十話:「そして、夜は更けて…」
自然と視線は地面に落ちていた。
雨が降るように、重力には逆らえないように、暗い空を見るように、アスファルト舗装の歩道がいつの間にか視界を空から地面へと、上下を入れ替えていた。
さっきの林さんの言葉がまたも胸に刺さる。今、何を考えていたのだろうかと、振り返っても何も出てこなかった。それを考えているだけで、ついには学校の前にいた。結局、僕は何も考えていない人間なのだろうと思ったとき、だから面白いと思われていたのかも知れないと悟った。
自分への残念さから寂しさを感じながら、肩を落として歩きだそうとした瞬間、声がした。
「――あっ…」
雨が降り出したかのように声がポツリと自分に当たる。
「神原さん…」
声の主を記憶の中から呼び出す頃には、似たような声が溢れて目があっていた。
「おはよう」と気の抜けた声が続けて口から漏れた。「どこか行ってたの?」
「ちょっとそこのカフェにね。久賀君ももっと早かったらゆっくりできるのに。いつもギリギリね」
「まあ、いろいろと多忙でね」
「なに言っているのよ。朝から」
「そういえば、今日って何の授業があるんだっけ」
「あなたの鞄の中には何が入っているのよ」
ふと、横を見ると怪訝とした表情をはっきり映した。
「最近、ぼうっとしているところよくみるけど、大丈夫なの?」
「…よく分からないけど、とくになにもないし、大丈夫だよ。それに元からそうなのかも知れないし…」
「なにそれ? 何かあったのなら話、きくけど」
校舎に入ったところで正面を見つめたままの神原さんは、静かに僕が答えるのを待っているようだった。どう話すか迷ったまま時間だけが過ぎていった。
外の薄暗さが射し込む吹き抜けのエントランスに入ったところで、神原さんの視線が落ちかかった。
「変な夢を、みて…」、と結局そのことしか声に出てこなかった。
「え、なにそれ…」
一言、つぶやくように言ったあと、周りの音に紛れて、また二人の間に静けさが包んだ。
教室に入る前に、神原さんの声が耳に入ってきた。
「今日のお昼、空いてる?」
大丈夫だと返事をすると、神原さんは「じゃあ、お昼に食堂でね」と言って、いつものリズミカルな足どりで教室へ入っていった。
今日は歴史の授業だった。
「今日からはフランス史についてですね。
これまで人が歩んできた歴史は、今と同じ人間が歩んだ事実。それをまた繰り返すのが人なら、人が歩んだ時間とはどこにあるのでしょうか。
ここではそれを交えて学んでいこうと思います――」
先生はにっこり笑って、教室にいる生徒に視線を向けた。
五十歳中半の白髪で白い髭を鼻の下に伸ばし、厳かというのか、とても和やかに話をする人だった。
数瞬、先生と眼があうと笑みを浮かべた。
その人は、僕が所属する柏木ゼミの柏木先生本人なのだから知らなないわけがなかった。軽々しく居眠りもできないのは言わずもがなだろう。
教室にいる十数人の生徒は全員、授業を静かに聞いていた。中には寝ている人もいるが、徐々にただ話を聞いているだけの雰囲気になりつつあった。
時折、神原さんのうしろ姿がちらちらと視界にはいる。数舜、今朝の林さんの様子もちらついて、静かに話を聴きながら頭のなかは別世界にいた。
知らない土地のはずなのに、装いからして現代とはだいぶ違う。名前や建物、あのイディ山の名前からしてトルコかギリシャにある場所ということはすぐに分かった。けれど、服装も特定することができず、他のことについても、何も分からずじまいだった。
時折、ここはどこなのか考えてしまうほどに深い眠りに落ちた感覚があった。ここはどこだったか本能的に覚えているのが不思議で怖かった。
教室の窓の外に視線が向いた。
曇り空に晴れ間をのぞかせる光景に、この教室の静けさが助長しているようにも思えた。
頬杖をつき、あの白い本のことがちらついた。
ずっと、家の押し入れにしまったままだった。
何度も図書館へ行こうとしても、やっぱり明日、また明日、まだいいんじゃないかと思うばかりで、優柔不断な一面が顔を出し、時間だけが過ぎていた。またあの部屋に行く勇気が持てなかったのだ。
