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プロローグ




 風を切るように息をした。

 乱れる息は、風が吹き荒れるようだった。

 こんなに走ったのは、久しぶりだった。


 日暮れの河川敷の土手の上で膝に手をついて、息を切らして失ったものを数えるように吸っては吐いた。


 乱れた呼吸を落ち着かせていく。しかし、なかなかもとに戻らない。その間に過るのは昔のことばかり。失くしたものばかり。もうないものばかりが、吐くほどに出てきた。

 その人の黒い瞳にうつした光と輝きを目にした瞬間の記憶は、初めて会った時のもの。川の流れのように過ぎ去っては様々な彼女の表情が浮かんだ。

 瞼を力強く閉じれば、鮮明に昔のことをうつした。


 そっとまぶたを開いた視界には、アスファルトの地面に自分の影を落として「今」をうつした。そうしたらその人の顔が見えなくなった。膝から手を離して、丸まった背筋を伸ばして空を見上げた。


 雲ひとつない、すべてを覆う茜色から群青色へうつろうとする赤焼けの空は、空気も澄んで近いようで遠くにあるような、何かが終わって始まったような、でも、もういなくなてしまったその人を思わせる寂寞とした空だった。



 今日も一日中家の中にいるはずだった。

 たまたま窓の外を見たら、外の空気を吸いたくなったからただ外へ出ただけだったのに、家と家に挟まれた狭い空がちょうど見えて、ここへ来るように昔の記憶が囁やいたような、急に居ても立っても居られなくなった。そしたら、走り出していた。

 ゆっくり走っていたと思ったら、紙飛行機を追う子供のように、空の色を追って、記憶の色を追っていったらどんどん速度が上がっていた。

 こんなはずじゃなかったのに、といつの間にか全力疾走になって、無我夢中になって自分を勢いよく走らせていた。


 小学生の頃の記憶か、はたまた甘い香りがするその人と過ごした時間が過ぎったからなのか。若しくはあの頃に戻りたいと思ったからかも知れない。

 気づくと、東京の、荒川が流れる土手の上でひとり息を切らして、まだ乱れる呼吸音が雑に自分の中に流れ込んできた。

 吸っては吐いてを何度も繰り返して呼吸を整えて、そして身震いまでして思ったのは「綺麗な空だ」と、世界の広さを目の当たりにしたようだった。


 カーテンを閉め切った暗い部屋、すべての活動を止めてたかのような重たい空気と、テレビに布団がくしゃくしゃのベッド、ところどころ隙間の空いた本棚が形を変えずに眼の前にあり続けた。

 でも今は、揺れる草花の掠れる音が風の強さを歌い、重くのしかかるように吹きつける冷たさが頬を押し当てた。

 その冷たさが今の自分を少しずつ冷静にして、乱れた息も風に混ざりあい、白い息と一緒に思考に詰まっていたものまで、いっきにどこまでも真空の宇宙に漏れ出ているみたいにクリアにしていった。


 今この瞬間の目の前の景色が僕の中を染めて、今まで見えなかったものを鮮明にしていった。これまで過ごした時間も鮮明に。

 それがまた、息を苦しくした。




 これは、大学一年の冬のことだった。

 まだ一月だというなのに、汗までかいて僕は何をしているんだろうと自問自答して、いつの間にか火照っていた体は冷えきって寒さを感じた。


 ずっと部屋に引きこもっていたから、少し走っただけで身体中が痛くて、ただ立っているだけで眩暈がした。

 しだいに、車の走る音に子供の遊ぶ声が聞こえてきたり、運動する人の姿を見かけたり、土手を囲うように張り巡らせた幹線道路に豆粒ぐらいの車が延々と走り去っていた。いつもと変わらない日常のはずが、今では変わって見える。ゆっくりと時間が刻まれているようなおかしな感覚だった。


 この半年以上の間、僕はいつの間にか部屋の外の世界をただ見るだけになっていた。

 子供の頃は、よくここへ遊びにきていたのを覚えている。ここ数年、というよりも子供の頃に来て以来、ここへきた記憶がない。

 土手の上から見る景色ってこんなに広く感じたことなんて子供の頃の自分はまったく思いもしていなかっただろう。それに、土手の上がこんな綺麗に均ならされたアスファルトもなかった。もっと雑草が生えわたって砂利道で歩きにくかった印象がある。

 どんどん変わっていくのだろうか。ここも。昔はこうであったと懐古的になって、年を取るにつれてそれと比較してノスタルジーに酔うんだろうか。


 歩きながら今朝のことを思い出す。

 片手にコーヒーが入ったカップを持ち、リビングにあるテーブルの椅子に腰かけながら僕は、そのテレビ番組をただ眺めるようにして、テレビから音声がごちゃごちゃと漏れてきていたのを漠然と聞き流していた。


 共働きの両親はもう家を出ていた。今は僕一人しかいない。両親と顔をあわせたのはいつだったか覚えていない。明りを点けずに薄暗い部屋で、椅子に座って親が買ってきたコンビニのパンをかじってコーヒーを啜った。

 テレビの音以外は自分の咀嚼の音ぐらいしか聞こえてこなかった。静けさと、カーテンを開けた窓からは雲ひとつない青い空が見えて、何も考えずにテレビの画面に視線をもどした。


 コーヒーのカップの中に、電気ケトルで沸かしたお湯を注いだ後にできた、茶色い液体の渦を巻く様子をひと目みて、一口すすると穏やかさに満たされていく。そして思考が動き出し記憶の蓋に手をかける。

