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四話:「片隅の声」




 薄暗い部屋の中にひとりで立ち尽くして、声や音がこだまするように消えていく。

 何かを失くしてしまいそうな不安感が胸をざわつかせて、眼の前を暗くしていった。


「――――どうしたの?」

 ぱっと目を開くと、戸口に誰かがいる。そこから入る外の明かりが影をつくっているせいで顔は見えないが、そのはっきりと透きとおる声は、知っている。


「まさか、立ったまま寝てるの…?」

 また影から聞き慣れた声が聞こえてくる。

 何かを答えようと思ったとき、

「ん、いや――」

 別の誰かが答えた。

「いつも通りだよ。ただ、なんだろう…。少し、ぼうっとしていただけさ」


 これは、僕が話している。でも、もう一人の僕が喋っているような、どこからともなく声が入ってくる。

 ――いや、自分ではない別の人に僕はなっていて、そしてその彼が話した、という感じ方だ。


「そう、疲れてるのかしら。手伝ってあげる」


「いいよ、おじさんに怒られる」


「そんなことないわよ」


「そんなことあるさ。これでご飯を食べさせてもらってるんだから」

 背後からため息が聞こえた。

「じゃあ、ご飯の用意して待ってるから。今日も夕ごはんは食べて行くわよね? ね?」

 その子は踵を返しくるっと背を向けて歩きだした。

 僕と同じぐらいの年ごろに見えた。背丈も同じくらいだろう。長袖の白いワンピースのような衣服に、襟部分に膝丈ぐらいあるスカートの裾の方に模様が入っていた。

 外へ出ると夕焼け空の茜色が世界を染めて、風になびく彼女の黄金色の髪はとてもきらきらしていて、綺麗だった。


「…ごめん。ありがとう、エイル」

「ごめん、ありがとうって、どっちよ」

 彼女は笑みをみせて、この小屋の裏手にある家に小走りで帰っていった。

 あとを追うように戸口に立って外の地面を踏みしめてひと呼吸した。すると少し離れたところにスギの木が立つ森が見えた。そのとき、細く編んだような、冷たい冬の風が吹いた。

