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六話:「夢のあとのソラ」




 5月。今日は雲ひとつない青いソラがひろがっていた。


 あれから夢を見るようになった。

 毎日のように。

 羊飼いの彼の夢をみる。


 昨日もいつもと同じ、ソラを見上げれば緑をつけたあの山がそっと聳えて、丘の上に生えた一本の常緑樹が「おはよう」と顔をみせる。

 そこへたどり着くと足を止め、羊や山羊たちは彼を追い越して散らばっていく。風に吹かれるように、好きなところへ、思うところへ散らばっていく。

 たまに様子をみながら木の下に膝を立てて座りこんで、小高い丘からソラの先を眺めた。

 牧歌的で長閑(のどか)な時間が穏やかな無へと追いやっていくのを、彼の眼を通して静かに浸透していた。その最中にエイルって子が会いに来て、そしてまた黒い羽根を拾い上げる。いつもと変わらない朴訥とした生活を繰り返すなかで、時折、どちらが本当なのか分からなくなりそうだった。

 同じ毎日、同じことを繰り返していても、現実から離れたがっているのかと思うぐらい居心地のよさを感じている。またそこに、自分自身が何かを避けているかのような、そんなふうに思えた――。



 大学から駅に続く商店街は、すでに街路灯の明かりが映える時間帯になっていた。そこにシックな和風感のある居酒屋があった。やや広めで古木をつかった柱や梁が顔をみせて、黒っぽい木製のテーブルに掘り炬燵という趣きのある店内だった。

 そこで加藤信也と久しぶりに会う約束をしていた。

 加藤とは学部も違えば、授業もゼミも違った。大学内で会うことはあっても最近はなかなか予定が合わなかったこともあり、今日は4月以来のことだった。


 夜19時過ぎ、サラリーマンから学生まで賑わっている様子に、いたるところから声が飛んでくる。そこに店員さんが(せわ)しなく動きまわっている。そこから店員さんの声もわずかばかり聞こえてくる。


「よう、お疲れ。やっときたな」


 男性の若い雰囲気の店員さんが急ぎ足で、注文したなみなみに注がれた麦酒の入ったグラスを、僕の眼の前に手早く置いていった。


「それじゃあ、オツカレ」


 加藤が言うと、当たったグラスのその中はすでに半分ほど減っていた。目の前のテーブルにはスティックポテトに枝豆、お刺身、最近ハマった馬刺しも置かれていき、その傍らでジョッキに入った麦酒がひたすら減り続けていった。

 加藤が顔を赤く染めながら、口にあてたグラスをテーブルに置いて徐に口を開いた。


「そういやこの間、お前と神原さんがいるところ見たけど、正直どんな関係なの? まさか」

 じっと見つめてくる加藤の眼差しに気持ち悪さを覚えた。


「想像しているのとは全く違うけど、ゼミが一緒だからメシとかはたまに…」


「なるほど、一緒にメシを食う仲なのか…」

 顔を俯かせる加藤がうなだれるように言った。


「いや、だから…」


「神原さん、めっちゃかわいいし、頭いいし、人気あるのは知っているか? それがまさか、冴えないお前と…」

 加藤は続けて言った。

「そういや佐々木のやつ、覚えてるか? あいつ子供できたんだってよ」


「そうなんだ。 彼女できたとかじゃなくて」


「まあ、あいつは高校をでてからすぐ就職して働いていたから、そういう出会いもあったんだろう。付き合っている彼女がいるって話は聞いていたけどな」


「俺は何も知らなかったけどな」


 加藤はグラスを口もとにあてて喉に流し込んだ。


「…彼女ほしいなあ。俺にはナゼできない?」

 俯く加藤を前に、飲み干したグラスをテーブルに置き、一拍置いてから言った。


「知らないけど。でも、シンは人を見る眼はあるけど、考えてることが顔に出やすいから、相手からみればシンの下心とか見えみえなのが分かっちゃうんだよ」

 数瞬、沈黙が続いた。

「もしくは、一度トイレの鏡で自分の顔を見てくれば?」


「うるせ…」

 グラスを一度口元に当てる加藤は眉をしかめて続けた。

「そういうお前は、もう大丈夫なのかよ?」


 視線を落としながらグラスを口もとに当てる加藤の姿が眼に入った。


「大丈夫って、なにが?」


 テーブルに中身が残り少なくなったグラスを置いて、加藤は答えた。

「いや、なんでもない…」


 またもう少しお酒を飲みながら最近あった話をして、今日はそこまでとなった。

 もう22時を過ぎていた。通り過ぎていく人の数も少なくなっていて、御茶ノ水駅で二人ともふらふらになりながらそこで別れた。赤羽駅に着いて少し歩くと、横断歩道の信号機前で足を止めた。


