三話:「白い本」
僕が「そいえば」と言ったところで、
「すぐ用事を済ませてくるから、ちょっと待ってて」と言って、神原さんは僕の目の前からいなくなってしまった。
まだ真新しさが残る綺麗な受付のデスクやコンピューターに、待合用のソファー、昨日使った検索機、そして天井には照明が明かりを点けている。火が消えて暗転したみたいに何かが消え、ロビー全体が現れたようだった。
ロビーの受付前にあるソファーに腰を下ろすと、昨日のことを、ふと思い出した。あのときにいた受付の人はいないみたいだけど、眉間に皺をよせてすごい見られていた。
閉館時間になるまでいたから怒っていたのかも知れないと、考えながら天井を仰いでいると、縦に走る蛍光灯の白色とした明かりが昨日のことを思い起こしていく。
すでに神原さんの姿がどこにも見えない。少しと言っておきながらしばらくかかりそうだと、なんとなく予想した。
図書館は広いし、借りた本を返しにいっただけではないようだった。
「どこまで行ったんだろう。聞いておけばよかったかな…」
背もたれに寄りかかって、スマートフォンを手にして画面に目を泳がしていく間にも、目の前を通り過ぎて外へ向かう人だったり、本を手にもって歩く人や、机に向かって勉強している人など、疎らに人の動きが気になって目の端にはいってくる。その中から神原さんを見つけようとしても当てはまる姿はなかった。
ため息と同時にスマートフォンの画面に視線を戻した。
トントン。
「ん? 神原、さん?」
誰かに肩を突かれたような、首筋に変な感覚が走った。
咄嗟にうしろを振り返ってみたものの誰もいない。図書館の静まりかえる光景が広がっているだけだった。周囲を探してみても近くにいる人は誰もいない。気のせいだったのかと首を傾げてまた手もとに視線をもどした。
今は他に受付のお姉さん以外誰もいなかった。でも、やはりまだ何か違和感が残る。嫌な感じはしないにしてもどちらかと言えば誰かに見られている、そんな感じがした。
しばらくソファーに座っていたが自然と足が動き出していた。ソファーから立ち上がり左右を見まわして、書架の奥の方をみてまわった。
静かに、足音を立てないように息を潜ませてなど、慌ただしく騒ぎ立てないように気を使いながら歩いて見ていった。
けれど、いくら見てまわっても結局誰もいないし、この変な感覚は未だ残り続けている。はっきりと釈然としないのが、少し気持ち悪さを覚える。
誰ともすれ違わない通路をむた少し歩いていくと、「カチッ」と何かが嵌るような音が、もしくはレトロな振り子時計の針が動いたような音がした。
そんな時計、ここにあっただろうか。
浅く記憶を探り――昨日もこんなことがあった気がする。
それに反射するように目を見開かせて、全身に電気が走り背筋が伸びていた。
その数瞬に昨日のことが脳裏を過った。
「何かを…追いかけていた…」
目が覚めたような感覚が、目を見開かせ息を呑んだ。
――そうだ、黄色いドレスの人を何度か見かけて、どうあっても顔まで分からないままだったけど、肩より少し長い黒い髪をおろして、細い腕でいろいろな本を手にとって抱え込んでいたその姿に、不思議と違和感を覚えたんだった。
そんなうしろ姿を目で追い、気づかぬ間に後を追うようになり、それであんなに遅くなるまで。
どうして今の今まで忘れていたのか。いや、覚えていなかったと言った方が自然な気がした。
あの眉間に皺を寄せていた受付の人は、僕のその姿を見て不審に思ったのではないだろうか。そもそも、ただ借りるだけなら10分もあれば終えていたはずだ。
だんだん考えが纏まってくると何故か急に頭が痛くなってきた。ズキズキと脈をうつかのような痛みが、徐々に強くなってくる。
つい頭の痛みによろめきながらさっきのソファーのもとに戻ろうとしたそのとき、黄色い何かが一瞬にして擦れ違っていった。棚と棚、本と本の隙間から垣間見えた。
一瞬で息が止まり、すべての活動が止まってしまったかのようだった。
まさか「――また、黄色いドレスの…あの人」
昨日のことが走馬灯のように駆け巡っていった。また後を追うようにうしろを振り返ってあの人を探した。