もしまた黄色いドレスの人に出会ったらと思うと、怖くて、怖くて――何故こんなに怖いと思うのか分からない。
無断で部屋に入り、勝手に本を持ち出して、隠れてコソコソして逃げたりしたから、言及され責められることが怖いからだと思った。いや、きっとそうだろう。
そうして九十分間があっという間に過ぎていった。
授業が終わる鐘が鳴るとみんな教室から出ていくと、神原さんも友達と一緒に当然のように教室を出ていっていた。自然とそのうしろ姿を目が追っていた。教室から誰もいなくなってようやく我に返った。
急に自分自身に対して恥ずかしさと気味の悪さを覚えた。また彼女に笑われる。トラウマが身震いさせた。
頭を振ってバッグを背負った。
背負った瞬間にズシッとストラップが肩に食い込んだ。
バッグが何故だか重い。
そんなに入れてたかな、とバッグの中を整理しようとフタを開けた数瞬、すでに鳥肌が立っていた。大きくて厚めの本が一冊入っている。それが白い本だと反射的に判った。
入れた覚えがないものが、どうしてバッグの中に。ずっと押し入れに入れたままのはずではなかったか。
誰もいない教室の静けさが、他に誰かいるような薄気味悪い嫌な感覚を纏わせて、全身に駆けめぐった。ここに黄色いドレスの人が現れて―――なんて想像がさらに薄気味悪さを助長させる。
けど、この本を手放せばもしかしたら――。
そんな思いが一瞬だけ過り、逡巡した。
「――よう」
突然、声が脳内に響いた。まるでひどい二日酔いにでもあったかのように揺らめいた。
振り向くと加藤信也の姿があった。会うのはひさしぶりだ。以前飲みに行って以来だったろうか。それから全然会っていなかった。
「こんなところでどうしたんだよ?」
「こんな、ところ…?」
僕は、やはり何かに取り憑かれてしまったのか、ここは図書館の前だ。背筋にイヤな汗が流れていく感覚に息を呑み、どれだけの時間が経ったのか分からないほど、ジッと汗が流れていった。
加藤は周りを見回して僕を窺い見て、目を向けていた。ゆっくり近づいてくる加藤が眉をひそめてジッと見つめている。
「顔色、悪そうだけど大丈夫か?」
妙に安堵感を覚える声と加藤の姿に救われたような気分だった。それだというのに、眉をひそめて訊ねてくる友人への言葉がなかなか出てこなかった。
「何か…あったのか?」
「あ、ああ…、なんだか頭が痛くて」
「大丈夫か?」
「ああ、少し休めば大丈夫だよ」
背後の図書館に目を向けて言った。
「ん? 図書館に用事があったのか?」
「ちょっと、な…」
なんて話したらいいのか分からない。説明をしても信じてもらえる自信がもてなかった。そのまま言葉が出ないまま歩き出していた。思考があまり回らない。ぼんやりしながら加藤の言ったことに適当に返していた。
「んー、じゃあ、またな。俺はこれから授業だ。あんまり無理すんなよ」
「あぁ、ありがとう…」
気の抜けた声が出た。
加藤は手を振って歩いていった。あいつもこんなところで何やっていたんだろう。図書館に用事があったようには見えなかったが。
それを言えば僕もだが…。
その時、ポケットの携帯電話がブルブル鳴った。同時に時間と着信の表示にある名前をみて、彼女の顔が過ぎった。怒る表情が容易に、自然に連想できた。
メッセージを見るのが怖い。
早く、食堂に行かないと。
また頭痛がした。重い足を動かして、じめじめした空気のなかを生まれたての小鹿のような足どりで、なるべく急ぎで、ふらふらと歩いた。
食堂に着くと遠くの席の方からの視線にハッとした。思わず萎縮してしまうような緊張感が、それまでの自分を一新させたかのように、急いで駆け寄り、そこに立ち直った。恐い、素直にそう思えた。
無言の中、「遅い」、とその眼が言っているのがよく分かる。ついでに何をしていたのかまでその顔が言っているような気がした。
「やっと来た」
「ごめん。図書館に行ってて…」
「図書館…?」
唸るような声が同じ単語を反芻させた。
テーブルに何も置かれていないのを見て、「まだ食べてなかったんだ」と言うと噛みつかれそうな目つきをして「そうよ。誰のせいよ!」、とそれからひたすらに昼ごはんを食べながら文句と愚痴が飛んできた。
