修学旅行
新幹線の中で栞は目を輝かせて外を眺めている。
これまで旅行等したことが無かった栞にとって、新幹線に乗ること自体が初めての体験であり、こうして外の景色が瞬く間に変わっていくのを見るだけでも楽しいのだ。
凪紗はそんな様子の栞と外の景色を交互に見ながら、今後のことに思いを馳せていた。
こうして楽しく旅行に乗り出してはいるが、実際には考えるべきことがいくつかある。
まずは自身の進路のこと。勉強をせずに大丈夫だろうかというのがある。
実際はこれまで勉強しかしてこなかった凪紗はそこまで心配せずとも多少は大丈夫なのだが、結局のところどれだけやっても本人にとって心配なことは心配なのだ。
次に栞のこと。いつまでこうして一緒に居られるだろうかが分からない。
幽霊という未知の特性上、ある日突然いなくなってしまうなんてことも無くはない。
仮に今後ずっと幽霊としてこの世に居れるのだとしても、いつでも一緒に居られる訳ではない。
少なくとも大学に入ってからは、栞と過ごす時間は殆ど無くなってしまう。
現在栞の置かれている状況は非常に危ういものだ。
栞のご両親に相談しようかとも考えたが、栞自身は親に会いに行くことを良しと思っていない節があった。
何か思うところがあるのだろう、凪紗以外の知り合いには会わないと決めているようだ。
考えるのが怖かった。
どんな結末であろうと、明るい結果になりそうにないことは予想出来ているからだ。
幸せの分の反動は大きいなりそうだ。
それでも栞には幸せなまま過ごしてほしかった。
『どうかしたの? 何か心配事?』
凪紗が難しい顔をしていることに栞は気が付いたようで、心配そうに声を掛けてくる。
「ん? 何でもないよ。それより栞はどこか行っておきたいところはあるか?」
気が付かれてしまったことに内心焦る。
話題を逸らす意味も込めて栞に行きたいところを聞く。
ある程度の予定を立てたと言っても、栞の希望は聞くのを忘れていたので、聞いておく。
その日一日の予定であればいくらでも修正が出来るので、もし予定に無かったところに行きたいと言われても問題は無いだろう。
『そうだなぁ……大阪城は行っておきたいかなー。大阪城公園も写真だと凄く綺麗だったし。あ! 後は梅田スカイビル! 夜景が凄いんだよ! て言っても写真で見ただけだけど』
大阪城は元々行く予定だったのでこちらは問題無さそうだ。
梅田スカイビルに関しては名前も知らなかったので調べてみる。
ウェブの写真を見ても確かに夜景が綺麗だ。だとすると行くのは夜になるだろう。
距離は……そこまで遠くないな。大阪城を一番最初にして靭公園や中央公会堂を見つつ寄り道しながら回って、一旦宿にチェックインを済ませて夜に向かえばいいか。
梅田スカイビルと宿はそこまで離れていなかったので、予定に組み込むのも楽だった。
天王寺方面には行けそうにないが、栞が行きたいといった二ヶ所の間にも沢山の観光地があるので、行く場所に困ることはまずないだろう。
「了解。後、何か食べれない物とかあるか?」
『好き嫌いは特にないから大丈夫。そういえば昨日からテンションが上がっちゃって忘れてたけど。お金、大丈夫? 本当なら私も出せたらいいんだけど……』
「ん? ああ、気にしなくて大丈夫だよ。今まで使わなかった分があるから」
『でもやっぱり申し訳ないな。何か私に出来ることがあったら言ってね?』
「だから気にするなって。元は僕が言い出したことなんだから。栞がそれで楽しんでくれるのが僕にとっては一番嬉しいよ」
『全くもう凪君は……。分かった、思いっきり楽しむね! ありがとう凪君。ほんと、とことん優しいんだから』
栞は照れているように若干顔を赤くしてお礼を言ってくる。
そんな表情をされて凪紗まで顔が赤くなってきて何も言えなくなってしまった。
お互い何もしゃべらなくなり時間が止まってしまったかのようだった。
外の景色は二人の様子とは対照的に移ろっていく。
このもどかしい空気に先に耐えられなくなったのは凪紗だった。
「全くは僕のセリフだ。昨日会ってから栞はお礼ばっかり言ってるぞ。もう少し我儘を言ってもいいんだからな?」
何かあればすぐにお礼。それ以外は謝るか、迷惑じゃないかと言ってばかり。
凪紗としてはもう少し栞自身の心配や我儘を言ってほしいくらいだった。
出来る範囲のことであれば叶えてあげるつもりだったし、こちらのことなんか気にしないで単純に楽しんでくれればいいのだ。
『我儘って言っても……十分過ぎるくらいのものを私はもらってるし……』
小声で呟いた声は周囲の音にかき消されて凪紗の耳には届かなかった。
「ん? 何か言ったか?」
『ううん、何でもない。それより凪君は修学旅行なんかで行ったんだよね? 何か思い出話とか無いの?』
「いや、僕が栞の墓の前で言っていたことを聞いていたんじゃないのか? 勉強ばかりで修学旅行を楽しんでいる余裕なんて無かったよ」
『え? あ、ああそんなことも言ってたね。違う! 凪君に言いたいことがあったんだ!』
栞が思い出したように声をあげる。
その表情は心なしか少し怒っているようだった。
『凪君、もし私と同じ高校に通っていても仲は良くなかったみたいなこと言ってなかった? 何でそんなこと言ったの?』
そういえば栞の墓を目の前に懺悔するようにそんなことを凪紗は言った。
正確には「僕と栞は同じ高校に通っていて。でも栞の輪の中に僕はいなかった」だが、言った本人の凪紗も一言一句は流石に覚えていない。
そんな感じのことも言ったな程度の記憶しかなかった。
自分で言ってあれだが、聞かれていたと思うと何とも言えない気持ちになるな。
まさかそのことについて問い詰められるとは思ってもいなかったので、どう答えたものかと考える。
そもそも栞が何故怒っているのかが凪紗には分からなかった。
もういっそのこと素直に理由を話してしまおうかと口を開こうとしたが、それこそ恥ずかしいので口をつむぐ。
悩んだ結果、少々卑怯だが質問で返すことにした。
「なんでそんなに怒ってるんだ?」
あんまりな返しになってしまったな。でもこれさえ分かれば誤魔化す手段も見つかるかもしれない。
凪紗の返した質問を聞いて、栞は悲しそうにする。
まさかこんな顔にさせてしまう程のことなのかと凪紗は身構えてしまう。
『もし凪君と同じ高校に通えてたとしたらって想像すると嬉しくなるよ。一緒に勉強して、帰りに寄り道して、楽しい青春を凪君と送れたらどんなに良かったかって』
栞は嬉しそうに、しかし切ない表情で語る。
『でも凪君が想像するのはそんな光景じゃないってことが悲しいよ。私達、普通に出会ってたら友達にもなれなかったの?』
ああ。そういうことか。
ここまで聞いて栞の言いたいことを理解する。
