五話:「夢のトバリ」
暗い中で不可解な白い光が、月を見るより明るく灯っている。ベンチに腰掛けながら、汗のベタついた感触に気持ち悪さを覚えた。
時間の感覚もそれ以前の記憶が曖昧でここで何をしていたのか、ぼんやりとしていて思い出せなかった。何かを忘れている、ただそれだけが空っぽの頭の中にこだましている。
ここは、確か――。
「キミ、キミ?」聞き慣れた声がからっぽの脳内で反芻した。
「こんなところで何をしているのかな?」
声は前方から聞こえてきた。黒茶の髪がぼやけて視界に入りこむと、ハッとした。
「あ…あぁ、カンバラさん」
彼女の名前を思い出す。今日のことも少しずつ。
空気感もさっきとは違う。左右を見回してここがどこか、自分の身体なのか再確認する。徐々に蘇ってくる記憶が、今日一日のことを早送りにして追っていった。
「あぁ、じゃないわよ! 今何時だと思ってるのよ」
荒波立った声が耳に入ってきて、ぼんやりとしていた意識がはっきりした。
久しぶりに触れたかのような既視感のするスマートフォンを手に持って時間を見る。画面にはもう21時とあった。
状況から察するに僕はここで居眠りをしていたとかなのだろう。すると、いろいろ想像が駆けめぐる。思考の速度はピークに達している。
結論は言うまでもなく、
「あの、その、ホントにごめんなさい…」
「…ホント、どれだけ待たされと思ってるのよ。何度も起こしたのに全然起きないし」
ため息混じりの声が僕にぶつかってくる。
「怒ってる、よね…」
「あたり前でしょう!」
神原さんの怒気とともに聞こえてくる言葉の数々に頭が上がらなかった。そこで、帰らなかったんだ、なんて言ったらもう口なんて聞いてくれなくなるだろうと簡単に想像できた。
僕は大学の図書館の近くにあるさっきのベンチで長時間寝込んで、剰え神原さんと約束を不意にした挙げ句、こんな時間まで待たせてしまっていたと。なんとも意味不明な状況であったものの、お粗末な顛末である。
「大丈夫? 気分、悪いの?」
「ああ、いや、ごめん…」
「どっち?」
言葉が詰まるというより、口の中が渇ききってがらがらな声でうまく声がでてこなかった。それに自分の汗臭い匂いが気になった。
今日は寒いはずなのにこんなに汗をかいていることが不思議だ。まるで真夏の猛暑に外で遊んでいたかのような汗のかき方だった。今はかえって涼しく感じる。
「まったく、ちょっと待ってなさい」
そう言って神原さんはどこかへ行ってしまった。
こんな時間になってしまって何がなにやら。焦りだけが募っていた。
腕を動かそうとしたとき、「ガサッ」と、手から零れ落ちた。
「白い、本…」
さっきまで見ていた景色や匂いに、手にとって触れたものがまた走馬燈のように一瞬で駆けめぐっていった。あれは、夢…だったのだろう。けど、現実味が今とさほど変わらない感触が、夢とは思えなかった。
地面に落ちた本を拾いあげて、神原さんが戻ってくる前にバッグの中にしまいこんだ。
ひとりぶつぶつ言っていると、街路灯の明りの下を神原さんがひとり歩いてきた。
「はい、お待たせ」
突然眼の前に差し出されたのは、ペットボトルに入った水だった。
彼女を見上げると「のど乾いてるんでしょ?」その手には冷えた水が波うっていた。
「あ、ありがとう…ございます」
ゆっくり動いていく手で受け取り、口にあてた瞬間、流れ込んできた液体がうまく喉を通らずむせてしまった。でも口の中に潤いがもどっていった。全身にその水が浸透していくみたいに、まだぼやけている感覚がはっきりしていくようだった。
神原さんは隣に座って、ごくごくいって水を飲み干す僕を時折見ていた。隣に座る存在を横眼に映すと自分の行動が急に恥ずかしく思えてきた。それ以前に自分の在り様にがっかりした。
まっすぐに向いた黒い瞳が僕の双眸にぴたりと合った。思わず視線を逸らして地面をむいて息まで呑んでしまった。
僕は空を見上げた。そこには星の見えない暗い空が拡がっていて、あの夢でみた空とはまるで違う暗いだけの空があった。
「今日はごめん…」
「もういいわよ、また別の日にね」
神原さんは静かに頷くだけでそれ以上の追及をしなかった。それが少し不思議で、僕は何も言えず黙ってしまった。それから一緒に歩いて帰り、会話はあまりないまま駅に着いたところで別れた。
家に帰ると、狭いリビングで母がテレビを観ていて、父が一人で晩酌をしている。それを横目にみて廊下を歩いていき、すぐにシャワーを浴び、両手で顔を拭って洗面台に立ち尽した。
「僕だ…」
目の前で冷たい水が蛇口から勢いよく流れていくなか、そこには幼い頃から見ている自分の顔を映していた。何も変わらない。いつもの自分の顔だ。顔色は悪いが。ただ、これでは飲み過ぎて気分が悪いみたいな姿に思えた。
ステンレス製の蛇口から勢いよく水が流れ出て、白い陶器製の洗面器に当たって水を弾く音がよく聞こえた。リビングから僅かに聞こえてくる声にテレビの音も、食器がかさなる音も、どれも自分の中に入ってくる感覚に気持ち悪さを覚えた。
知らないけど知っている誰かが、隣にいるみたいだ。