 頬に張りつく湿った空気や、このときになって気づいた家畜小屋の臭いが僕の意識を刺激する。

 もうすぐ冬になる、湿っぽい冷えた風が纏わりつくように全身を流れた。その現実味が感覚を通して伝わってくる。

 これは夢ではない。

 今まで学校にいたのに、次の瞬間には羊小屋だ。おまけに、自分が自分ではない。

 まだ「メェ」と羊や山羊が鳴き声が聞こえる。ここはどこで、僕はどうしちゃったんだ。


 見たことがない景色に知らない人が出てきて、まるでテレビや映画を見ているような感覚だが、今まで眼の前にいた人は幼い頃からの友人で、ここは彼(自分)の仕事場だ。

 僕の中に彼の記憶があるようにも思えたけど、ただしそれ以外の答えは出るべくもなく、口はぽろっと転げ落ちるように喋っていた。

 どうしてここにいるのかという疑問が浮かぶ前に、すでにここがどこなのかの疑問の答えを知っているという矛盾が、その答えもすでに自分が持っているように思えた。


 一歩外に出ると強い光が眼に入った。

 薄い雲と一面の茜色の空から薄く紫、群青色に濃く移り行く空が、どこまでも覆い尽くす。どこまでも遠く鮮やかに、まだ昼の温かさを残すように染めていた。

 今いるところが小高い丘陵地になって、陽の光が射す下方には村が見えた。

 彼はその光景をいつもと変わらず眺める。明日も明後日も同じ日々が続いていく中での、一日の終わりに見る光景である。


 いつもの空とは違った。

 隔てる高い建物がないから海を見るような広い世界が、どこまでも遠く色が輝やいていた。すると、本当にここはどこなのだろうと、疑問が沸いてくる。次から次へと…。

 彼が動く。その行動も何をするのかが分かる。

 今日も羊たちを外へ連れ出して帰ってきたあとだった。ずっとここで生きてきたという実感が僕の意識を呑み込んでいくおかしな感覚がある。

 周囲を確かめながら、もう一度やることはないか見まわしてうしろを振りかえった。

 ため息が漏れる。

「これで終わり…」やっと帰れる。


 草の匂いが鼻をついた。日々の疲労感が重くのしかかっくる。空を見上げると夕焼け空は暗くなり始めて、星がすでにひとつ、ふたつと見ることができた。

 空を見上げたまま一息して瞼を閉じた。

 息を吸って吐いて、全身で湿度や空気に触れる。

 アレク・ロイド、それが僕の名前である。


 最後に、オルグさんに仕事が終わったことを伝えに行かなければならない。

 裏側にある家の扉を開くと、中にはエイルとエラさんが夕飯の支度をしていた。仕事が終わったことを伝えると、「ああ…」と重たく乾いた声が、家の暗い隅から聞こえてきた。

 その声とほぼ同時に、

「ご飯、もうすぐできるから。座って待ってて」

 エイルの声が僕のもとまでよく通って聞こえてきた。


 円形の窪地に岩を積上げて、木材と藁で三角状の屋根と煙突を拵えた家屋には、テーブルを置いて暖炉があってそのそばに調理台と薪の束などがある。

 さらに奥には部屋がふたつあり、ひとつはオルグさんとエラさんの部屋。もうひとつがエイルの部屋と、村では古くて大きめな家だった。


 彼の記憶を通して思い出すように知っていく。おかしな、変な感覚だ。


 ふと、頭痛のことを思い出す。

 あれは彼の記憶を僕の脳みそに無理やり焼きつけたために起きた発作的なものだったのではないかと、そんなことが可能であればだが突拍子もないことを思った。

 この状況からして可能かどうかよりも、すでに気にすることではないのは言うまでもない。

 白い本を開いた瞬間の後にこの出来事が起きた。そう考えても強ち間違いでもないのではないのか。

 まだはっきりしないことばかり。もうずっとこのままなのかも知れない。

 僕はどうなったんだ。

 もしかして―――――。


 テーブルの上に置いた皿に灯した火の明かりが目に入った。そこから周囲の状況が見えてくる。暖炉の火が家の中を見通しやすくして、その上には煙突が伸びている。丸太を加工して座りやすくした椅子と、滑らかにしたテーブルに夕飯の皿が置かれていく。

 準備を手伝うエイルと、隣で白い髪を束ねたおばあさんのエラさんが、無言の笑みでもってテーブルへ招いてくれた。

 夕食の準備ができたところで食卓を4人で囲った。


 オルグさんが視線を落としながら、ゆっくりとした口調で話し始めた。

「みんなに言っておかないといけないことがある」

 重みのある声に3人の視線が向いた。

 いつもより眉間にシワを寄せて、聞こえてきた低い声が動いていた手と口を止めた。

「昨日、森へ行ったパレスがあの森で妙な連中を見たと言っていた。もしかしたら野盗が流れてきたのかも知れん。なんにせよ、用心したことはない。もう森の方へは誰も近づいてはならん。いいな…」


「…はい」

 食卓は静まり返ってしまった。

「エイルも、あまり不用意に外を出歩くんじゃない。いいな?」


「…わかった。でも、森のドルイド様はどうしてるの?」


「分からない。パレスが呼びかけに行ってみたが、どこにもおらんかったらしい」


「そう…」

 手をテーブルに落としたエイルの不安そうな声が、そっと聞こえてきた。

 すると、エラさんが言った。

「大丈夫だよエイル。ドルイド様のことだから、何かを察知してどこかへ行ったのかもしれない。エイルはエイルの心配だけしていればいいのよ」

 エラさんはエイルの手を握るようにして笑みを浮かべた。


 首を縦に振って返事をするエイルは、そのまま黙ってしまった。

 オルグさんの低い声が、淡黄色の灯火の明度をさらに暗く感じさせた。閉められた小さな窓は木の板に棒を(つか)えて開くもので、今はしめきられている。小さな隙間にはもう明かりはなかった。

