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九話:「アメノオト」




 ――今日は、朝から雨が降った。


 天気予報によると、午前中は断続的に雨が降るのだと言って、家の玄関扉を開けると湿った空気に少し汗ばんだ。


 ビニール傘をひらき、片手をポケットにつっこませて家を出て十分ちょっとの距離を、雨に濡れるアスファルトの平坦な道に視線を落としながら、雨音を耳に入れて歩いていく。

 ぽつぽつ、ぱらぱらと。何も変わらない日常であることを歌うかのように雨は降りつづけた。


 確か、夢の中でも雨が降った日があった。厩舎から顔を覗かさて見ていた外の景色。その中で雨の匂いが厩舎の独特な匂いと一緒に僕の中に入ってきたのを、横断歩道の信号をみて思い出す。今もまた、違う雨の匂いがする。それが現実と夢を分けた。けれど、どちらが現実で、どちらが夢の中であろうとも、同じようにする雨の匂いが鼻をつき、感触を残し、又、深い森のイヤな感触を胸のなかに残していた。

 もうどちらも変わらない気がしてきてしまった、そんな五月末の雨の日だった。



 朝の九時過ぎ、水面に雨が波紋をつくるように傘をひろげた多くの人が、「赤羽駅」と書かれた建物の中へ流れ込んでいき、あっという間に駅の改札を通り、縦横無尽に行き交い過ぎ去っていく人の光景を背景にして、上手く避けながら目的の場所へ向かうための鉄の箱に乗りこんでいった。

 僕も同じように流されて、改札を通り、人とすれ違い、背景の一部になって、同じ鉄の箱がやって来る7番線ホームのもとまで移動する。それまでの間、木訥とした代わり映えしない駅の様子が、横目にぼんやりと彩りを変えずに過ぎていった。

 変わっているようで変わらない景色。まるで森の中に迷いこんだときのような、変わらないようで変わっている景色だ。すべてを許容してもそれ以外は許容されない自由の中の不自由とでも言うのか。

 心做しか、寂しさに似た感触を覚えた。 


 多くのスーツ姿の人や、真剣な面持ちで携帯電話の画面を食い入るように見る人たちを横目にして、今しがた通り過ぎた人にどうしてそんな急ぎ足で、どこへ行こうというのかと訊けば、それこそ仕事に学校や、はたまた遊びに出かけたりなど、色々様々な声を足音に変えて三者同様に答えるだけだろう。


 あの羊飼いの夢と同じだ。


 駅の煤けた無機質な天井を見上げて、いつもと変わらない日常が、汗ばむ肌を通して伝わってくる。どちらかと言うと、胸の内側のほうへ。

 毎日同じどこかへ向かって、学校で何かを学び、仕事をすることで生活を支え、それを繰り返す。明日もまた。どこへ行こうとも変わらない。

 たとえそれが、夢の中であっても。


 耳に残る音が周囲の音を掻き消していく。今でもずっと雨の降り止まない音が残響する。

 ふと我に返ると、音の多さに気持ち悪さを覚えた。


 俯きながら、止まらない足を映して心に声が溢れる。

 僕は、いったい何がしたいのだろうか。どこへと向かうのか分からない下水にでも流されているみたいに、うつらうつらと――。



 鬱蒼としたあの森の中で足場の悪い獣道を歩いている感覚がする。足に草葉が――足に触れている感覚の記憶を残している。まだ暗闇の森を歩いているような、判然としない意識で平坦な地面を歩いている。駅の電光掲示板を見上げて、どうして学校へ行かないといけないんだっけと、すぐ近くにあったアナログの針時計に眼がむいた。


 その数瞬、フッと目の端に映りこんだ影に、反射的に息が止まった。同時に、脳裏に誰かがよぎる。

 僕とは逆に向かって歩いていくその人は、川に落ちた木の葉が流れていくように多くの人の流れをすり抜けていった。

「――林さん…」


 そのひとりで歩いていく姿に目が吸い寄せられ、眼に入った紺色のリクルートスーツに身を包む姿は、既視感が目を留めさせたというよりも、糸に引っ張られたかのように、息を止めさせ、声が出て、振り向いていた。懐かしいものを見つけたかのように。


 雑踏する音が乱雑に混じりあう。もう届く距離でもないのに振り返って声に出たその一瞬、「あ」と訂正するように声が漏れた。

 それでもその人は振り向いて僕に気づく。どちらかといえば僕の視線に気づいたのだろう。林さんは、こちらを見て小さく手を振った。

 音が次から次へと湧きたつ喧騒の中を闊歩するその人は、対照的に人混みを掻き分けていく僕とちょうど落ち合ったところで、行き交う人の目に僕らが入っていないかのように人が綺麗に僕らを躱して流れていった。