 そういえば以前、駅を出たところで林さんに会ったんだった。加藤も同じクラスで知っていると思ったが覚えているだろうか。

 今日訊いておけばよかった。


 それから一週間が経った。

 日々の日常があっという間に過ぎていった。今日の授業は先生に指摘されることもなければ睨まれることもなかった。ただ淡々と話が続いていた。些か熱が入り過ぎているように見えなくなかったが、そのおかげで僕はずっと考え事をしていられた。おかしな話である。


 肩に何かつつかれる感触がした。目の前にいた先生も、授業を受けていた生徒もいつの間にいなくなっていた。

 また、つつかれたこともすでに忘れかけて呆然としてしまっていた。


「忙しそうにしているみたいだけど、今ちょっといいかしら?」


 鼻笑い交じりの声が後ろから聞こえてきて、振り向くと、つついた指をどこか上を指している神原由依の姿があった。

 それは教室にある時計を指していた。授業が終わってからもう五分を過ぎようとしていた。額に汗が突然滲んできた。やはり、おかしな話だった。

 その瞬間もなく、神原さんは臀部を両手でかかえて笑い伏した。


「君は、楽しそうだ…」


 恥ずかしさが勝って、他に何を口にすればいいのか思いつかなかった。


「だって、教室のぞいたら一人でボケっとして、声をかけたらそんな間の抜けた顔しているんだもの」

 眼の端に涙を浮かべて笑っていた。


 ようやく息が収まりつつある神原さんをよそに、机に乗ったテキストなどをアルファベットでロゴが入った黄色のバッグパックにしまって、無言で立ち上がって教室を出た。


「涙でちゃった。こんなに笑ったのは久しぶりかも」

 座席から立つと、「あら、もう行くの?」と冷やかしともとれる声が聞こえてきた。


「ねえ、どこへ行くの?」


「メシだよ。昼メシ」


 教室から移動している最中にも眉をひそませて、それまでの短い距離を歩く中、見るたびに口に手をあてて三回はひとりでクスクスと笑っていた。


「それなら私も。でも、その前にまた図書館に寄ってもいい?」

 神原さんはひと呼吸して続けた。

「本を返しに行きたいの」


「…まあいいけど」


「なに? まだ怒っているの?」


 一瞬鳥肌が立った。先月のことが脳裏を過った。家に帰ってからあれは押し入れにしまったままだった。それでも返しにいかないと、と思いはしてもなかなか身体が動かなかった。


 ここからだと学食にいくより図書館の方が近かかった。そんな時間もかからないだろうし、外で待っていてもいいし、軽い気持ちで言ってしまった。


「そういえば久賀君って、今住んでいるところって」


「赤羽だけど、高校卒業したあとにちょうど引っ越すことになって、前はべつのところに」


 神原さんはすぐに視線を逸らした。


「そう…。久賀君は…」


「うん?」


「いえ、やっぱり、なんでもないわ…」


 すっかり落ちつた神原さんが静かに僕の前を歩いた。横切ろうとした瞬間にまた笑みが見えた。ああ、まだなにも落ち着いてないんだと肩を落とした。


 そのまま歩いて校舎を抜けて図書館へ到着すると、先に入ろうとする神原さんのあとを着いて中へ入った。受付にはいつも通り人がいて、他の利用者はいつも通りちらほらと眼に入った。ただ、そこにはいつも通りの光景があった。


「まあ、当然か…」


「何が?」


「いや、なんでもない」


 ついいつもの流れで入ってきてしまったけど、あの時の違和感よりもそわそわして落ちつかなかった。すぐだからと神原さんは受付のところまで小走りで行ってしまった。


 奥の方を敬遠するように出入口横で待った。壁に背を向けて、左右や周辺を確かめるように見まわし、黄色いドレスを着た人はいないかきょろきょろして、いろんな人と目があって、逆に気まずくなった。そのせいでいろんな人に見られている。