 沈黙とした雰囲気のなかで食事を済ませ、お礼を言って外へ出る支度をした。

 外はもう陽も落ちて空はすでに暗さを増し、扉を開けた先の森林には影で黒く染め上げてしまっていた。

 エイルが出入り扉の前で、「また明日ね。気をつけてね」と言って見送ってくれたのを、僕は眼を向けて答えていた。

 今日のエイルは元気がない。やっぱりいろいろ心配なのだろう。エイルには家族や友人も多い。誰も、何も起こらなければいいと僕が思うのは、おかしなことだろうか。

 少し歩いて振り返ると、そこから見える家の様相は暗闇に紛れて色の判別はもうできなかった。松明の灯りは足もとからうっすらその先が見えるぐらいまで。そこから先はやはり暗闇でしかなかった。


「少し長居しすぎちゃったかな」


 急ぐと危ないので、ゆっくり道なりに進んでいく。家路を行くには雑草を掻き分けただけの粗い道を通る。動物の革で作った靴に空いた穴に草葉の感触が伝わってくる。くすぐったく感じるが、もう慣れたものだった。


 まっくらな空に見える月が自然と大きくみえた。

 しだいに麦畑がみえてきて横切り、もう少し進んでいけば村に着く。そこからまた少し離れたところに彼の家があった。

 やっと家にたどりついて扉を開け、暗くて何も見えない家のなかは、今朝家を出たときと同じ光景があった。


 薪二本分に火をつけ、何もないテーブルにバッグなどの荷物を置いて、水瓶に入った水をひとくち飲んだ。そのまま横になって毛布に包まれて、眠ればすぐに明日だ。いつもと同じ明日がやってくる。そしたらまた、エイルの家に出向いて仕事をして、また一日を終える。いつもと同じ、明日も明後日も。