自分の後ろにいないか期待と恐怖心がない混ぜになりながらも、うしろを振り返るが、そこには誰もいなかった。一瞬、安堵してまた会えないか進んでいった方に行ってみた。
今も黄色いロングスカートのドレスのようなものを着ていたと思った。
長い黒髪に背が高く、外国の人っぽい雰囲気にも見えなくもなかった。演劇部の人かと思ったがあんな格好で普段出歩くものなのだろうか。僕は姿を探すより足音に耳をそばたてて見つけだそうとした。
足音は左へ曲がって奥の方へ向かっていったようだ。僕も同じ方向へ続いた。そのまま角を曲がったところで本棚の隙間から、今度はうしろ姿が見えた。
間違っていなかった。
黒い髪が乱れることなく流れるようにまっすぐで、首元を隠すように垂れさがっている。光沢でも塗っているかのように、光を反射させる黒い髪はとても綺麗だった。その人を追っているというよりも、その美しさを追いかけている気さえもした。
だんだん汗ばんできた。
もうすぐ図書館の奥の方へ行き着く。足音は止まることなく進んでいるし、このまま進めば壁があり行き止まりになる。そこまで行けば、きっと少し離れていても視認できるだろう。
今度は右へ。
ふらふらしながら角を曲がってから少し間隔をつくって、本を探す振りをして僕も同じ角を曲がって息を呑んだ。
しかしそこには、またしても誰もいなかった。
もう足音も聞こえてこない。たどり着いた先は、古さを感じる煤汚れたようなクリーム色の壁と、本と棚だけしかなく、そこに人影はおろか、人っ子ひとりいなかった。
ぱたりと、足が止まった。
「僕は…なにをやっていたんだろう」
我に返って冷静さが戻ってきた。それと同時に自分の行いを恥じ入るばかりで寂寞とした感覚が自分を惨めにする。
つけ狙うようなことをして、軽率な行動に自分自身で辟易としてしまう。ため息と一緒に理性がはっきり視覚化してくるみたいにこのときの記憶を何度もリフレインした。
白昼夢でも見ていたのかも知れない、もしくはどこかで曲がってすれ違ったのかも知れない、そんなことをまだ考えている自分がいる。懲りていない証拠だ。自分が嫌になる。
視線を落とし、全身の力が脱力していった。天井を仰いで、そういえば神原さんが何をしにきたのかを訊き忘れていたと、ふと、顔が浮かんだ。
一旦、受付のところまで戻ろう。もう神原さんが戻ってきている頃だろう。
そうしたら、「きっと怒るだろうな…」
その時、ハッと冷たい何かが首元に触れ、思わず鳥肌が立った。すぐに後ろを振り向くとそこには誰もいなかったが、またそっと、今度は顔に当たってくるものがあった。
「…風?」
図書館の奥には窓なんてないし、近くに空調機もなければ、また今日みたいな寒い日に冷房なんてつけないだろうし、尚更疑問が湧いてきた。
この風はどこから…。
さっきの黄色いドレスを着た人が頭に浮かんだ。つい唾をのんで、振り返って後ろや周囲を確認する。けど辺りには誰もいない。
「まあ、当然か…」
気が抜けたような声が出ていた。でも、代わりに視界に入ってきたのは角の隅っこだった。横幅が一メートルの半分もないようなクリーム色の壁と、本棚にできた隙間に目が離せなくなていた。
目を凝らしてみて錯覚のようにも見えなくもなかった。でもそこに僅かなズレを感じ、並べられた本棚のうしろの壁と見比べてみると少し奥行きがあるような、その隙間にできたポッと出た空間に違和感を覚えずにはいられなかった。
自分の目とそこを疑り否定しながら、ゆっくり近づいていく。またフッと、顔に風があたる。
そっと撫でられているような感触が鳥肌を立たせた。どうにも、そこからこのひんやりした風が微かにだが流れてきているようだった。
軋む床を少しずつ、そこへ足を運ばせていく。だんだん呼吸が乱れていくのが分かる。汗を拭ってもまた流れてくる。
そのせいで空気の流れる音が聞こえたり聞こえなくなったり、目の前のものがブレて見えたり、だんだん自分がどこへ向かっているのかさえ、その場所を見失いかけそうになっていた。
靄がかかって見えなくしているようなきらいがあった。僅か2、3メートルの距離だというのに、足取りをだんだん覚束なくする。
