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二話:「陽影の下から」




 枕元にあったスマートフォンを手に取って、暗い部屋に光が灯った。

 見えてきたのは日付と曜日と時間だが、何度も見直した。こういうとき、不思議と寝覚めがいいのが不快だった。血の気が引く感覚は焦りと裏腹で冷静にする。

 現在、午前9時20分ちょうど。

「今日は、げつよう…」もう一度時間を確認する。

 眠気をはらうように、顔に手を覆って考えた。


「あぁ、ヤバい。遅刻だ…」


 いつもはこんなことはないのにと、身支度に自問自答も済ませて足早に家を出た。

 昨夜は課題を終えるどころか、しだいにうとうとしだしてそのままベッドへ寝転げてしまった。そうしたらもう朝である。

 赤羽駅に着くとちょうど到着した電車に飛び乗るように乗り込んで、その直後にドアが閉まって電車は動きだした。いつもより多少は空いていても、汗のせいでいつも以上に最悪だ。

 これでなんとか遅刻せず間に合う。あとは駅から学校まで急ぎ足で行かなければならないのが、苦しいところだろうか。


 昨日も通った道を行き、流れるように校舎へ入って教室へ急いだ。階段状に並ぶ机、疎らに席につく人の数、その中に雑に混ざって一番後ろの席に着いたところで、ちょうど予鈴が鳴った。

 汗が止まらないし息も乱れて、周りの人の視線が気になるなか、先生が教室に入ってきた。

 まだ何もでていない机の上にバッグからテキスト、ノート、ペンを急いで取りだす。次から次へと慌ただしく静かに、汗だくのまま授業が始まった。


 授業は淡々と進んでいった。先生が教壇に立って話をしていく最中、教室の窓から雲一つない青々とした空色に染まる天蓋が見えた。

 今日も天気がいい。

 頬杖をついて、視線が向く先は完全に外である。今まさに心ここにあらず、されど穏やかであった。


 昔に読んだ本を思い出した。

 数千年も前の人たちは、空とはボール状の蓋を被したものと考えて、空間と空間を隔てる壁のように天蓋の空を見上げていたという、蓋天説なんてものがあるのだそうだ。

 その上に広がる無限の宇宙のことなんて当時の人たちは考えもしなかったのだろうか。昔の人の意識は現在(いま)より離れたところにあるのかも知れないと、そんな思想に現実逃避して、ふと、夢うつつな途方もないことを考えてしまっていた。


 授業が半分を過ぎたころで、ここまでの授業の内容が清々しいほど何も入っていないことに気づくと、同時に自分の名前を呼ばれていた。

 ハッとして声が出た。

 一番後ろに座る僕に、十列ぶんの机を挟んで先生の細い目がこちらにまっすぐ飛んできていた。

 教室は異様な静けさが漂っていた。異臭に晒されたようなざわめきが一瞬したあと、視線が一斉に自分のもとへ向けられていた。

 声は小さいのに横の繋がりは広いから、厄介な社会性を持つ先生である。やっと気づいた頃にはぞっとした寒気で僕の袖を汗で濡らした。


 今日の授業はこの一コマだけだった。そのために駆け足できて課題も進んでいないばかりか、先生にも睨まれて碌なことがない。

 おかげで視線が地面を離さないでいる。昨日のことも含めて対牛弾琴というには言い過ぎかも知れないが、まるで土曜日にボタンでもかけ間違えてしまったかのような、うまくいかないことばかりだ。

 今は砂嵐のなかで周囲が霞んで見えるようだ。そうしたら今度は、お昼を報せる腹の虫が鳴った。



 目に入ったとき、白いスクールトーンの天井に漠然と視線が向いた。そのまま学生食堂に一歩足を踏みこむと、窓から入る陽射しが線を引いて、光と影の誰もいない世界があった。

 もうお昼時なのにひとりもいないのはひょっとして今日は休みだったのだろうかと、案内などはどこにも出ていない。

 白を基調とした壁にテーブルや椅子が、きれいに配置された解放的な清潔感のある無菌室のような空間には、影も形もなく人の気配もなかった。

 どうしたのだろう。

 壁一面に張った大きな窓ガラスから陽光が射し、食堂の吹き抜けの空間をより広く明るくみせた。

 この広い空間に、耳に水が入って詰まったんじゃないかと思うぐらいに何も聞こえてこない静寂さが、怖くて不安にする。

 視線をうろうろさせていると、突然、カチャっと音がした。

 勢いよく音のした方を振り向いた。

 しだいに厨房の方からカチャカチャと音がしだした。目を細めてよく見るてみると、調理場の方からだ。

 するとその次には、ナイロン生地の服でも擦っているかのような凄まじい風の吹き荒ぶ音が、大きなガラス越しに入ってきた。

 その場で立ち尽くしてまた振り向いた。

 次々と音が増えていっているような、今度は僕の心臓の音が、胸を通してバクバクと聞こえてきた。


 他に誰かいないかもう一度周囲を見回したとき、一か所、窓際にある四人掛けのテーブルに陽が射しているのに目が入った。そこへ行って、とりあえず荷物を置いて、何も考えずに座りこんでいた。