 僕は静かな暗闇の中で眠りについた。

 暗闇はさらに深く、夢をみた。

 父と母が森へ行くといって消えた日の――。




 眠りから覚めるとまだ外は薄暗く、また寒かった。それでももう起きる時間だった。準備を整えてまた家を出て、そして足はいつも通りの勝手に動いていた。

 止まることを知らないかのような足どりで、空気は清々しく空気は冷たいが、小鳥たちが鳴き始めていつもの一日が新しく始まる期待感をどこか持たせた。

 少し急ぎ足になって昨日歩いた道をいく。エイルの家に着く頃には空が徐々に白んできていた。


「おはようございます」


「ああ、おはよう…」


 羊小屋ではオルグさんがすでに羊たちの様子を見ていた。同じ小屋の壁に引っ掛けてあった柄の部分を婉曲させた杖を一つとり、羊たちを外へ誘導していく。


「アレク……、いってらっしゃい」

 眠たげな弱々しい声が耳に届いた。

 眠たそうにしながら笑顔をつくるエイルが眼にはいり、羊小屋のそばですでに離れたところで手を振っている姿がうつった。

 無言のまま持っていた杖を振って答えた。


 小さな丘陵をいくつか越えて、羊たちの餌になる草地がある小高い山の麓を目指す。

 行くところはいつもと同じである。


 ところどころ岩肌が見える勾配を避けたりしながら向かう先、その道中では草木はほとんど生えてないが羊たちのごはんになる草がよく生えた場所があった。

 年中新緑のような青々とした葉をつけた木を一本だけ伸ばした小高い山が、小屋から少し歩いたところにあった。

 その木の名前がなんていうのかは分からない。この辺りでは見かけない姿の木というのもあって、山の上の木とか一本木と呼んでいる。

 そこはちょうどいい見晴らしがきく位置に木陰もできて過ごしやすく、それこそ木々がないぶん眺めもよかった。

 今日も羊たちを麓の牧草地帯で散開させて、その一本木を目指した。


 腰をおろして、目的の場所に無事に着けた安堵感にため息が出ていた。

 ここから羊たちのすべてを確認できた。それに遠くの景色も、麓一帯の地から歩いてきた道のりまで視界に入る。エイルの住む家も、辛うじて小さく見ることができた。


 今日は湿った風が吹いている。海と呼ばれるところから吹いてくる風だそうだ。

 僕はまだ見たことがない。

 エイルは一度行ったことがあると言っていたが、一面しょっぱい塩の水が拡がっていたとか言っていた。それを聞いて、どういうものなんだろうと疑問が尽きなかった。

 例えば、今見えている山や草地がすべてその「海」というものだったらどんなに広いか。すごいなと息を呑むばかりだ。それがまた、ただの水ではないとはどういうことなのか。

 一度でいいから見てみたいと思った。


 遠い青い空を見て、ぼんやりとした。

 太陽は完全に昇り、空は青々とした快晴だった。畑作業が始まった頃合いだろうか。


「カリトン、あいつはどうしてるかな。今頃は畑仕事に行ってるか。ちゃんとやってるかな」


 自分の数少ない知人の中の、同い年の友人の男の子。いつも笑っているようなやつである。陽気でおおらか、というのだろうか。また頑張ろうと思わせてくれる、友人である。


 今日の空も穏やかだ。時折、空を眺め、羊たちを眺め、数を確認して周囲を見渡した。

 膝を立てて、そこに顎を乗せて聞き耳を立てる。風の吹く音も、鳥の鳴き声も耳を澄ませば、羊の鳴く声もリズムよく聴こえてくる。羊たちが危ない獣に襲われてはいないか、なんて想像しながらだんだん眠くなってきた。

 穏やかで気持ちがいい。ふと、視界にはいった山の尾根。そこから青い空を視界に映してたまに思うことがあった。

 あの山の先にはいったい何があるのだろう。案外海だって見えたりするのだろうか。風はその方向から流れてきているようだからそうかも知れない。

 でも、無理だろうな。

 瞼は落ちかけた。


 数瞬、

「いい匂い…」

 何か香ばしい匂いが鼻をついた。


 横を向くと、そこにエイルの顔が映った。

 僕は思わず立ち上がっていた。

「い、いつのまに…」


「お昼ごはん。持ってきてあげたわよ?」

 手に持ったバスケットを顔の手前に置いて、視界に分かりやすく映してみせていた。


「まさか、ひとりできたの?」


「そうよ」

 自慢げに鼻を高くして答えていた。

「ほら、ちゃんと働きなさい。お昼ご飯ないわよ」


「昨日、オルグさんも言っていたじゃないか。あやしい奴らがうろついているって。危ないよ」


「大丈夫よ。そんなに離れてないんだし」


「でも…」


「それじゃあお昼ご飯はいらない?」


「いや、それは…」


「煮えきらないわね」


「ごめん…」

 ため息が聞こえた。

「…でも、ありがとう」


「ごめん、ありがとう、どっちなのよ」


「そうだね。まずは仕事しないと、だね。おじさんに怒られてしまう」

「だから怒らないわよ」

 ひとまず羊たちの様子と、数の確認することにした。エイルは何も言わずに木陰に腰を下ろして羊たちを見るというよりも、別のものを見ているようだった。僕と同じように、遠いどこかだろうか。


 いつも通り羊たちはおとなしく、どこへも行かず草を食べていた。

 いつもと変わらない。ここでは不思議なことに、みんな大人しく、過ごしている。いなくなったりしたことなんかなかった。

 それにここは、雨が降らなくてもいつも草はよく生えてくる。他の場所ではこうはいかない。だから、そのときによって場所を変えていくなんてことはなかった。ここはその必要がないから、いつもここへ来る。


 ふと、足もとに目が向いた先、そこに黒い羽根が一枚落ちていた。


 少し大きめのとても綺麗な黒い羽根。形が整っていて、光が反射すると色が薄くなる。それがまた綺麗だった。それに、いい匂いもした。なんだろうか、これは。とても穏やかな気分になる。

 ここに来るといつも落ちている。来たときにはないのに、気づくと足もとだったり、座っていると指先に触れたりして落ちている。

 風に乗って飛ばされてくるのか、それとも頭上にいたのか分からないが、汚れもないから鞄に射していつも持って帰ることにしていた。

 今日も拾って触れようとしたとき、

 眼の前が暗くなった――――。


 暗闇の中に灯る光をひとつ見つけて、それが外灯の、電気による明かりだと気づくのにしばらく時間がかかった。

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