タイミングを見計らって「それで今日は、どういった…」とつぶやくように訊ねると、また睨まれて、というより呆れた顔をしたと思ったらため息を吐かれ、手もとの食器に眼がむいた。
神原さんは小息を吐いてから口を開いた。
「前に言ってたお店に行ってみようかなって」
「その節は、本当にすみませんでした…」
隙かさずに反応した。
「ただ単純に、今、行ってみたくなったの。だからもう気にしなくていいわよ」
はっきりとした性格がよく分かる。仏頂面した表情から、渋々許してくるているのだと。だから、この場にもいてくれているのだと、思うことにした。
申し訳ないという意味が籠った「はい」が口からポロリと出ると、ため息が目の前から聞こえてきた。それから淡々と口にパスタを運んでいた。
今日はバイトが入っているから約束は明日の午後にして、神原さんとはここで別れることになった。
「そろそろ行くね。これから友達と約束があるから」
「…今日はホントにごめん。また明日…」
「いいわよ、じゃあ、また明日ね」
最後は眉をひそめて笑みを溢していた。これでよかったのだろうか。また明日会えるのだから、よかったと思うことにする。今度は僕の方からどこか誘ってみようか。そもそも僕の方が約束を有耶無耶にしたのだから、ちゃんと埋め合わせをしないといけないだろう。
それにしても、実のところ、明日が楽しみである。こうして女の子とどこかへ行くのは、実は初めてである。
明日はどうしようか。服装とか、今さら緊張してきたが、今度は寝坊など遅れないようにしたい。また怒らせるどころか嫌われて、さらに信頼性もなくしてしまう。今でも、信頼…あるのかどうか定かではないが…。
それに、それだけではない。遅刻グセしかり、約束を破ったりと悪い癖がつきそうで、その言葉の意味もなく、ご都合主義になってしまうのは、それは僕としても嫌なところである。信頼がなくなれば、社会でも、親しい間柄でも、生きていけないと、父さんが言っていた。
でも、僕は、神原さんに嫌われたくないと、一緒にいたいなんて、また烏滸がましく思っている。今だけと言い聞かせながら、彼女とは別の道を歩いてその場を後にする。
今日は、いろいろなことが流れていくように過ぎていった。変なお客さんやトラブルもなく、いつも通りに時間が過ぎた。作業も順調に終わっていき、お店のシャッターがゆっくり下りきるまで、無事一日が終っていく様子を傍観していた。
「さあ、帰ろうか」
望月先輩が雰囲気を壊すかのように声を上げて、振り返って見ると、先輩の姿は急かすように身振りをして、僕を呼んでいた。
その帰りの電車の中、すでに夜の十一時過ぎだともうあまり人はいない。ロングシートには二人から四人ほどしか座っていなかった。疎らにちょうどよく空いたスペースに先輩の望月さんと座った。
静かな車両には気づけば自分たちしか喋っていなかった。自然と声が、他の人の耳に届かないぐらいの声量で話していた。わずか二十分ばかりの乗車時間で、よく世間的な身近なことを話したりする。
けれど、今日は違った。最近シフトが合わなかったからか、気まずそうに望月さんが話し出した。
「そういえばなんだけどさ、久賀君にはまだ話せてなかったけど、俺、今月の末で辞めることにしたんだ」
「え? 今月末って、もう…」
急に入ってきた言葉に困惑した。いつもいてあたり前だと思っていた人が急に何を言いだすのかと。いなくなってしまうとか、言葉が出てこなかった。
「結局、実家を手伝うことにしてさ。もう二十七でいい歳だし、大学を出たはいいけど、いつまでもこのままではいられないしね。ずっと大学出てからも勉強はしていたけど、結局それ以外の道を見つけることができなかった…」
「そう…、なんですね」
「ああ…、最近、あまりシフトが合わなかったりしたからね、話そこねて急な話になっちゃったね」
「いえ、僕も早めに帰ることが多かったですし…」
眉をひそめる望月さんを目の前に、僕はきょとんとして話していた。
沈黙とした時間が、途切れ途切れにやってきては流れていった。その度に、どう話していいのか迷った。