凪紗にとって栞は想い人である前に友達だ。嬉しいことに栞も同じように友達だと思ってくれてる。
しかしそれは病院という特殊な環境だったからこそ、そうなったんだと凪紗は考えていた。
仮に学校で出会っても、栞とこんな風に仲良くなることは無かったと。
だが、栞は違う。どんな環境で出会ったとしてもこうして仲良くなっていたと考えているようだ。
そう考えていたからこそ、凪紗の捉え方によっては拒絶されているともとれる言葉に怒り、傷ついたのだ。
理解出来ると嬉しいという気持ちと共に、罪悪感が生まれてくる。
そのような卑屈な考えを栞の前で話してしまったこと。そして理由を問われた時に恥ずかしいという小さい理由で誤魔化そうとしたことに。
これじゃあ、あの時と何も変わらないじゃないか……。栞の生前、考えのない言葉を栞にかけてしまったことに酷い後悔を覚えたっていうのに、僕はまた同じ失敗をするなんて……。
襲い来る自分への嫌悪感をぐっと飲み込み、どんなに恥ずかしくても素直に話そうと凪紗は決めた。
「ごめん栞、そういう意味で言ったんじゃないんだ。僕は人付き合いが元々上手い方じゃない。青春なんて言葉からは程遠い人間だ」
話してしまおうと決めると、意外とスラスラ言葉が出てくる。
不思議と恥ずかしいという気持ちも無くなっていた。
栞は黙って凪紗の言葉を聞いている。
「栞は可愛いし、性格も明るいからきっと周りには沢山の人が集まる。男子にもきっとモテる、と思う。そんな立場の違う僕と栞が今みたいな風になるとは、とても思えなかったんだ。きっと輝いた青春時代を送ってたと思う」
言い終えるて栞の顔を見ると、先程よりも顔が真っ赤になっている。
そんな栞の様子を見てると何処かへ飛んで行った恥ずかしさが再び込み上げてくる。
『えっと……あ、ありがとう? まさか凪君から直接可愛いなんて言われると思わなかったから驚いちゃった』
「ごめん、嫌だったか?」
『違うの! むしろうれ――全然嫌じゃないよ! そ、それよりも! 凪君は些か私の評価が高すぎると思うの!』
「え? いや、そんなことは無いと思うが……」
『私はそんなに人気者にはなれないよ。基本人見知りだし、今でも凪君に初めて話しかけられた時に普通に会話出来たことに自分で驚いてるんだから。むしろ全く面識の無かった私にいきなり話しかけることが出来た凪君の方が人気者になれるでしょ!』
いや、だからそれは実際に出来なかったんだって!
傷口を抉ってくるような栞の言葉に凪紗は心の中で反論する。
栞は自分で人見知りだと言うが、とてもじゃないが信じられなかった。
初対面の時から凪紗をからかうぐらいの余裕があったので、嘘だろと言いたくなってしまう。
自分以外と会話しているところを凪紗は見たことが無いので、本当のところは実際には分からないが。
「僕だって未だに何で話しかける勇気が出たか分からないんだ。栞が話しかけやすい雰囲気でも出してたんじゃないか?」
『そんな雰囲気なんか出してないよ! それを言ったら凪君こそ人見知りの人でも話しやすそうな雰囲気を出してたんだよきっと!』
お互い押し問答で埒が明かなくなってしまった。
「ともかく僕はそう思って栞とは仲良くは無かっただろうと言ったんだ」
話がかなり脱線してしまったので、強引に内容を元に戻す。
『そんな悲しいこと言わないでよ。私は凪君と仲良くなれて良かったよ思ってるし、凪君だから仲良くなれたと思ってる。例え出会い方だ違ったんだとしても仲良くなってたって思いたいよ』
悲しそうに、寂しそうに、懇願するように栞は言う。
凪紗自身も出来ることならそうあってほしいと願ってはいた。
もし栞が無事に手術を終えることが出来て、その時に今の言葉を聞けていたならば、そうかもねと言うことが出来ていたかもしれない。
だが今となっては栞になんと言われようが、すんなり肯定することは出来ない。
それ程までに凪紗が抱えることになった罪悪感や自己嫌悪は大きかったのだ。
曖昧な言葉で栞を傷つけたくは無い。しかし肯定することも出来ない。
必死に言葉を探すが、納得のいく答えは出なかった。
『凪君あんまり自分を追い詰めちゃダメだよ』
余りにも唐突な心の中を読まれているような栞の言葉に、凪紗は固まる。
『昨日会ってからの凪君は何か自分を責めてるような、そんな感じがする』
「なにを――」
『不思議と分かるんだ。凪君のことだからかな? 少なくとも病院で会ってた頃の凪君はそこまで自分に対して卑屈になるようなことはなかった』
「それは……仕方がないことなんだ」
『優しい凪君のことだから私にもっとしてあげられることがあったんじゃないかとか思ってるのかな? 自意識過剰だったら恥ずかしいけど。でももしその通りなら、そんなくだらないことで自分を責めないで』
「くだらないことって……」
『だってそうだもん。私は凪君に大きなものを貰ったし、それに私今とっても幸せだから!』
笑顔で言う栞から凪紗は目が離せなくなる。
長い間抱えてきた凪紗の暗い感情を、当の本人はくだらないと一蹴し、今が幸せだとまで何の曇りもなく言われれば本当にくだらないことだったのではないかと思えてもきてしまった。
心の中に暖かいものが広がってくる。
凪紗があんなにも自分は救われてはいけないと思っていたのにも関わらず、栞の言葉一つで徐々に救われてきているのだ。
敵わないな、前も今も結局僕は栞に支えられて、救われて――。なら僕に出来ることは決まってる。
もうこれ以上自分の中の感情に振り回されずに、栞が幸せを感じていられるようにするだけだと凪紗は笑う。
「ありがとう栞。すぐにとはいかないかもしれないけど、自分を許せるように頑張るよ」
『出来れば罪悪感なんて今すぐ忘れてほしいくらいなんだけど、凪君がそう言うなら私からはもう何も言わないことにするね』
「ほんと、優しいのはどっちなんだか……。それと、もし出会い方が違っても、栞と仲良く出来ていたならとても嬉しいよ。嘘偽りなくそう思う」
『えへへ、ありがとう。やっぱ凪君はその顔が一番だよ!』
凪紗が素直な笑顔を作れたのは本当に久しぶりのことだった。
暗い話はここまでにして、新幹線内の残りの時間は大阪以外の栞の行きたい場所等の会話で、楽しい時間が流れていった。
――――――――――
長い移動の時間が終わり、新大阪駅に到着する。
時期が時期なので観光客は少なそうだったが、それでも人自体はかなりいる。
栞はサンダルだが、特に問題無さそうに人混みの中を歩いている。
むしろ勉強ばかりで、外にあまり出ず運動不足気味の凪紗の方が若干疲れている。
一度人の少ないところに移動して、大阪城までの移動ルートの確認をすることにする。
電車での移動を考えると、大阪城公園駅に着けばいいようだ。