 座り込んで気づいたが、どうしてここにしたのか分からなかった。深く考えることではないにしても、ひと先ず、飯を食べよう。

 今日は何も食べれてないのだ。

 ひと息してから食券を買って、食券に書かれたラーメンを受け取ってまたテーブルに戻った。トレーをテーブルに置く音が、いつもよりよく響いた気がする。


 窓の外では四月後半だというのに冬の寒空が拡がり、今日は天気がいいものだから、明るくて陽の射すいいところだと思ったのに、思いのほかここは陽射しが強くて眩しかった。

 そして、食前に思った。

 ここは「暑い…」と、それに尽きた。


 誰もいないし、見ていないし、まあいいかと、他に人がないにもかかわらず周囲を見回して、やむなくして置いていたバッグをもう一度手に取り、影に入る隣のテーブルに移った。


 汗ばむおでこを拭いて、汗で蒸れる服の中を、着ていたシャツを少し引っ張りうちわのように空気を流し入れた。

 今日はずっと汗をかいているみたいだ。


 やっと辿りついた今日の最初のご飯が台無しになってしまう前に、割りばしを割り、醤油ラーメンに箸を伸ばした。キラキラとしたスープが陽の光に反射して輝いているのが食欲をそそる。

 美味しいか美味しくないかと言われればいたって普通だが、ちぢれ麺と醤油スープがちょうどよく喉を通っていく。それに学食だから安いところもいい。ただ今は、何よりもお腹が減ってしまってしょうがなかった。

 一口目の麺を掴みあげると白い湯気が立った。


「やっと…――」

 それでは、いただき――「こんにちは」

 リズミカルに聞こえてきた声に、箸と息が止まってしまった。


 湯気のなかからうっすらと姿が現れてくると、射しこむ陽光のせいで、長い髪を赤茶色に薄く染めたように見えた。

 そこには同じ学年でゼミ仲間の神原由依の姿が、テーブルを挟んだ向かい側に立っていた。


「今日は、何かあったの? あんなに、というより今も汗かいてるわね」

 一瞬の間に思考までが止まっていた。


「…あ、ああ、神原さん。いや、ちょっと寝坊しちゃったというか、ぼうっとしてて…」

 眼を泳がせながら「よかったら、座る?」と、ついかこつけるように声が出ていた。


 気づけば周りには人が疎らにも賑わい出していた。さっきまで誰もいなかったはずが突然現れたように人がいる。

 周囲を見回していると、神原さんが言った。


「そうね。それじゃあ私もお昼にしようかな」

 神原さんは椅子の上に荷物を乗せ、そのまま食券を買いに行った。

 神原由依とは同じゼミで知り合い、何度か同じ授業を受けている姿をみた覚えがあった。目もぱっちりしていて、友達と授業を受けていたり、話しているところをみると明るい性格のようにみえた。

 いつも誰かといて気さくな人と言おうか、どこか目を引く人だった。


 いつの間にか持ち上げていた麺が、またスープの中に落ちていた。

 今のうちに少しと、麺を口に入れたらもう箸が止まらなくなって、次から次へと口の中に入っていった。気づけば、いつの間にか神原さんは、カルボナーラとサラダのセットを乗せたトレーを持って帰ってきていた。


 席に腰かけて「いただきます」というと、神原さんはすぐに弾みをつけた明るい声で話し始めた。話しながら器用に食事を摂る神原さんを横目に、僕はその話を、ラーメンを食べながら顔を伏せるようにして相槌しながら聞いた。


 僕の様子をにやつきながら見ている様子を、僕は返し見しながら言った。

「昨日から碌なことがなくて」神原さんから適当な返事が返ってきた。「今日もそうだけど、一昨日加藤っていう友だちと飲みにいってから、課題もいっこうに手つかずで」

 目の前をみると、さっきと違って神原さんの表情が落ちついたものになっていた。


「そんなの、ただの自業自得じゃない」と、カップに入った水を一口飲んで神原さんは続けて言った。

「誰のせいにしたって、行くことを選んだのは自分なんだから、やったらいいじゃない。今回の課題、そんなに難しくないんだし」

 淡々と語る神原さんの姿がじっくり僕の瞳に映る。

「バチが当たったと思って観念しなさい」


「はい…」と、心の中で神原さんはもう課題を終わらせたんだと思いながら、僕は黙ってラーメンを啜った。

 少し笑ってみせる神原さんは話しをしながら、フォークにパスタを絡めて口に運んでいった。


「でも、このあとって、少し時間あったり…」

 さっきと違って、眉をひそませて神原さんは目がこちらを向いていた。


「今日はバイトがないから、特には」とまで言ったところで、「どうしたの?」と訊き返していた。


「ちょっと行きたいところがあるの。どうかなって?」


「…いいけど、どこまで行くの?」


「ちょうど駅前にできたっていうスイーツのお店に行きたいなって」

 声のテンポを弾ませて言葉が返ってきた。


「なるほど、ちょうど、ね…」

 つい苦笑いが溢れた。


「フフ、じゃあそうゆうことで。でもその前に図書館へ行ってからね」

 快活な声が耳にはいってきた。


「分かった。つきあうよ…。どうせ暇ですから」


「ひがまないでよね」

 面白いものでも見つけたような笑みを浮かべながら神原さんは言った。


 図書館に着いたところで昨日のことが脳裡を掠めた。そこでつい足を止めてしまった。


「どうしたの? そんなところで」

 ロビーに入ったところで足が止まり、何かを忘れている、そんな感覚が胸の中で騒めいているようだった。

 昨日ここで…。

「――いや、なんでもない」

 まっすぐ見つめる神原さんの目と鉢合い、昨日の自分から引き戻された気分だった。

 慌てて言葉を見繕って、首を傾げる神原さんはスタスタと中へ入り、僕はそのあとを足を引きずるようにして入っていった。


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