一番に言われた。


「あ、あの…、すみません。オルグさん…」

 一度息を吸ってから続けた。

「あの、その…森の中に羊が迷いこんじゃって、そしたら変な場所で巨人が羊をどこかへ消してしまって…、それで羊が一頭いなくなってしまったんです…。その、ごめんなさい。俺がちゃんと見てなかったせいで」

 何を説明しているのか自分でも分からないほどだった。視線が定まらず、あちらこちらに壁や地面や納屋の中に入った羊を映した。その間、暗い部屋での記憶が見えたり消えたりした。

 見失った羊を探すためにあの森まで行ったこと、訊かれたことに対してゆっくりと話した。あの約束のことまで。ただし、「木のもとにいる女」については話していなかった。エイルを想像してしまうのが恐かった。あとは片言になった言葉を、時折早口になって紡いで伝えた。


「そうか…。だが、よく帰ってきたな…」

 オルグさんは僕の両肩に手を乗せて目を向けて言った。


「え?」


「次からは気をつけなさい。そいう時は一度帰ってきてからみんなで探すんだ。また恐いものに襲われてしまうかも知れないからね。いいね?」


 オルグさんの表情に怒る様子はなく、まっすぐに入ってくるオルグさんの視線が重く貫くようだった。心配してくれたのだと思った。それは、エイルといるときのことを思い出す温かい眼差しだった。

 低い声で遠くのものでも見るような眼で話した。今聞いた話は村人数人と調べてみると言ってこの話は終わってしまった。


「今日はもう帰りなさい…」


 納屋を出ると外でエイルがひとりで風に吹かれていた。長くて黄金色の髪を靡かせて、木も岩もない草原の真中で静かに。

 初めて見る姿だった。目を閉じ、風と会話するように佇んでいた。

 僕に気づくと、閉じていた瞼を開けて振り向いて笑みを溢した。


「お話は終わったの?」

 その場に佇んだまま、いつもとは違う声が耳に届いた。離れているのに、ありのままの、自然の声に聞こえた。


 僕は小さく頷いた。


「今日ね、初めて焼いてみたパンがあるの。どう、食べていかない?」

 いつの間にか近くへきて、またあの眼が僕を覗きこむ。僕はまた小さく頷いた。



 森へは、山の岩間にある一本道からだけでなく、入口は違うが村から他の村へ延びる道の途中で、右方へ伸びる一本の小道を通って行けば辿り着く。


 誰も居ない家に帰るといつも見る光景よりも明るくて、少し穏やかさを感じられた。懐かしさが込みあげてくるようだった。両親は、二人でよくあの森へ木材を集めに行くと言って出かけた。けどある日、二人は帰って来なかった。俺がまだ幼い頃、もう十年も前、あの日の前日は酷い雨が降ったのをまだ覚えている。二人は未だに帰っては来ないまま、僕は独りになった。

 親のいない子供は村では厄介者扱いされる。子供にできることはやはり限られている。運がよければ引き取り手が見つかり、そうでなければ森に入って野垂れるかのどちらかだ。それでも、待ち続けた。

 誰も帰ってこなかった代わりにオルグさんがきて、そして、僕に役割をくれたのだ。


 家の小さな子枠から青空が見えた。今日はいい天気である。窓というよりは子枠だった。そこから入ってくる風が気持ちよかった。

 眼をつむり子枠際にしばらく立ち尽くした。あれはいつからあの森にいたのだろう。静まり返る家の中、その静けさがあの声と言葉が耳に触れた感触を思い出させる。

 パレスさんが言っていたのはやつのことだろうか。でも、あそこは村に近い出入り口から入るには、森の奥の方になる。

 思い出すだけでも、一瞬にして身体の震えが止まらなくなる。あの姿が、映像が目に張りついているようだった。


 自分がなんとかしないと。それだけが頭の中にあった。眼に入った食料をみて、これを持っていったら許してもらえないだろうか。

 そんな閃きが体を動かしていた。家にあった食べられそうな物をかき集めて鞄に詰め込んだ。帰りが遅くなった時の為に松明を忘れずに、いったん家の戸口に足を置くと、そこから動けなくなってしまった。

 何もしないよりはいいだろう――。


 長い距離を走った。また山に登り、そしてくだって森の入口に辿り着いた。今度は迷いなく森に入り、あの場所まで進んだ。すると、早々に誰か人の声がした。

 そこに複数の人の声と、オルグさんの声が耳に入ってきた。咄嗟に木陰に隠れ、窺い見る。村人の両手に鍬など鋭利なもの手にしてみんな同じようなものを合わせ持ち、5人で話した場所に来ていたようだった。


「オルグさん、本当にそんなものがあるっていうんですか?」


「ああ、そのようだ。あの子が言っていたからな」


 また別の男の口が言った。


「あの子って、あの孤児の。ただ気を引きたいだけかも知れませんよ。今じゃ誰も相手にしてませんし」


「両親がいなくなったことは不幸でしたけど…」


「だからといって、何もしないわけにはいかんだろう」

 言葉を切るようにオルグさんが言った。そこでちょうど説明したところに差しかかった。あの暗い部屋がある場所だ。


 オルグさんが手を伸ばすと、自分と同じように腕が消えていった。そのことにみんな驚いた表情をしていた。

 すると、何もないところで波が立ったように風景が揺れた。やつだ。目の前にあの巨人が姿を現れた。今度は自分から出てきて村の人達の前に、忽然と現れた。


 離れたところからみると、とても大きい姿だった。大人二人分の高さはありそうな体躯で、ひび割れが前より酷くなっているんじゃないのかと思った。今度はさっきよりも明るいからその姿がよく分かった。