新大阪駅から大阪駅までは徒歩でも行けるので歩いて行くことにする。
「大阪駅まで歩くが大丈夫か?」
『私は問題ないよ! 凪君こそ大丈夫かい?』
「大丈夫だ問題ない」
ニヤニヤしながら言ってくる栞に言い返す。
そんなに目に見えて疲れているつもりは無かったのだが、栞にはバレていたようだ。
しかし馬鹿るのは些か不本意だった。
栞の方が疲れるかと思っていたのだが、幽霊になって体力面でも元気になっているようだ。
と、言っても今から歩くことには変わらないので、飲み物だけはしっかり買っておく。
荷物をコインロッカーに入れ、大阪駅に向け歩く。
本当に大した距離ではないので直ぐに到着し、電車に乗って大阪城公園を目指す。
『見えて来たよ凪君!』
栞が窓の外を指さすのでそちらに顔を向けると、自然豊かな緑に囲まれた大阪城が見えた。
気持ちが高鳴るのを感じる。
修学旅行で本来感じるのはこういうものなのではないのだろうか。
城や歴史といったものにあまり興味が無くとも、雰囲気などで楽しむ。
その時の感情がやがて思い出になり、ふと思い出した時に感慨深くなる。
社会勉強といったことも大事だが、この時期にしか感じることの出来ないこの気持ちを学ぶことこそが本当の目的なのではないのだろうか。
徐々に近づく大阪城を眺めながら駅に着く。
駅を抜けると、辿り着いたという実感が湧いてくる。
大阪城公園内までは普通に入れるので、のんびり歩きながら向かう。
二月ではまだ桜は咲いていないのが少し残念だが、綺麗なことには変わらない。
大阪城の入り口に着き、チケットを買って中に入る。
内部は博物館のようになっており、大阪城に所縁のある物や資料等が置いてある。
それを理解出来ているのかは分からないが、栞が興味深そうに眺めている。
「栞は歴史とか好きなのか?」
『んー、普通かなぁ。特に好きでも嫌いでもないよ。なんで?』
「いや、なんか真剣に見てたからさ、そういうの好きなのかと思って」
『正直置いてあるものが何なのかさっぱりわかんないよ。でも普段見れない物ってなんか見ててワクワクするじゃん』
「まあ、分かる」
そんな調子で脇に置いてある説明分などを読みながら進んでいく。
やがてゴールに辿り着く。
設置されたバルコニーに出れるようになっており、周辺の景色を一望できる。
大阪城を囲うように広がる大阪城公園。さらにそれを包む活気溢れる大阪市街。
昼間なので光による綺麗さは無いが、また別の感動がある。
凪紗の隣で景色を眺めている栞も綺麗な瞳を大きく開けて見入っている。
風が吹き栞の長い黒髪が靡くその様子は、この景色に負けない程綺麗なものだった。
『ふふっ』
栞が笑う。
気付けば表情とは裏腹に瞳には薄っすらと涙が浮かんでいた。
「栞?」
『なんだか嬉しくて涙が出てきちゃった。ずっと写真でしか見てこなかった景色を自分の目で見れるなんて……』
「夢だったんだろ?」
『うん。いつか元気になったその時に見れたらって。その前に死んじゃったんだけど……』
「けどこうして見れてるじゃないか。なら今は余計なことは考えずに楽しめばいいんじゃないか?」
『そうだね。そうするよ!』
栞は涙を拭い、再び景色に目を向ける。
しばらくの間2人は無言でただ景色を眺めていた。
昼時になり、昼食を取ることにする。
粉物は夜にしようと思っているので、軽めのランチで済ませる。
味は口コミ通り文句なく、栞も満足そうに食べていた。
その後、寄り道しながら靭公園に行きのんびり過ごす。
バラ園やケヤキ並木は時期外れなので少し心配だったが、この時期でも咲く種類があるようでとても綺麗だった。
植物の香りに包まれながら歩いていると、遊具が設置されている一角を見つける。
子供達が楽しそうに遊んでおり、和気藹々といた様子に凪紗と栞は頬を綻ばせた。
園内に設置されたテニスコートに移動すると、公式ではなさそうだが試合が行われており少し観戦していくことにした。
初めて生で見る試合に栞はとても興奮しており、凄いプレイが出ると声を上げてはしゃいでいた。
一通り見たところで、靭公園の近くにあるカフェで自然を眺めながらお茶をした。
出るころにはいい時間になっていたので、宿方面に向かいながら気になったところに立ち寄る。
新大阪駅のコインロッカーにある荷物も回収しておくのを忘れない。
着く頃には夕方になっていたので、一旦チェックインを済ませ一時間程足を休ませてから梅田スカイビルに向かった。
流石に多少混んでおり、チケットを購入するのにも少し時間が掛かった。
上の階に行く為のエレベーターの中で栞は既にソワソワしている。
よっぽどここに来るのが楽しみだったようだ。
途中でガラス張りになっているエスカレーターに乗ることになる。
既に少し外が見えており、最上階に行った時の期待感を高めてくれた。
最上階に着き、屋外展望フロアに向かう。
『これは……凄いね……』
展望台についた時の栞の第一声はそれだった。
既に暗くなっており夜景を楽しむには丁度いい時間になっている。
ただでさえ綺麗な空中展望台から見下ろす夜景は、それこそ凄いの一言だった。
身を乗り出さんばかりの栞の横に並び眼下の景色に酔いしれる。
道路を走る車や高層ビルの光も普段は何とも思わないが、見る視点を変えるだけで一つのアートのようになる。
数時間前まで観光していた場所も上から眺めると、そこを歩いていた自分たちが俯瞰で見ることが出来ているようだった。
静かに景色をただ見ていると、不意に凪紗の手が栞の手に触れる。
『あ……』
「ご、ごめん」
狙った訳ではなく完全に事故だった。
場の雰囲気もあり妙に意識してしまいお互い顔が赤くなる。
気持ちを逸らすために凪紗は夜景に集中しようとしたが、何を思ったのか栞が凪紗の手を握ってきた。
身体が跳ねる。あまりに突然のことだったので思考が追い付いていなかった。
『こうしてるとカップルみたいだね。――自分でやったことだけど恥ずかしいね、えへへ』
「なっ!? 妙に緊張するようなこと言うなよ……」
これは……やばいな。
手の平に伝わってくる栞の温もりを感じて、心臓の鼓動が最高速になる。
狙って言っているのではないのかと思うようなセリフを向けられて、心の内を言ってしまいそうだったが、必死に理性を振り絞り抑える。
もし栞が幽霊でなければ、あるいは言ってしまっていたかもしれない。
でも、これくらいなら――
言葉に出来ない代わりに凪紗は栞の手を握り返す。
すると栞はとても嬉しそうに微笑んで夜景に視線を戻した。
栞が今何を思っているのかがとても気になったが、声を出すと変なことを言ってしまいそうだったので、凪紗も夜景を眺めることにする。
いつまでもこの時間が続けばと、そんなベターなことを考えてしまう。
そんなことは不可能と知りながらも、凪紗はそう願うのだった。