 そういえば、あれから神原さんから言及されることはなかった。なにを言われてもおかしくないことだったのに、不思議なこともあるものだった。


 ハッと、神原さんの姿が目にはいった。受付で返却をもう済ませて不思議そうにこっちを見ながら歩いてきていた。

「お待たせ」の一言を耳にしてから、僕は早くこの場から立ち去りたくてガラス扉を開けた。


 図書館から出ようとしたところで、少しうしろを振り返った。もしかしたら、なんてことを考えている。

 まるで、また会いたいみたいな。けれど、もう会いたくないと思う自分が半分いた。

 しかし、何もない、いつも見る景観があるだけだった。


「どうしたの? なにか借りるものでも…あったの?」


「いや、そういうんじゃ…」


 神原さんが眼を丸くして僕を不思議そうに見ていた。扉が閉まり、眉をひそめて丸くした眼でまじまじと観察するように。

 視線を逸らして、震える指先をポケットに入れた。


「ホントに大丈夫? なんだか、お化けでも見た顔してるわね」


 神原さんの前を少し早く歩いた。


「ああ、でも、大丈夫だよ」


「そう…」


 そのあと神原さんは口を閉じてしまった。

 少し間が空いた。


「じゃあ、行きましょうか。お腹すいちゃった」

 ハサミで紐を切ったように、頭の中が昼ごはんのことにカチッと切り替わり、僕らは歩きだした。


 今日の空は快晴で、頬に触る風が気持ちよかった。陽射しの中に爽快な風が吹いた。歩き続けるなかで悪い気分が薄らいでいくような気持ちよさがあった。不安とか、恐れとか、心がバランスをとって落ち着きを取り戻していくのが分かる。この感覚を心地良いと思うまで時間はそんなにかからなかった。

 しばらくして「あ」と言葉が小さく漏れた。


「今度はどうしたのかしら?」


 一歩、二歩、距離をあけて、神原さんは僕の前にいた。


「あ、いや、ごめん。考え事して…」


「いいわよ。そういう時もあるわよ」


 もう食堂の手前だった。

 神原さんは先に入って、足早に席も決めて中で待っていた。


 僕はまたラーメンを頼んで、神原さんはパスタを頼んでいた。何か言いたそうに見えたけど、目の前に座る神原さんはまたいつも通りにおしゃべりを始めていた。今日起こったこと、この半日もなかった時間のことを細やかに話していった。その話を半分聞きながら、僕はラーメンをすすって、たまに言葉を返しながらラーメンを食べすすめた。


「そういえば」と、神原さんが話している途中でつい口が衝いて出てしまった。「何か、用があったんじゃないの?」と言ったところで、先月のことが過ぎった。


 神原さんの動きはそこで止まった。小さくうなって「なんだっけ、忘れちゃったわ」とその一言で簡潔していた。


 神原さんは話題を変えて別の話を始めた。都合のつく時間まで話を続けて、今日はバイトがあるからと言って席を立つと「しっかりね!」と、

 去り際に一言残して神原さんは帰っていった。



 新橋の駅の近くにあるコンビニで週二回のアルバイト。今日はいつもの仕事も捗らない。いろんなところを行ったり来たりしている気がする。

 またため息が出て、だんだん自分に嫌気が差してきた。さらに声をかけられると、僕の手から商品がひとつ落ちた。


「なんか、今日は元気ないね。何かあった?」


 先輩の望月さんだ。


「いや、なんかいろいろあって。すみません…」


 顔を落とす僕に笑って答えた。


「そうなんだ。よく分からないけど、とりあえず頑張って」


 その声は低く、お客さんに聞こえるか聞こえないかぐらいの声だった。売り場に立ち尽しながら、床に落ちた商品をまた手に取った。


「今日は早く帰ろう…」と、ボソッと声がこぼれた。


 夜の23時で店を閉めて、作業が一通り終わったところでやっと帰れるようになる。

 最後まで一緒だった先輩たちに挨拶をして今日は先に店を出た。望月さんは「今日はいつもより早いね。お疲れ様…」と、眉をひそめた笑みで他に何も言わずに見送ってくれた。


 なんだか肩が重い。いつもより疲れた気がする。やはり、ダメな時は何をやってもダメなのか。これ以上何もないように、今日は早めに、帰路につくことにした。


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