それが、昔の、引き籠っていた頃の自分を鑑みているようで、そんな居心地の悪さがこだまして何もかもをまっくらに…――僕はここに、何しに来たんだったか。
目の前がぼんやりとするなか、やっとたどり着いたそこには隙間があった。ただし、気づかれないように作ったのか、人ひとり分がやっと通れるぐらいの狭い通路が、ちょうど本棚の裏側に、深い闇をみるような縦に伸びた空気の出入口が開いていた。
ここから微かな風が出入りしていた。さっき首元にあたってきた風はここからきていたものに違いないだろう。先は薄暗くて見え難くなっているが、腕を伸ばせば手はさらに奥へ進んだ。
そしてその奥の方には、また広い空間があるようだった。まるで黒くて細長い入口から別の世界へ繋がっているような、そんな想像をしてしまいそうになった。
思わずそれを前にしてまた息を呑んだ。こんなところがあるなんて聞いたことがなかった。
職員の人が使う専用の通路だったりするのだろうか。でもこの先は、人が物を持って出入りするには狭すぎるし、身体を半分ほど反らせて通れるぐらいの幅しかない。
外から見れば、本棚が目に入って影もできないから色や物に紛れて見分けがつかない。
「ここは、なんだろう」設計のミスだろうか。それとも、特別なところ、なんだろうか。
息をするような微風が間隔をあけて吹いては吸い込まれていく様子に、僕の意識までもが引き込まれそうになるうちに、暗くて何も見えない奥の方にうっすらと何かが見えてきた。
周りのことなんか気にせず目を凝らしていると、何か、奥に見えた。
「あれは、ドア?」
ぼんやりと扉の輪郭を見つけたとき、すでに足は影の中に入っていた。次にすることが分かっているみたいに隙間に身体を横にして、壁に触れることなく、身体がすんなりと中へ入っていった。
1メートルほど進むと肩幅より少し広い空間に出た。そして、ベニヤ板を張った廊下が続き、3メートルほど先には、ずっと見えていた扉が目と鼻の先に誰かを待っていたかのように現れた。
ついにここまで来てしまった。
ひんやりとした空気が頬に張りついているようだ。深閑とした空気に薄暗さが不気味な気配を醸し出している。まるでここだけ作ることをやめてしまったかのような、通路を作る壁や天井はセメントの灰色部分が剥き出しの状態になっている。
こんなところを誰かに見られたら一貫の終わりだ。ここで引き返そうか、それがいいと思いながら身体は反対の行動をとっていた。
古そうな金具のノブを握り、その瞬間にひんやりした感触が伝わってくる。手を添えてドアノブを回すと、なにかの音が聞こえてきた。
ブクブクとお湯が沸騰するような音がする。やっぱりここは給湯室か、用務員室なのかも知れない、そう思った瞬間、金具の錆びついた音もなく扉は内側へ開いていった。
扉が開くと、はじめに目に入ってきたのは、強い光と、窓から入る赤焼けに染まる部屋だった。
一歩部屋に踏みこんだ。
廊下から続く木製の床が軋みを立て、部屋の中には入ってすぐ左わきの壁にキッチンとコンロ、蒸気が立つやかんの音が誰もいない部屋に響いていた。
何かの映像で見たことがある古い学校の用務員室を連想した。ベニヤ板を張った床の部屋に、木製の柱が剥き出しになって、頭から腰ぐらいまである格子窓からは夕陽の沈みかけた茜色をうつし、その色が部屋全体を染めていた。
「誰もいない…のか。やかんのお湯が沸騰している。火を点けっぱなしで出ていくなんて不用心な」コンロの火を消して注意しながら辺りを見回すと、つい目を見張った。
天井まで3メートルぐらいまであるギリギリの高さの本棚が壁一面に並び、古そうな革表紙の本が背を向けて綺麗に一糸乱れぬ隊列をつくっていた。
どれもA4判ぐらいの革張りの装丁で白い本ばかりが並んでいる。よく見れば一冊分の空きが数か所にあった。
部屋に窓はひとつだけで、隣の部屋に通じる木枠の囲いがぽっかりと左右対象にふたつ空いている以外、他には何もなかった。
部屋をぐるりと回ってから木枠の囲いの方へ行ってみた。囲いの向こうは、いくつも合わさるように同じ部屋を、一本の廊下が貫通するように続いていて、木枠の囲いがトンネルのように連なっている。
どこまでも続いているのか行き止まりが全く見えない。這って出たように足が囲いのまん中まで動いていた。