――――――――――
昨日はなんだかんだ結構な距離を歩いたので、ゆっくりなることが出来た。
梅田スカイビルから降りた後から寝るまで、どうしてもお互い意識してしまい会話がぎこちなくなっていた。
こんな調子ではいけないと思って、寝る前に明日にはリセットしようと決めていた。
寝ている栞を若干ドキドキしながら起こす。
朝はそこまで強くないのか、昨日同様にすぐに起きる気配がない。
身体を揺すり半ば無理やり起こす。
ゆっくりと開かれた栞の瞳と目が合った。
「栞、朝だ」
『ん、起きるね』
思っていた以上に普通に話せて安心する。
栞の目が完全に覚めるのを待っている間に、身支度を整える。
泊っている宿は軽い朝食なら出るみたいなので、どこか店を探す必要はない。
今日の周る奈良までは、電車で一時間と少し。あまり焦って出発する必要はないだろう。
「あれ? 栞その恰好は?」
宿の部屋にある洗面所から戻ると、栞の服装が昨日とは違うものになっていた。
白いシャツに明るい青色をいたカーディガン、薄いピンク色のロングスカートといった相変わらずこの時期だとまだ少し寒そうな格好だ。
『ん? 気分転換だよ! それに毎日同じ格好じゃ凪君も飽きちゃうでしょ?』
「いや、別に服装に飽きるも何も無いと思うんだけど……」
『それとも似合ってない?』
瞳をウルウルさせながらそんなことを言われて似合ってないなんて言える奴はいないだろ……。そもそも似合ってるし。
恐らくふざけてやっているのだとは分かっている。
あまりにも卑怯である。
こういう時に恥ずかしがったりすると栞の思うがままなので、普通に思ったことを言うのが最適だ。
「似合ってないわけないだろ。そんなことより朝食を食べに行くぞ」
『そんなことって酷ーい! ま、別にいいけど。今日は奈良だよね?』
「そうだよ。九時くらいには出るからよろしくな」
『はーい。鹿にお煎餅食べさせてあげるの楽しみだなー』
奈良でやりたいことや見たいものを話しながら朝食を食べる。
簡単な物だったが、朝食だということを考えれば十分だろう。
食べ終え、部屋に戻ってからは忘れ物が無いかなどのチェックをする。
準備が十分出来たところでフロントへ行きチェックアウトを済ませ、宿の従業員のいってらっしゃいませという言葉を後に奈良へ向かう。
移動に新幹線は使わないので、路線だけ確認して電車に乗る。
距離的にはそこまで離れていないのに、少しすると景色がガラッと変わる。
そんな電車からの景色を楽しんでいると、あっという間に奈良駅に着く。
『奈良にとうちゃーく!』
「テンション高いな」
東大寺まではバスが出ている。
歩いて行ってもよかったのだが、昨日同様歩いてばかりになってもアレなので、とりあえず行きはバスを使うことにした。
『見て凪君! 鹿!』
興奮しながら声を上げる栞。
バスの中の老夫婦が微笑ましそうにこちらを見ている。
「栞、分かったからもう少し静かにな」
凪紗が注意すると見られていることに気が付いた栞が恥ずかしそうに顔を真っ赤にする。
そんなに鹿に会いたかったのか?
実際に鹿が近くに来ると怖がる人もいるのだが、この分だと栞は大丈夫そうだった。
むしろ鹿の方が栞の勢いに驚いて逃げていかないか心配になる。
まあせんべい片手に近づけば問題ないか……。
凪紗も一応修学旅行で鹿にせんべいをあげる機会自体はあったのだが、その時は面倒臭くてもっとあげたそうにしていた近くのクラスメイトに自分の分も譲ったのだ。
餌をあげるだけの何がそんなに楽しいんだとも思っていたが、それもきっと修学旅行ならではのことだったのだろうと今ならば分かる。
「そんなに鹿と遊びたいなら東大寺は後にするか?」
『東大寺もそれ以外のとこも見に行きたいから予定通りでいいよ。鹿は逃げないからね、たぶん』
鹿を見てテンションが上がっていた栞だが、東大寺や他の場所も見に行きたいというのは本心のようだ。
時間には余裕があるので、奈良公園にいる時間を多めにとっても問題はない。
バスが停車場に止まり到着を告げる。
降りて深く深呼吸をすると、綺麗だが独特な匂いのする空気が身体の中に入ってくる。
大阪に比べて静かでのどかな雰囲気になごむ。
東大寺は見えており入り口の方に向けて歩いて行く。
大きな門を潜り本殿を目指す。
真っ直ぐに本殿へと続いている道はとても幅が広く、それなりに人はいるが歩きにくいということは全くなかった。
大仏殿までにあるもう一つの門を潜る。
近づくごとに段々と大仏の姿がはっきりと見えてくる。
『おっきい……』
真下まで来ると軽く見上げるようになってしまう。
見たことがある凪紗も、気持ちの問題なのか凄く壮大で神々しく感じていた。
前に来たときは精々大きいなくらいの感想しか抱いていなかった。
「ああ、大きいな。高さは約十四メートルだったか? だいたい栞九人分くらいか」
『何その例え方……確かに私の身長は百五十五くらいだから殆どぴったりだけど』
自分の身長で例えられた栞は不服そうだ。
「さて、他のところも見てくだろ? 順番に回ろうか」
大仏殿を後にし色々と見て回る。
最初は鏡池を通りすぎて開山堂方面を見に行く。
法華堂や二月堂を知っている限りのことを説明しながら周る。
一通り見た後は大仏殿の後ろを通り大仏池の方にやってくる。
勧進所の前を通り戒壇堂を見て、引き返し最初の場所に戻ってきた。
「どうだった?」
『なんか凄いのは分かるんだけど、説明を受けてもピンとこない感じだったかな』
「まあ、相当な歴史ファンじゃない限りはそんなもんじゃないか? 僕も知ってることを説明してたけど深く理解してるわけじゃないし」
『それでも何も知らずに見て周るだけよりは楽しめたよ。ありがと!』
「どういたしまして」
それなりに時間が経っていたが、まだ昼食を食べるには少々早いくらいの微妙な時間だ。
予定を変更して、昼食の時間が多少遅くなるが先に奈良公園に行くことにした。
東大寺を出て真っすぐ進むと直ぐに到着する。
そこかしこに鹿が歩いている。
凪紗の隣にいたはずの栞はいつの間にか目を輝かせて鹿の方に歩いて行っていた。
完全に怪しかったが、ここにいる鹿は人馴れしており全く逃げる様子がない。
栞が撫でようと鹿に触れると、身震いするようにしてから歩いて行ってしまった。
『そ、そんな……』
目に見えてがっかりしている栞はあまりにも不憫だった。
凪紗は鹿せんべいを売っている売り子のところに行き、2人分の鹿せんべいを購入する。
「栞、ほら」
他の鹿にアタックするもことごとく敗れて絶望したような表情を浮かべている栞に鹿せんべいを渡す。
栞は渡された鹿せんべいを見つめて震える。
『こ、これは!? これさえあれば何匹だろうと私の虜にすることが出来る!』
