七話:「つつら風」
頬に何かが触れた。
これは風で、草の匂いが鼻をつく。
あの木の下にいるときと同じ匂いがする。
緑がきらめく名前のない木の映像が瞼の裏に浮かぶ。明滅する光と葉の影の木漏れ日がリズミカルに動く情景が、壁の隙間を縫って入ってくる匂いと一緒に流れこんでくる。
それを見上げて、風に吹かれて、呆然として――薄暗さにくわえて煤けた天井を支える梁が、瞼を開けると映った。
夢が覚めたように眠気がまじる。いつもと変わらない、変わらないいつもなのに、今日はどこか変わって見えた。
季節の変わり目を肌で感じとったからなのか、それとも朴訥とした日々に嫌気でもさしているのか。若しくは、新しい何かを求めているのか。
青い空に灰色の雲が覆うように、もやもやしたものに目の前を覆われて、“切ない”というより、“寂しい”という感覚に支配されていくようだった。
これは彼と僕、どちらの“もの”だろうか――。
眠い目をこすりながら石造りの上に藁と布を敷いた寝床で、この朝の匂いと肌寒さに、二の腕に手を擦りあてながら寝床の中でうずくまった。
ぼんやりとした意識の中、答えの出ない疑問に思いをめぐらせていると、家の外で鳴く鳥たちが軽快に答えた。
「寝すぎた…」
ハッとして思わず息を呑んだ。
急いで家を出ると、空はすでに白んできていた。空にはまだうっすらと青色というより瑠璃色を残して、少しだけ肌寒さを感じさせる秋の空が拡がっていた。
風が吹いて、呼吸をするごとに新鮮な空気が肺を満たした。陽の光が足元の草葉に影を作り、木々の黒っぽい色が明瞭になっていく。
小走りになって通り過ぎていく色の数々が映写機でフィルムを回して、スクリーンに映し出された白黒の古い映画を鑑賞しているみたいで、そこにどんどん色が増え、どんどん深くなって、しだいに世界がつくられていく。そうして彼の見る世界を知っていくのである。
草葉を別けた茶色い砂利道を早足で進み、村を横切って麦畑の道を通って、村から少し離れた小高い坂の上にある一軒の幼馴染の家へと向かう。
坂道は山の斜面みたいに足場が悪く、それでも慣れた足取りで登り、そして息が上がった。ここはゆっくり行きたいところだったが、白い雲に茜色を反射させ、空は晴ればれと青い空が拡がりつつあった。
家の裏へまわると、二十頭あまりの羊やヤギたちのいる小屋でオルグさんが先に世話をしていた。
「おはようございます。すみません…」
腰を落とし、オルグさんは羊飼いたちの調子を見ていた。振り向き、一度細い目をさせて低い声で言った。
「おはよう、アレク。珍しいな。遅れるなんて、はじめのころ以来だ」
ゆっくり流れるように、オルグさんの声が僕の中に入ってきた。急いで走って壁のフックに吊るした杖を取り、準備を整えて羊たちを外へ出す。
「いってきます」
「気をつけるんだぞ」
オルグさんの低い声が聞こえた。
「…気をつけるんだぞ」
答える間もなくエイルの眠たそうな声が流れ込んできた。いつの間にかオルグさんの後ろに立っていた。
「はい」
それが少し面白くて、眉をしかめて苦笑いを浮かべて、彼は柔らかい声で答えていた。
少し進んだところで不意に振り返ると、家から離れたところでエイルが手を振っている姿がまだ目に入った。杖を持った手で振り返して返事をする。
今日も彼女は来てくれるだろうか――上げた手を降ろした時に、ふと思った。
ここのところ毎日、彼女はここへ来て同じ景色をみた。
もう何年も前のこと、最初にオルグさんからこの仕事について話を聞かされた時、両親がいなくなった彼にとって回ってきた役割だと、心にストンと落ちるものがあった。
この役割はそういうものだと、一人でいることが当たり前なものだと、仕方がないことなんだと。
その時に自分の生きる意味を悟った気がした。
羊たちを連れて移動していくとあの山が見えきた。その中腹に木が一本、緑色の葉をつけて佇んでいた。
今日は少し湿った風が吹きつけてくる。雲は薄く膜を張るように拡がり、蒼い空がうっすらと見える。けれど、もしかしたら雨が降るかも知れないと思った。
枝草が揺れる音が、僕の中の何かに触れた。
一瞬、何かを思い出そうとして消えた。波が立ち思い出してはまた消えていくを繰り返し、不安や焦りといった感情が浮かび上がる。今日の天気はどこか焦燥にかられ、そこに冷たい風が吹きつけて不安を抱かせた。
冷たい風が吹き、ちょうど陽射しも射してきた。羊たちも安穏と草を食べてゆっくりくつろいでいる。
ふと、思い出す。
まだ子供の頃、森のドルイド様が教えてくれたことがある。茶色いローブで全身を覆って顔を半分だけ出した老婆で、頬や額に皺をよせて柔和に穏やかな口調で話をしてくれる。森のなかに暮らし、ときに占いをして、薬をつくり、物語を語る。その人のことを森のドルイドと、みんなから呼ばれた。