「いやいや、ここは、本当に図書館の中なのか。明らかに大きさが合わないんじゃ…」
後ろにも同じ通路のように伸びている。前も後ろも同じものが永遠と伸びている。どこかに鏡でも立っているようには見えないが、あわせ鏡のように永遠に続いているのではないかと思うほど終わりが見えなかった。
この長い廊下のようなものをずっと見ていると酔ってくるような、少し気持ち悪さを覚えてよろめきそうになった。
そう言えば、頭痛がさっきよりも治まっている。周りのことに意識が完全に向いて気づかなかった。
そのまま、廊下みたいなところを歩き部屋から部屋を渡っていく。少し歩いただけで部屋をいくつ通過したのか分からなくなりそうだった。
同じ窓があって、本棚があって、そこに白い本が並んでいる。部屋の出入口にいたっては、さっき入ってきたもの以外から出たらちゃんと来た場所に帰れるんだろうかと不安になった。
もしかしたらなんて、ありもしないことばかり考えてしまう。ぐらつきそうな足もとながら、もう引き返したい気持ちでいっぱいだった。
それでも、足は何故か前に進んでいく。
五つ目の部屋に辿りついたとき、誰かに呼ばれたような視線が向いた先へ、無意識に足が動いていた。気づけば白い本が並んで作られた本棚の、白い壁を前にしていた。
「――どうして。この本は…」
そしていつの間にか、手には一冊の本が握りしめられていた。この本を手にしたまでの記憶がなかった。心臓の高鳴りが無音の部屋に鳴り響くような緊張感が汗を流した。
ぶるっと震えが急にきて悪寒がした。次の瞬間には何かの映像が、頭のなかに濁流のように流れてきた。
夕焼けのような茜色の印象が全てを埋めつくしていく漠然とした何かだった。
本の背や裏をみてそれが何かを確かめてみるが、他の本と同様にタイトルが書かれていなかった。
また脳みそが激しく脈打つような圧迫感のある痛みがしだいに強くなってきた。さっきとは比べものにならない痛みが走る。
そして今度は、誰かの歩いてくる足音が聞こえてきた。
カツン、カツン。
聞き覚えのある足音。これは…。
一定のリズムを刻みながらゆっくり音が近づいてきている。さっき通った扉と同じものだ。通ってきた部屋の数も数えてきたし、ここで間違いはないはず。
さっきの半開きになっている扉のある部屋にまで戻ると、さっきまでなかったはずのものがそこにあった。
「これは…紅茶? なんで、テーブルに椅子が、ティーカップがあるんだ? さっきはなかった。いつの間に」
急に恐いという感情が逆立つように湧き上がってきた。
足音がどんどん近くなっていた。反射的に半開きになった扉の死角になる扉の内側に小さく屈んで隠れた。咄嗟にとった自分の行動に自分自身でも戸惑った。ついとってしまった行動から次はどうすればいいのか無意識に承知していた。息を潜めて、音を立てないようにひとつひとつ音を消して扉が開くのを待った。
まさか黄色いドレス姿の人がここに入ってくるとかありえるのか。そうじゃないにしても、誰かが来る。ここに。いったいどんな人が。いや、そもそも人なのかも怪しいところだが、兎にも角にも扉が開いた瞬間に入ってきた人が通り過ぎたら隙間を縫って、そこから走って逃げる。それしかないと思考が答えを出した。
そして数舜の間に「――キィ」と耳元で音が鳴り響いた。
さっきはしなかった金具の擦れる音。内開きの扉の隙間が目の前で開いていく。息を殺して、踵を上げて短距離走でもするかのように屈んで構えた。目の前で足音を確認して、目に入ったのは長い黄色のスカートの裾だった。
数舜、時間が止まった感覚と一緒に見惚れている自分がいた。殺した息はそのまま、身動きもできなければ思考も止まってしまったかに思えた。瞳が、空中で揺蕩うように揺れ動くスカートの裾を追っていた。
やっぱり…。
それ以上の言葉が出てこなかった。
衝撃と緊張が迸った。通り過ぎていくその人のうしろ姿をはっきりと眼に焼きついていた。身体に〝動け〟と伝令が走るまで5分以上はこうしていた気がする。実際はほんの2、3秒といったところだろう。
その人は部屋の真ん中にできたテーブルまで歩いていき、まだ半開きだった扉はもう閉まりそうになっていた。僕はいっきに走りだした。