「そんな感動するような物か?」
『凪君も数多の鹿さん達に振られれば私の気持ちが分かるよ……。見向きせずに去ってくんだよ! 惨めなんてものじゃないよ!』
どうやら考えていた以上に鹿の機嫌を取るのは難しいらしい。
だが、栞の言う通り鹿せんべいさえあればむしろ鹿の方から勝手に寄ってくるだろう。
『あ、君は……』
話している間に気付けば一匹の鹿が、近くに寄ってきていた。
栞の反応からして一度は去って行った内の一匹なのだろう。
他の鹿との違いは凪紗には正直分からない。振られた栞だからこそ分かる何かがあるのだろうか。
栞が戻ってきた鹿に恐る恐る鹿せんべいを差し出すと、軽く匂いを嗅いだのち食べだした。
『食べた!』
ようやく撫でることが出来て満足そうな栞を眺めながら、凪紗も近くに寄ってきた鹿に鹿せんべいをあげる。
よく公園などで鳩に餌のようなものを蒔いている人がいるが、似たような感覚でやっているに違いない。
無心で鹿せんべいを与えていると、次から次へと鹿が集まってきた。
栞の周りは最初の一匹しか相変わらずいなかったが、凪紗の周りには既に七匹の鹿がいる。
『はっ!? 凪君が鹿ハーレムを作ってる』
「なんか続々と集まってきた」
『そんなに侍らせておいていいご身分だね。いいもん! 私にはこの子がいるもん! ねー、しーちゃん』
しーちゃんと勝手に名付けられた鹿は栞の言葉に何の反応も示さず鹿せんべいに夢中になっている。
完全に片思いだった。
凪紗の周りに集まっていた鹿たちは、直ぐに鹿せんべいを食べきり、もっとないのかとでも言いたげな感じだったが、これ以上出てこないと分かるとさっさと何処かへ行ってしまった。
栞の方も鹿せんべいがなくなり、しーちゃんも何処かへ行くかと思ったら、そうでもなかった。
若干懐いたように栞の近くから離れずに、撫でても大人しくしていた。
『し、しーちゃん……』
「良かったな栞」
少しの間嬉しそうに撫でていた栞だが、ある程度満足したのか撫でるのを辞めて凪紗の方に振り向いた。
「満足したか?」
『凪君……この子連れて帰る』
「いや、無理だから」
全然満足していなかった。
『でも可愛いよ?』
「そんな理由で連れて帰ってよかったら、子供とか外出れなくなるだろ……」
栞の危ない発言に若干呆れつつ言葉を返す。
そんなアホなやり取りをしている間に、しーちゃんは何処かへ行ってしまった。
残念そうに項垂れている栞を適当に慰めて、次の場所を見に行く前に昼食にすることにした。
少し遅めの昼食を済ませた凪紗と栞は次の目的地へと向かう。
と言っても、向かっている若草山という場所は奈良公園内東の端辺りなので、そこまで遠くはない。
相変わらずそこかしこに鹿がいる。
栞は手の届く距離にいる鹿と遊びたそうにしているが、そればかりにあまり時間を使うわけにはいかないことを分かって、自重するようにしていた。
入山ゲートを通り、歩きやすいように整備された道を上っていく。
山といっても一般的に想像するようなものではなく丘のような感じなので、歩いていてもあまり疲れはなかった。
すれ違うお年寄りが挨拶をしてきたので、こちらも挨拶を返す。
元気に挨拶を返した栞を見て、柔らかく笑っていた。
そんな調子で頂上に辿り着いた。
標高は約三百五十メートルとそこまで高くはないが、奈良の街並みを一望出来る。
『大阪城からの景色とはまた違った良さがあるね』
「そうだな。山が多いからかな」
『かもね。大阪は都市って感じが強かったけど、奈良は静かな感じというか落ち着くというか……上手く表現できないけど』
「僕もいい感じの表現が思いつかないな。こういう時洒落た表現が出来るとかっこいいんだろうな」
語彙力などはこういう時に試されるものだ。
凪紗は正確の通りこういったことは苦手だった。
今後も多くの景色を見に行く予定なのだが、この調子では後半は何も言えないのではないのだろうか。
そんな心配が湧いてくるが、実際はその時になってみないと分からないので、今はこの風景を楽しんでおくことにした。
それにしても寒いな……、栞は寒くないのか?
季節も季節なので高いところに来ると、いくら厚着をしていてもそれなりに寒い。
栞は今の季節を考えると薄着過ぎるくらいだ。
「寒くないのか?」
見てる方が寒くなりそうな恰好の栞に聞いてみることにした。
『寒くないよー。あんまり温度とか感じないみたいなんだよね。あ、でもご飯とかは温かいとか熱いとか思うんだよね。なんでだろう?』
「流石に僕にはその理由は分かんないけど、便利そうでいいじゃないか」
『それもそうだね』
一つの疑問が解決したと思ったら、また別の疑問が出てきたが、都合がいいことなので気にしないことにして再び景色に目を戻す。
ただ、この場所は正直これ以上出来ることもないので、ある程度満足したところで下山することにした。
思った以上に時間が余ったので、近くにある有名な観光地を色々と見て周ることにする。
薬師寺や平城宮跡、春日大社に興福寺といったところを軽い気持ちで見ていく。
最後に奈良国立博物館を見学していい時間になったので宿に向かうことにした。
奈良で取った宿は、雰囲気を味わう為に和風の宿にした。
板の間にある椅子に座り室内に常備された茶を飲みながら、昨日今日の楽しかったことや明日からの予定、行きたい場所などを話す。
窓の外の景色を眺めたりしながら、まったりとした時間を送っているといつの間にかそれなりに時間が経っていたようで、夕食が運ばれてきた。
豪華な和食の数々がテーブルの上に並んでいき、匂いも相まって食欲をそそられる。
昼食の時間は遅かったが、今日もそれなりに歩いたので問題はない。
座布団の上に正座をし、せっかくの料理が冷めてしまわないうちに頂くことにする。
「いただきます」
『いただきまーす! んー! いい匂い!』
昨晩とはまた変わった内容の夕食に栞は目を輝かせている。
そこまで喜んで貰えると、色々と調べて予約した甲斐があったと思えるよ。
栞の様子を見た凪紗も嬉しくなり頬が緩む。
肝心の食事は見た目の期待を裏切らない味でとても美味しかった。
普段はしっかりした和食を食べる機会などあまりないのでよく味わって食べる。
満足出来る食事を終えた後は、温泉に入ることにした。
男女に分かれた暖簾の前で栞と別れ、風呂場に向かった。
露天風呂もあったみたいで、身体を洗って室内の浴槽で熱さに慣らしてから露天風呂に浸かる。
気持ちよさで疲れが取れていくようだった。
しばらく浸かっていると眠くなってきてしまったので、万が一寝てしまうということが無いうちに、身体を流してから出ることにした。
栞はまだ出てきていないようなので、牛乳を飲みながら待つことにした。