まだ幼かった彼とエイルが森へ行くと待っていたかのように、森の出入口にある岩に腰掛けていた。
出会うといつも、「エイル、カイル、アレク。よく来たね」と笑みを溢し、名前を呼びかけてくれた。僕たちはいつも知らない話や物語を聞き、3人揃って手に汗握った。
いつだったか、森を歩きながら話してくれた。
「昔から、人にはそれぞれに運命の木というものがあってな。その木にはその人を癒し、悪いものを払ってくれる力があると言われているんだよ」と。
3人で自分の木を探した思い出がある。だけど、その時は結局、よく分からないまま終わってしまった。
森のドルイド様は言った。
「いつか解るときが来ようて」と。顔を余計に皺をよせ笑っていた。
今でも分からないままだけど、こんなところで一本だけというところが、どこか似ていると思えた。
普段から山へ出向くばかりで人の集まるところへは敬遠しがちで、山へ行ったり、羊やヤギたちといる方が、気が楽でよかった。だから、仕方がないのかも知れなかった。
もしかしたら、なんて想像をするだけでここにいることが安らげるようになるなんて、それも運命、というものなのだろうか。
牧笛に唇をつけて音を鳴らした。風の流れに倣うように、軽く息を吹いて音を奏でる。ひとりで小言を話すように、小さなメロディを奏でていった。
仰向けになって寝転がり、木の枝と葉の隙間から陽の光が見え隠れしていた。さっきのメロディは父さんから教わったもの。この風とおなじ、流れていく季節を詠ったものだ。
この風の音が子守唄のように聞こえても、強ち間違いではないかも知れない。
木の上に――「ん?」人の影、のような塊が映りこんだ。
木の上方に誰かいる、気がした。笑みをみせてその木の上の方に座っているようにも見えた。刹那に音が消え、時間が止まる感覚の中、息を呑んだ。次の瞬間、風が吹いて、木の枝が揺れて、もうそこには誰も、何もなかった。
「なにかの見間違い…か」
気のせい。そうだ、そうだとも。きっと枝葉が重なっていただけだ。
起き上がってみると大きなあくびが出た。今日も何もない。平穏そのものだ。そして、手もとに何か当たるのを感じた。すぐ目がいったそこに「また…」まだ温かくてふさふさしていて、黒く綺麗で艶のある羽根がそこにあった。
いつものように、その羽根を鞄に差して陽の傾き加減からそろそろ羊たちの様子をまた見に行く頃合いだった。みんな草を食べ、ゆっくりしている。
ひい、ふう、みい、それぞれ思い思いに広がって草を食べてくつろいでいる。
もう一度数をかぞえる。
だが、何度も数を数えても「数が合わない」という結論へたどり着いた。見落としがないか、隈なく探した。ひとり言をこぼしながら数え直すが、やはり羊の数が一頭だけ足りなかった。
急いで他の箇所を探しに回った。少し離れた岩影や草の丈の高い場所も探したがどこにも見当たらなかった。いなくなってしまうことは珍しいことではないにしても、いつもならすぐに見つけられるのに、ここまで探しても見つからないとなると――しだいに胸の高鳴りは強くなっていた。
羊は一頭でも村では貴重な食料源である。いなくなってしまえば限りある食料はそれだけ減ってしまう。ちゃんと見ることができなければ、何のために自分がいるのか分からなくなってくる。
いや、寧ろ僕はいないほうが――。
焦りが増す一方、オルグさんの姿が脳裡をちらつかせる。自分のせいで村の人たちに、オルグさんに迷惑をかけてしまう。しいてはエイルが――。
ふと、ある場所を思い出した。
まさか、あの道に行ったのでは、と足早になって向かった。
そこはあの一本木からでも見える場所にあり、ここから森へ行くことができる一本道があった。
目と鼻の先にあるような距離にあったにもかかわらず、目の前まで来てみて思わず足が震えた。踵が浮いているような、力が抜けて踏ん張りが効かないでいる。その道の先にあるのは、オルグさんが以前話していた森だった。
地面に視線が向いた。
思わず息を呑んでいた。
うっすら浮かび上がってみえる羊の蹄が、この渇いた土の上に残されてあった。
間違いない。ここを通ったんだ。
ずっと続いていく一本の山道。もしかしたら、まさか――そんな不安になる想像が頭から離れなかった。
いくつも転がる岩と岩の隙間にできた細い一本の道。一度、山の麓あたりまで下りることになるが、それでも迷っている暇はなかった。
どこまで行けども足跡はぶれることなく、まっすぐ山を下っていた。他に足跡はないのに、まるで誰かに連れられているかのようであった。
普段はその入口にすら近づくこともないのに、この先へ行っても草も生えていなければ飲み水になる川や泉などもない。森に辿りつくまで何もないはずなのに。
下っていく最中、徐々に草葉や花など植物が目立つようになっていき、そして僕の足は止まり、今は森を眼の前にしている。足跡はまだ続いている。
さらに、森のなかまで――。