こういう時に何て言えばいいのか、もっと気の利いたことが言えない自分がもどかしく思えた。ご活躍をお祈りしていますとかなんとか言うのも違う気がした。
「青森にある実家でリンゴ農園をやってるんだけど、少し大きくて、毎年手伝いに来てくれる人もいるし、俺もその時に帰ったりしてたんだ」
ニッと口角を上げる望月さんはテンポよく話した。
「よかったら、遊びにおいで。おいしいリンゴパイのお店教えてあげるから」
また眉をひそめながら笑みを浮かべていた。
ホームの天井から吊るされた駅名板が目に入ると、僕が降りる駅に着いていた。
「あぁ、もう着いちゃったね」
「はい…」
「今週いっぱいになるけど、またね。今日はお疲れさま」
閉まる扉を背にして、僕は走っていく電車を見送った。
あたり前と思っていたものが変わっていく。大学一年目でこのアルバイトを始めてから、望月さんとはずっと一緒だった。お酒が飲めるようになってからも、たまに飲みにいくようになって、それがあたり前だと思っていた。
知らないうちにどんどん変わっていくんだ。望月さんは今も歩んでいる。今まで自分が何になりたいとか考えたことはあっても、何もなかった。
家に着くと母から、「夕飯は?」と尋ねられた。すぐに食べると答えてリビングに向かった。テーブルに用意されてあった食事は自分の分だけ。父は向かいの席でお酒を飲みながら肴をつまんでいた。
この時間まで起きて飲んでいるなんて珍しい。冷蔵庫に保管して冷やしてあった缶ビールを一つもらいアルミの蓋が軽やかに音を立てて開けた。
「なんだ、お前も飲むのか」
「たまには、ね」
食べ物をまず口に入れる前に、缶ビールを一口ほうった。喉に勢いよく入ってくるが、その苦みにまだ慣れないものがあった。
「大学はどうなんだ? もうじき就活じゃないのか」
父さんは笑いながら、眠たげな目をして話していた。
無色透明の焼酎をグラスの中でぐるぐる回して波を打たせていた。母さんの見ているテレビの音がたまに耳をついた。そうしてしばらくして、父さんはそのまま布団に入って寝てしまった。
使った食器などを母さんが洗い、僕ももう食べ終わって、お酒は一杯で済ませて、もう眠気が強くなってきていた。
「もう寝ちゃいなさいよ」
「ん、ああ…。これ食べたら…」
「そう、じゃあ早く食べちゃって。全然片づかないんだから」
捲し立てて言う母さんに、追い立てられるように急いで食べきり、ごちそうさまと言って食器を持って、台所で洗い物をしている母さんに渡した。母さんはその洗い物が終ればやっと寝られるとつぶやいていた。
リビングから自分の部屋へ。ベッドを前にして頭から零れ落ちる前に、押し入れを開けた。そこには、やはり白い本はなかった。今も僕の黄色いバッグに入ったままだ。
浮き足立ちながらバッグを持ち上げ、中に入っている白い本を取り出す。今度こそここに置いて、戸を閉めようとしたとき、不意に奥の方に角張ったものが見えた。
あれは、―――急に胸が苦しくなる。閉塞感がこみ上げて、何かが欠けて、空になって、恐怖が袖をつかむ。丹田にヒリヒリとした感覚が拡散した。
ガンッ、と押し入れの戸を急いで閉めた。力いっぱいに、思っていた以上の力で戸を閉めていた。見てはいけないものを見てしまった気がする。
足がもつれそうになって、それからベッドに倒れ込んだ。
やっと横になれたと思うと、身体はそんなに疲れてはいないはずが、瞼の重みで落ちてきたまっくらな闇の中へだんだん落ちていくのが分かった。
また課題の提出期限がやってきて、早く仕上げなければならないのに、僕はなにをやっているのだろう。閉じた瞼の下の世界は、もう暗闇に包まれた別世界だった。
今までどこにいたのかと、疑問に思ってしまうぐらい鮮明に、頬に風を感じた。
そうしたらまた、今日がやってくる。
「そうだ、明日は…」
暗闇の中で光が射して、カーテンの隙間から薄明光線のような白い光が伸び――――薄暗い梁が見える天井、僕はまた何かを見るだと、届かない天井へ伸ばした手が言っているようだった。
丹田のあたりがヒリヒリした感覚は同じなのに、僕は目を覚ます。