何で風呂上がりの牛乳はこんなに美味しいんだろうと思いながら、マッサージチェアに寄りかかっていると、浴衣姿の栞が出てきた。
『ごめん、待たせちゃったかな?』
「別にいいさ。それよりもその恰好は?」
『どうせだから浴衣にしようと思ってね。似合う?』
「ああ、よく似合ってるよ。雰囲気ともばっちりあってるしな」
『えへへ、やったぁ』
凪紗が素直に褒めると栞は若干照れながら嬉しそうにしていた。
温泉から上がったばかりの栞に牛乳を買って渡す。
『これが風呂上がりの瓶牛乳か。一度やってみたかったんだよね』
落ち着きすぎて凪紗はすっかり頭から抜け落ちていたが、栞は温泉に入ること自体が初めてだったのだ。
中々出てこないと思っていたらそういうことか。
恐らくは初めて入った露天風呂の気持ちよさに衝撃を受けて長風呂してしまったのだろうと察した。
腰に手を当てて手本のように牛乳を飲む栞は顔が若干赤くなっていた。
「栞、明日からの宿も温泉だけど、のぼせないように気を付けろよ?」
『そうだね、気を付けるよ。今もこれ以上はやばいかもと思って出て来たんだ』
のぼせる幽霊というのも可笑しな話だったが、一般的に想像される幽霊に比べて栞は人間に近すぎるのだ。
もし、万が一があっても立場上病院にも連れていけないので、本人に気を付けてもらうほかない。
「それじゃあ、今日はもう休もうか」
栞が牛乳を飲み終わったのを確認して部屋に戻ることにした。
――――――――――
三日目の朝。ここ数日の流れと変わらない起き方をする。
朝食は納豆等の家でも偶に食べるような物だったが、家で食べるのと外で食べるのでは感じ方が違った。
用意を手短に済ませ、京都に行くための電車に乗る。
奈良から京都までは乗り換えなしで行けるので楽だった。
電車の中で今日の予定を確認する。
まずは無難に鹿苑寺や龍安寺といった場所を始めとした色々な神社等を見て周る。
下鴨神社や春明神社にも行きたいと思っている。
昼を挟み、清水寺や慈照寺等固まっている場所を一気に周るつもりだった。
最後に少し距離があるが、伏見稲荷大社を持ってきている。
大阪と奈良に比べ移動距離が長いが、頑張るしかない。
なるべく移動が楽になるように考えていると、栞がメモを覗き込んできた。
『あれ? 金閣寺と銀閣寺は行かないの?』
「ん? ああ、金閣寺は鹿苑寺のことで、銀閣寺は慈照寺だよ」
『そうなの? じゃあ何で金閣銀閣って呼ばれてるんだろう? 鹿苑寺が金閣寺ってゆうのは何となく分かるけど』
「金閣寺の方は想像している通りだ。銀閣寺の方は歴史的な話になるから退屈かもしれないぞ?」
『教えて教えて!』
それでも栞は興味深々だったので説明をすることにした。
と、言っても凪紗も多少知っている程度だったので、本当に合っているかは分からないと言っておいた。
知っていることを話しつつ、調べたりしながら栞に説明する。
長くなってしまったが、その間も栞は真剣に聞いてくれていたので、話した甲斐があった。
終わるころには京都駅に着いていたので時間的には丁度良かった。
駅に着いて早々だったが、バス乗り場に移動して鹿苑寺に行くためにバスに乗る。
どうでもいい話だが、バスは金閣寺行となっていた。一般的に金閣寺の方が馴染んでいる証拠だろう。
三十分も掛からずに鹿苑寺に辿り居つく。
総門を潜り、左の方向に順路通り歩いて行き鐘楼、庫裏と順に見ながら進んでいく。
やがて鏡湖池が見え、その上にある蘆原島の更に奥に、舎利殿が見える。
近づいて、一番よく見える場所に移動する。
幸い今日は快晴だ。舎利殿の金箔がとても綺麗だ。
そして天気が良くて嬉しいことがもう一つ。
鏡湖池に舎利殿が反射している。
『うわぁ、綺麗』
「鏡湖池に舎利殿が反射している様子を逆さ金閣と言うらしいぞ。快晴じゃないと見れないらしいからラッキーだったな」
『日頃の行いが良かったのかもね』
「……そうだな」
僕は兎も角、栞の頑張りが報われたのだと思いたいな。
水面に波が立ったりして変化を見せる景色に一喜一憂しながら舎利殿をしばらく眺めて、その後境内を一周して次の場所に向かうことにした。
次に向かうのは龍安寺だ。
鹿苑寺からの距離はかなり近いので歩いて向かう。
中に入るまでの石道も毎日手入れされていると聞いたことがある。
それもあってか、とても歩きやすいのもそうだが、ただの道一つ見ても綺麗だと思った。
拝観料を払い中に入る。
鹿苑寺の時もそうだったが、こういった場所にはちゃんとした順路が決まっており、今回もそれに従って進むようになる。
龍安寺も色々と見どころがあるのだが、注目されるのは蹲踞と石庭だろう。
『これはなんて書いてあるの?』
蹲踞を眺めながら栞が聞いて来る。
ロの周りにある文字のことを言っているのだろう。
「これは我唯足知って読むんだ。賢ければ貧しくても潤っていて、逆に阿呆だと金持ちでも乾いてるみたいな意味だな」
『んー、なんか難しいね。でも凪君は賢いからいい意味になるね!』
「勉強が出来るのとは少し違うと思うが……、そうで在りたいとは思うかな」
我唯足知の意味について深く考えるが、言いたいことは分かっても、理解しきれはしない。
余り長く考えていても仕方がないので、思考を中断して次の場所に向かうことにした。
順路通り歩いて行き、もう一つの目玉である石庭までやってきた。
均等に敷き詰められた石の庭に更に十五個の石が並べられているのがこの場所だ。
作成者が何を思って作ったのかは、詳しくは分かっていないのだという。
所説あるが、心の字の配石や七五三の庭と言われている。
「確か平地に見えるけど、排水なんかを考慮して若干斜めになってるんだったかな。塀の高さでそれを見ただけでは分かりにくいようになってたはずだ」
『あと一度に全部の石が見えないってよく言われてるよねー。本当にそうなのかな?』
全ての石が一度に見えないというのは有名な話だ。
ここに初めて来た人なら疑問に思って試してみることだ。
栞は色々な角度から試すが、見えなかったのか戻ってきた。
『本当に見えない……』
驚いている栞に凪紗は調べていた場所に移動してから、こちらに来るように手招きをする。
首を傾げながらやってきた栞にそこに立つように言って、ある角度を指で示す。
「実は一度に見ることは出来るんだ。ここから真っすぐに見てみて」
凪紗の指示に従って栞は石庭を見るが、相変わらず首を傾げていた。
『一、二、三……、十三個しか見えないよ?』
「いや、見えてるよ。一番奥に見えてる石は大きいやつの右に小さいのが見えるだけのように思うが、左下に見えているのは別の石なんだ。同じ原理で、一番手前の平たい石の右下に見えているのも別の石なんだ」
二つの石が一つに見えてしまうのが、全ての石が見えない一番の原因。