 それが僕の、久賀大樹の一日の始まる瞬間の一幕だった。


 またテレビ番組の内容が変わった。

 40年ほど前に宇宙へ飛び立った2隻の探査船の話だった。


 大きな銅製の金メッキを施されたレコードを乗せた2隻の船。その表面には地球までの地図も描かれ、内容にはこのホシの情報が、55の言語の挨拶と音楽に、115枚の森や川など自然や風景を魅せる画像に動物の鳴き声や音の数々と、様々な情報を詰め込まれて作られ、著名な2人のメッセージも録音され作られた。

 黄金色のレコードを乗せた2隻の船。何も聞こえてこない暗くて深閑とした超広大な空間で星の灯りを見つけながら、今は190億キロメートル以上も離れたところを秒速19キロメートルでジェット機の約76倍の速度で走り続けている。


 通り過ぎる星々の映像を映した写真を電気信号でもって16時間以上かけて地球へ送り、その中には小さな地球が広い空間にたった一コしか存在していないかのようなものまであった。

 それは、星と星の間の距離はとても遠く離れていることを教えてくれるとともに、この世界には私たちだけしかいない寂しさを思える光景だった。


 ニュース番組は次のニュースを続けた。


 カップから上がる白い靄を目にしたときに、ふと思った。

 太陽圏を出てここまで来るのに40年かかったそうだが、この船が帰ることはもうない。

 この太陽圏の外を目指して進むのみで、あと6年もすれば動力は完全に停止してそのまま速度は徐々に落ちていき、あとは残された推進力で進み続けるだけ。そうして止まったところで待ち続ける。

 地球産以外の〝ヒト〟と出会うそのときまで。


 どことなく博物館を歩いている感覚をイメージした。ハローの虹色の光の環を置物にしたジオラマ模型のような景観は、それだけで自身の数倍以上の大きさにもなるだろうし、星をひとつ横切ってもそれはただの壁にかけられた絵画のように思えるかも知れない。

 けれど、目にするものすべてが三次元の超巨大な物体である。


 僕なら寂しさと恐怖から道半ばで心が折れてしまうか、自分が可笑しくなってしまうかも知れない。それに壁一枚で遮る外の世界は真空の死の世界だ。正気なんてこの広い宇宙の中ではあってないのと同じ、道端に転がる小石程度といったところだろうか。そして僕の意識はこの宇宙に転がり続けるのだ。長い、長い、永遠に似た広い孤独の世界で。

 今の自分と変わらない、大事なものを失くした感覚が漂いつづけていくだけ。


 そんな呑気で貧相な妄想を思い描きながら、テレビから流れてきた音声に耳を傾けつつ、目に不意に入ってきた映像に僕は釘づけになっていた。


 帰ることができない、進むだけの旅路を行く彼らはプルトニウム238の原子核崩壊のエネルギーを電力に変えて、このまま銀河を何万年もの歳月を燦然と漂い、理論上あるとされるオールトの雲を抜けるまで約3万年、次の太陽系までは約4万年かかるという。数字が大きすぎてこの感覚には皆目見当もつかないが、テレビの画面を眺めていただけの僕には今日も特に難しいことは考えず、部屋の扉を開けていつも通り引きこもって時間をつぶす。

 いつかその船に取り付けられてある約1.7メートルの大きな通信アンテナから、〝君は今、なにをしているの?〟と、問いかけられてきそうだ。

 でも、無人のこの船は何も言わない。何も問わないし、何も言わずにただ未知を行くだけなのである。


 全てはそこにあるものを乗せて。〝――未知との出会いを求めて。多くのものと我々が生きた証を残せるように。いつかどこかの知的生命体の誰かへ、もういないであろう私たちの生きた証を残せるように…〟

 代表者のメッセージはそう続けられた。


 窓から不意に入ってきた空の色が、僕の何かを逸らせ、玄関から一歩外へ出した。数か月ぶりだった。


 家着のままだったから外は寒かった。当然だが、ずっと家の中にいると分からなくなるものである。

 身体の芯まで冷やすような、寒くて乾いた風が吹きつけ、肌に伝わる冷たさに、夕方のいろいろ混ざりあう匂い。ここには今まで何をしていたのか分からなくなるほど、僕はそこで息をして、呼吸をして、家の屋根と屋根に挟まれた狭い隙間から綺麗な色を目にした。

 そうしたら、僕はいつの間にか走り出していた。逸る胸の高鳴りが、一番よくそれが見える場所までひたすら身体を動かしていった。


 土手の上を、すでに薄紫色に変わりつつある空の下、僕は余計なことを後ろに引きずりながら歩いた。

 たまに吹く風の中に草の匂いが混じり、足もとの斜面一面にある草花を揺り動かし、夕方の長距離ランナーとすれ違う。もうじき土手を下る階段が見えてくる。そしたら僕はそのまま、まっすぐまた家に帰る。


 うっすら星が光る。

 僕はソラを見上げた。

 だんだん、群青色から暗くなっていた。


 玄関扉を開けると、ちょうど帰ってきていた母と久しぶりに顔を合わせ、少し沈黙があった。

 そのあと、母さんにこっ酷く怒られて、声を枯らして、目に涙を浮かべて、今までのぶんのものが次から次へと出てきているように散々怒られた。

 でも最後に一言、母さんから「もう大丈夫なの?」と、細い声をした、今まで聞いたことがない声で訊かれたとき、僕は首を立てに振った。

 子供のように、涙が頬を流れた。

 母さんは、何も言わずに家の中へ入っていき、そっと足を止めて「夕飯食べるでしょ。でもその前に、お風呂に入って来ちゃいなさい」と言った。

 僕は「うん」と言って中へ入った。その人はもうどこにもいないのだと言い聞かせて――。


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