図書館の中をいっきに駆け抜けるまで、後ろを振り向かないように全力疾走した。勢いよくガラス扉を開けて外まで走りぬけるまであっという間だった。
今日はよく走る。
「…ここまでくれば」
息が乱れるなか、自分の吐いた台詞に罪悪感でいっぱいになってきた。
息を切らしながら入ってくる外の空気が肺から内臓の隅々まで染みわたっていく。吐き出される息が、さっき起きていたことも一緒に記憶の箱の中から漏れてきて、あのひんやりとした空気感、図書館にいたはずなのに変な場所だった。そして…。
胸の高鳴りが落ち着かなかった。走ってきたからか、それとも見たことのないものを見たからなのか。落ち着くまで、もうしばらくかかりそうだった。
だんだん膝に力が入らなくなってきた。陽が落ちて影が伸びていくベンチにゆっくり腰を下ろして、息を一つ吐いて、力が抜けていくと視線が地面へ落としていった。
数舜、地面に落ちる視線のなかにソレが眼にはいり、また息が止まった。
イヤな汗が一つ流れた。握りしめられた一冊の本。まっ白な本が自分の手に吸いつくように握られたままだったことに、今になって気づいた。
意識したら急に頭が痛くなってきた。気のせいかと思えば本当にズキズキと痛みだしてきた。
とりあえず本をバッグの中にしまうことにして、力いっぱいに握っていたせいでくっついてしまったかのような、硬く握られた指をひとつひとつはがしていった。
いつもとは違う居心地の悪さが、不安や恐怖心を煽るように抱かせる。図書館での記憶がリフレインするように連想して、指を剥がそうと躍起になって、気持ちがどんどん逸っていく。
まっ白な頭の中に小さく何かが宿った気がした。
さっきまで身に起きていたことの数々が、しだいに頭の中を埋め尽くしていく痛みも含めて渦を巻いているようだ。
本に指が触れて革表紙の感触を伝えてくる。自然に手が動き出しページを捲りだした。次々と捲っても、その中身は全てまっしろ。何も書かれていなかった。
中は羊皮紙のような厚みがあるけれどつるつるしている。徐にまたページをひらくと、白いページの真ん中の辺りに文字が書かれてあるのを見つけた。そこには一文が記されているようだった。
けれどなんて書いてあるのか分からない。
「どこの文字かな…」
どういう意味なのか横書きで文章みたいなものがそこに書いてある。
〝――ク…。…レク――〟
今、なにか…。
若い女の子の声がした気がしたが…。
前後左右、誰かいるのか確認したが誰もいない。
確かに聞こえたと思ったが、「頭のなかで誰かが話をして、いる…」そんな声だった。いや、そんなバカなことがあるわけ…。あり得ない。聞き覚えがない声。でも、不思議と知っている気がした。
最初はぼやけた写真のようだったその人の顔の輪郭が、声が、押したり引いたりする小さな波の音と一緒に浮かび上がってくる。
まだ聞こえる。
まだ何を言っているのかまで分からない。これは英語じゃない、知らない言語だ。頭の中でどんどん強く響いている。頭の痛みも激しくなってきて、脳みそが激しく躍動しているような、もしくは叩かれて頭が破裂しそうな痛みがどんどん強くなる。
その最中に頭を押さえながら必死に何かを思い出そうとしている。知らないはずのことを必死に――〝黒い髪に、青い瞳…〟――数舜にうつる描写。
どこかの記憶が箱から零れ落ちてくるみたいに、脳裡に溢れ落ちてくる。中には顔がはっきりとしないものまである。
「これは誰だ。知らない人の顔が、記憶が、流れ込んでくるみたいだ…」
しばらくして痛みはぱったり止んだ。だが目に映ったのは暗闇だった。なにも聞こえてこない。
するときらきらした砂が零れ落ちていった。すると、どんどん感覚が鮮明になっていく。
この匂いはなんだろう。
牧場の…匂い?
なんだか落ち着く匂い…。
息づかいが…。
「――そこで何しているのよ?」
今度は鮮明に声が聞こえてきた。今なら分かる。この声の主は「エイル」だ。
「――レク……。〝アレク〟!」
僕の、名前。
「アレク? そこでなにしているの?」
心配そうにする声は耳にはっきりとはいってくる感覚を残して、この暗闇の中で僕は立ち尽していた。