信じられないのか、栞は一度移動して確認した後に再び戻ってきて眺める。
『本当だ……実は見えてたんだ!』
喜んでくれて良かった。調べてきて正解だったな。
はしゃぐ栞を見て凪紗も嬉しくなってくる。
その後も栞は移動してまた戻ってきてを繰り返していた。
そんな凪紗の言葉を聞いて、楽しそうにする栞の様子を見た周りにいた人達も試したそうにしていたので、ある程度満足したところでその場を離れることにした。
今日は何処か店に入って昼食は取らずに三年坂に並ぶ様々な店を見つつ、適当に買って食べることにした。
みたらし団子やとうふまんじゅう等、食べ歩きでも十分満足できる。
食事を楽しみながら、珍しい物を見つけてははしゃぎもしつつ、清水寺に向かう。
徐々に人が増えてきて、しばらくして清水寺に辿り着いた。
本殿に辿り着くまでに色々な建物があるが、やはり清水寺といえば断崖絶壁に経つ本殿からの眺めだろう。
『うわー、凄いね!』
「もう少し遅い時期ならもっと凄かったかもしれないな。それにしても、最近の栞は凄いしか言ってない気がするんだが、気のせいか?」
『確かに凄いって沢山言ってる気がする……。でも凄いから凄いんだよ?』
「なんだそれ」
『ふふっ、ありがと凪君』
「いきなりだな……、どういたしまして」
突然栞に笑顔でお礼を言われた凪紗は、頬を搔きながら景色に目を戻した。
旅行が始まってからこのむず痒い空気には何度もなってきたが、凪紗は未だに慣れることは出来そうになかった。
それはこの空気を作り上げている張本人である栞も同様なのだが、直ぐに顔を逸らしてしまう凪紗は知る由もなかった。
いつものように二人無言で景色を眺める。
景色が綺麗なところに行く回数が多いのは、病院にいた頃に栞が見ていた旅行雑誌の記事が、綺麗な場所の写真が大半を占めていたと凪紗が記憶していたからだ。
景色ばかりでは飽きてくるかもと最初は懸念もしていたが、二人とも語彙こそは貧弱だが、本心から楽しんでいた。
場所によって全く変わる景色は、ただそれだけで感動を覚えさせてくれる。
今目の前にある景色を見ながら、まだ見ぬ次の景色に夢を膨らませていた。
「そろそろ他のとこも見に行くか」
『いつもみたいに色々教えてね!』
「満足いただけるように頑張るよ」
大きな建物が多い清水寺を順番に見て周る。
凪紗が元から持っている知識と調べておいた情報をなるべく分かりやすいように話すのは、毎度中々骨が折れるが、栞は真剣に聞いていてくれるので遣り甲斐だけはあった。
一通り周り終えた時には日が落ち始めていて、伏見稲荷大社に着く頃には空がいい感じに赤焼けてくる頃だろう。
ならばと、先に夕食にすることにして夜に行くことにした。
他の神社などと違い伏見稲荷大社は夜にも入ることが出来る他、ライトに照らされてとても綺麗なのだそうだ。
それどころか調べてみたところ、夜に行くのがおすすめとまで書かれていた。
栞も勿論夜に行くということに納得したので、一度宿に行き荷物を置き次第夕食、伏見稲荷大社という流れになった。
京都で取った宿も和風で雰囲気があるところなのだが、奈良の時と違うのは夕食を出さないようにしてもらったことだ。
美味しそうなしゃぶしゃぶの店を凪紗は調べていた時に見つけていたので、本日はそこで夕食にする。
お洒落な個室に案内されコースを頼み、届くまでしばらく待つ。
栞はしゃぶしゃぶを食べるのも初めてなので、ソワソワしながら待っていた。
やがて順番に食材が運ばれてくる。
一つ一つの食材が綺麗に盛られており、それだけでも食欲を誘ってくる。
『この箸で茹でればいいんだよね?』
「そうだよ。肉は赤くなくなれば大丈夫かな」
『了解! それじゃあ、いただきます!』
「いただきます」
野菜からの方が良いだろうが、そんな野暮なことを言う人は誰もいないので、肉から摘まんで食べる。
味は勿論の如く美味しかった。
栞は初めてのことなので楽しそうだったが、凪紗も久しぶりだということや環境の問題もあって、楽しく食事をすることが出来ていた。
最後にはデザートも運ばれてきて、満足のいく夕食になった。
『美味しかったぁ。満足満足』
「意外と量があって食べきれるか心配だったけど、美味しくて思った以上に食べてたよ」
宿に戻ってから伏見稲荷大社に行くと遠回りになってしまうので、店で少しの食休みをすることにする。
時期が時期なのでそこまで混んでいないので、何も言われることはなかった。
しかし、あまり長居しても迷惑が掛かるので、ある程度経ったところで会計を済ませて伏見稲荷大社に向かうことにした。
外は既に暗くなっている。
とはいえ、どこに行っても街灯等が多く、歩いていて危ないということはなかった。
電車に乗り近くの駅まで移動した後、食後なので無理はせずにのんびり目的地まで歩いて行く。
『着いた!』
「今日最後の観光だから時間は気にせずにゆっくり見ようか」
あまり遅くなってもアレだが、ゆっくり見ることを考慮しても時間的には余裕があった。
「左の方から順に周っていって、最後に千本鳥居でいいか?」
『いいよー。私も千本鳥居は締めが良いと思うし』
「よし、それじゃあ行こうか」
人工的な光に照らされて、また別の風情を見せる鏡内を散策する。
全体的に赤い建物が多い為、夜でも若干明るいように感じる。
ちらほらと人の姿も見られるが、夜ということもあってか、かなり静まり返っている。
そんな周りの雰囲気もあってか、凪紗と栞の間に会話は殆どなかった。
ゆっくり歩き、建物をじっくり見ながら小さく感想や思ったことだけを零す。
会話こそ少なかったが楽しんでいない訳ではなく、この静かな雰囲気を楽しんでいるのだ。
多くの鳥居を潜り、後は千本鳥居だけとなった。
次の角を曲がれば見えてくるというところで、不意に栞が足を止めた。
「栞? どうかしたか?」
『ちょっとやりたいことがあるから凪君は先に行っててくれる?』
「別に待ってるけど……」
『いいからいいから! 直ぐに追い付けるから』
「――分かったよ。千本鳥居の前あたりで待ってるから」
何をするのか気にはなっていたが、栞がここまで言うので素直に先に行くことにした。
曲がり角を曲がり千本鳥居の前まで来ると栞の姿は完全に見えない。
風呂とか以外で栞がすぐそばにいないのは初めてか? 再会してからはずっとそばに居たんだな……。
若干の寂しさを凪紗は感じながら待っていた。
千本鳥居は他の場所よりも暗く、それが寂しさを感じさせる原因でもあったかもしれない。
栞がやってくるであろう方向に顔を向けるが、やはり暗い為それ程先まではっきりと視認出来ない。
『凪君?』
少し先の方から栞の声が聞こえてきた。
やはり暗いために凪紗のことが見えていないのか不安そうな声色だ。
「栞、こっちだ」