「――おはよう」

 林さんのそっと囁くような声が聞こえてきた。

「久しぶり。こんなところで…会えるなんて」


「おはよう…」

 まだ夢でもみているような、朧げな記憶が反芻する。


「なんだか眠たそう…ね」

 近づく林さんの黒い瞳がゆっくり覗きこみ、また体を屈めるようにして小さく笑みをみせた。


「なんていうか、寝ているはずなのに寝た気になれないというか…」


「ん?」


「いや…」


 林さんの声が周囲の雑音に消されてしまうぐらいのかぼそい声量だったことを除けば、目の前の彼女の和やかさに嫌な気を緩めてくれる、そんな独特な雰囲気があった。


「最近、ぼうっとして、なんかそれに…変な夢を、みて…」

 やっと見つけた言葉が呆気ないものしか出てこなかった。そう言った直後に変な夢をみたなんて子供みたいな言動に、急に恥ずかしさの方が増してきた。


「どんな、夢だったの?」


 すんなり返ってきた言葉に、急いで言葉を見繕い、「えと、昔の…」と、口から出たところで説明に戸惑ってしまった。


「そうなんだ…。でも、そういうの私にもある。恐かったとき、いろいろ考えちゃって…、本当に寝られなくなっちゃったりするもの」

 林さんは眉をひそめて笑っていた。


「恐いって、例えば、これからの、とかそういう…」


「…まあ、そうね。そんなところかしら。でも…、おもしろいね。昔もそうだったよね」


「そうだったかな。面白いかな…」

 さっきから顔が引きつったままな気がした。


「そんな考え込むほど変な夢だったのかなって」

 笑いながら林さんは言った。


「ま、まあ、そんなところだよ。ハハハ…」


「大丈夫よ。夢なんて気づいたら忘れてるものよ。それよりも、今日できることは今日できるように、ね。そうしていても時間は待ってくれないんだから。

 それで、今日は何するの?」


 少し悩んだ。

 単純にそう…、「今日は…、学校に行って…」。


「そっか。それじゃあ、いってらっしゃい」

 耳にそっと触れるように話す声は、近いようで離れていく感覚を耳に残して、林さんの笑みが瞳に映っていた。


 その笑みを昔はよく見ていた気がする。聞き馴染みのある声と言葉。以前にも、誰かに似たようなことを言われたことがあるような気もした。

 どこか懐かしさに似た寂寞感が、胸を掠めていく。


「意外と、今ある問題も知らないうちに解決していたりするかもよ?」

 林さんは顔を寄せて僕の目の前で、眼を掴もうとするかのように覗き込み、数瞬、真芯を捉えて離さないようなまっすぐな瞳が、その黒い瞳に僕を映しこんでいた。


 少しばかり、他にも何か言いたそうな眼差しに瞼を下ろし、林さんはゆっくり離れていくその刹那、これも夢の中にいるのではと錯覚してしまうぐらい、いつもみる夢と重なる既視感がよぎった。



 嫌な夢をみた。これは幽霊に憑りつかれてしまったような、おかしな気分だった。

 やはり、あの図書館のドレスを着た人を見かけたのと、おかしな部屋から白い本を持ってきてしまったせい、なのだろう。この変な夢は、時間が経てば何とかなるものなんだろうか。毎日同じことを繰り返し見る。彼の日常そのものを。


 一日一日を過ごす、もう一人の自分の感覚が今でも残り、同時に身体は休まっているのに何かが蓄積されていく感覚が拭えなかった。

 だから、思い出すのは夢のことばかり。

 今のところ少し寝不足気味のようだが、それ以外は特になさそうである。今は、静観しているに限るのだろうか。


 不意に改札内の時計に目が向いた。

「もう行かないと、授業に遅れる」


「そうね、私もそろそろ…」


 ゆっくり瞼を落として、また笑みを溢す林さんは、振り返り際に「…またね」と言って去っていった。


 林さんがいなくなると、急に人の行き交いが煩わしくなった。少し歩いたところで振り返ると、林さんの姿はすでにどこにもなかった。

 もしかして急いでいたのかな、そしたら悪いことしたな。


 そうこうしているうちに、五分に一本やってくる長い鉄の塊がやってきた。

 急いでエスカレータを登りホームに向かうと、ちょうど目の前で口を開いていた。人が流れるように出ていき、流れるように入って、僕もその中に混じって乗り込んだ。

 それから電車に揺られて御茶ノ水の改札をでて、いつの間にか学校の目の前まで来ていた。

 駅舎を出るときにはもう雨は止んでいた。それでも、また降り出しそうな暗い雲が漂っている。そのまま何も考えず、ここに辿りつくまで流れるように時間が経った気がする。


 一生に使える時間のうち、約一時間を考えずに過ごしたんだなと、そう考えたとき、この時にも何かできたのかと、林さんの言葉が不意に過った。


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