 そのあと、黙ってみんなのことを見下ろしていた。息は相変わらず荒く苦しそうにしていて、また無言であった。


 やはりその場に出くわした人はみんな言葉が出ず怯えている様子だった。大人が5人もいればと思ったが、できるはずがない。あんなものに僕らがどうこうできるものじゃない。

 次の瞬間、自分の目を見張った。その場にいた人達が全員、突然いなくなってしまった。


 数舜、何が起きたのか理解できなかった。水面に小石を落としたように波紋を広げて、そこにいた人達は全員その中へ消えていた。そこにいたオルグさんも一緒に――。

 あっという間だった。満足げな顔をしたその巨人も、また消えていなくなった。


「そんな…」

 誰もいなくなってしまったその場を前にして、何を考えていいか分からない。ただただ、話さなければよかったという後悔だけが込み上げていた。


 空を見上げるとすでに暗くなっていた。もうどれだけここにいたのかさえ分からなかった。

 綺麗な満月が出ている。森のじめじめとした空気が汗を頬に流した。持っていた松明に火を灯すことなく、暗闇を歩いた。途中何度も転び、振り返ることなく、この森を背にして歩きつづけた。

 山から村へ帰える途中にはエイルの家や羊たちの小屋があり、その傍を横切るとその先には麦畑が広がった。麦畑の真ん中にできている一本の道を歩きながら、少し冷えるくらいの風が麦畑に波をうち、麦が掠れる音はどこか寂しさを歌うように聴こえてきた。


 大変なことになった。どうしたらいい、どうしたらいい。俺のせい、だよな――。

 目にはいる家々から小さな灯りが灯っていた。ようやく村に帰ってこられた。閑散としていた。その光景を横切って家に帰ろうとしたその時だった。村の中心まで延びる道に灯りが一つポツンと見えた。そこから何かが向かって来る。

 まだ遠い灯りが近づいてくるよりも先に、小さな影が腹部を直撃した。

 何かが触れている。今はこの感触でさえ遠くに感じた。そこにいたのは小さな女の子だった。


「レイラ…か」


「久しぶりだね、アレクお兄ちゃん。元気だった?」

 綺麗なブロンド髪を結っていたリボンが目に留まった。

「どうしたの、何かあったの?」


 どうしてこんな夜更けに一人でいるのかと思ったら、さっきまで見えていた灯りとともにレイラの両親が歩いてきていた。しばらく会わないうちに雰囲気も少し変わったような気がする。以前に会ったのはもう半年以上も前だ。


「今、お友達のおうちでご飯を食べてきたところなの」


 レイラはニコリと微笑みながら話してくれた。レイラの明るく元気な声に胸が裂けそうだった。勢いに乗ってレイラの髪結いに青色のリボンがなびき、同時にエイルの黄金色の髪を、ふと思い出した。


「このリボン、お母さんからもらったの。それでね、ふたつあったからエイルお姉ちゃんにもわけてあげたの」


「そうなんだ…。きっとエイルも喜んでいるよ」

 するとレイラは嬉しそうに笑みを浮かべた。


「さっきお兄ちゃんのおうちのほうからお姉ちゃんが歩いてくるのが見えたけど、何かあったの?」

 レイラは不安そうに覗きこむ。レイラの双眸をまっすぐに見ることができなくて、つい逸らしてしまった。村の人の言葉が過る。そして、レイラの両親に眼がむいた。


「明日、会った時にでも聞いてみるよ。ごめん、今日はもう疲れちゃって…」


「うん、わかった。それじゃあ、おやすみなさい。お姉ちゃんのこと泣かしたらダメだからね!」


 手を振りながらレイラは手を引かれて帰っていった。その後ろ姿が暗闇に消えるまで立ち尽して見ていた。

 エイルが何をしていたのか気になったが、さっき見たものが今でも信じられなかった。変わらない平凡な日常が、胸を絞めつけ圧し潰す苦痛へと一変してしまったようだった。


 家につくと扉の横にバスケットが置いてあった。そのバスケットを手に取り中を見ると美味しそうなパンが入っていた。さっきのレイラの話を思い出した。これを届けにエイルが持ってきてくれたのだろう。もう冷めていたパンに温かみを感じるようだった。

 家の中に入ると真っ暗で静かな家の中、それを一噛みして眠ることにする。

 あれは何かの間違いだ。朝になればまたいつも通りの明日がやってくる。そうに違いない。


 ベッドの中でうずくまりながら瞼を強く閉じた。あれは何かの間違い、間違いだ。起きればいつも通り変わらない朝がやって来る。そう願いながら眠りについた。





 目が覚めて勢いよく顔を上げた。

 そこは大学の教室、講義の最中だった。教室にいる全員の視線の的になって、先生の視線が痛いほど伝わってくる。ここは、僕は――。

 嫌な汗がこめかみを流れた。

 先生の刺す勢いで睨む視線が現実味を教えてくれた。そして、頭の中で繰り返される映像から生じた感情が果てしなく続いていった。

 もう、あの日常には戻れないと、教室にかけられた時計の針が言っているような気がした。


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