不安そうな栞とは反対に凪紗は安堵感があった。
まだ見えない栞に向けて声を掛けて自身の場所を教える。
時間的には数分だったが、一体何をしていたのだろうと思ったが、その答えは直ぐに分かることになった。
『お待たせ凪君!』
暗がりの向こうから現れた栞は先程までの服から変わり、着物に身を包んでいた。
髪などもそれに合わせてセットされており、とても綺麗に着飾れていた。
『……どうかな?』
凪紗が驚きと栞の綺麗さに見とれて何も言えずにいると、栞は似合っていないのかと不安になったようで控え目に聞いた。
「あ、ああ。とっても似合ってるよ。凄く……綺麗だ」
『そ、そう? えへへ、嬉しいな……』
凪紗が恥ずかしがりながらも素直に褒めると、栞は顔を真っ赤にして嬉しそうに笑う。
「どうして急に着物を着ようと思ったんだ?」
『どうせなら雰囲気を楽しもうと思ってね。さっき思いついて千本鳥居はこの恰好で歩くことにしたの』
千本鳥居を着物で歩く栞は考えただけで絵になっている。
想像するだけではなく実際に見てみたいという気持ちが強く湧いてきた凪紗は、少し歩きにくそうにしている栞の手を引いて歩きだした。
手を握られたことに栞は内心とても驚いたが、同時に嬉しくもあった。
そのまま点々とランプが吊るされた千本鳥居の中を歩いて行く。
静かな空間に下駄の音だけが聞こえる。
まるでこの空間が切り離され、自分達だけが取り残されたのかとも錯覚してしまう。
幻想的な一本道を歩いて行き、やがて終わりに辿り着いた。
『終わっちゃったね』
「終わったな」
抜けると同時に現実に引き戻されたような感じがした。
名残惜しかったが、いつまでもここにいる訳にもいかないので、とりあえず本殿の前まで移動した。
「着物はこのまま着て帰るのか?」
『流石に着替えようかな。動きにくいんだよね』
長い時間は着ていたくないようで、栞は少し疲れた表情を見せていた。
着替えてくるとだけ凪紗に言って、物陰になるような物があるところまで歩いて行った。
その後一分程で帰ってきた栞は今日着ていた服に戻っており、凪紗は少し残念に思ったのだが、それは言わないでおく。
気付けばそれなりに遅い時間になっていたので、今日はこれ以上はどこにも行かずに宿に戻ることにした。
温泉に入り温まったところで布団に入る。
結構な距離を歩いたということもあり、目を瞑ってから意識が無くなるまで時間は掛からなかった。
――――――――――
最終日の朝を迎える。
帰る時間を考慮すると、昨日のように夜まで観光するのは無理なので行く場所を絞る。
候補としては嵐山の方に行くか琵琶湖方面に行くかだ。
別のベクトルで綺麗で悩んでしまう。
凪紗一人では決め切れないので栞にも聞いてみると、嵐山がいいと言っていたので、そちらに行くことにする。
琵琶湖の方面は距離に対して周る場所も少ないので、打倒なところだろう。
嵐山方面も距離的にはかなり離れているので、早めに出て早めに帰ってくることにした。
電車に乗り向かう。乗り換えもあるので間違えないように注意しながら外を眺めていた。
近づいてきて景色も変わる。
山々が並びのどかな雰囲気が漂っている。
電車を降りて息を吸うと、とても透き通っているのがはっきり分かる。
適当に散策しても楽しめると思うので、気ままに歩くことにした。
まず着いたのは法輪寺。
長い階段を上り鏡内に辿り着き上からの景色を眺める。
これから周る嵐山の風景が見下ろせて、楽しみになってきた。
階段で疲れた足を少し休めてから、次の場所に向かうことにした。
嵐山公園を抜け渡月橋を渡る。
橋の上から眺める小川と山々は雄大で、冷たい風を感じながらも立ち止まって見入ってしまった。
そのままの足で宝厳院まで行き庭を眺めて近くにある天龍寺に足を運んだ。
世界遺産に登録されているだけあって情景がとても綺麗だ。
嵐山に来てから何処を見ても景色が良いので、凪紗も栞も言うことが無くなってしまい困っていた。
「語彙力が無いって本当に、なんか、少し虚しくなってくるな」
『……そうだね』
お互いに苦笑しつつ景色を楽しんだ後、昼食にすることにした。
和食テイストの定食を美味しく頂き、まだ行っていない場所のマップを確認してから店を出る。
次にやってきたのは野宮神社。
森林に囲まれた小さな神社だが、それがまた落ち着きを感じさせてくれる。
神石という祈りを込めながら撫でると願いが叶うという、珍しいものがあるので折角なのでお祈りしていく。
栞が可愛い動物を撫でるようにやっていたのを凪紗は温かい目で見つつ、自分の願い事をした。
自身のこれからのことが上手くいくように。旅がこの後も楽しく行けるように。それ以外にもいくつかのことを願った。
一通り終わって、ようやく嵐山の一番のイメージである竹林に向かった。
居た場所からは近かったので、直ぐに辿り着く。
道の左右に分かれて生えた竹の間から差し込む日光が適度な明るさを保てくれていて、竹林の美しさを引き立てていた。
上を見上げても葉が直射日光を遮っているので、安心して眺めることが出来る。
二人は周りの景色のことや、他愛ない話をしながら歩く。
人の心を穏やかにするような独特の雰囲気の場所だからこそ、景色に目を向けるだけでなく、落ち着いた話をする気にもなったのかもしれない。
栞と再会してから、昔のような他愛ない会話というのは殆どなかったので、懐かしい時間を過ごすことが出来たのは、嬉しいことだった。
少しすると前方に建物が見えてくる。
常寂光寺は紅葉の名所だが、やはり時期はズレているので若干寂しい。
それでも立地による雰囲気の良さなどは健在なので、気持ち的には高ぶっていた。
そのまま時間が許す限り周ろうと二尊院、清凉寺、大覚寺と嵐山の名所を見て周り、日が落ちる前に帰ることにした。
『あー、楽しかった!』
帰りの新幹線の中で栞は身体を伸ばしながら満足そうにしている。
「楽しんでもらえて良かったよ。次からは長めに出て県を跨いだ本格的な旅のような形にしようと思う」
『今回みたいな感じじゃないの?』
「今回は修学旅行みたいな感じで楽しんでほしかったんだ」
『なるほどね。確かに修学旅行ってこんな感じなのかなって思ったりもしたなー』
「宿とか食事に関しては難しかったけどね」
『それでも嬉しいな。私は修学旅行って行ったことがなかったから』
凪紗も修学旅行で楽しかったという記憶は無かったが、今回は素直に楽しかったと思えていた。
こうしてみると、物事において気の持ちようや共にいる人物というのは、楽しむうえで大切な条件なのだと分かる。
凪紗は別にクラスメイトが嫌いな訳ではなかったし、特段嫌われていたということもなかったが、楽しむという意味では互いに必要かと聞かれればそうではなかった。
そも、楽しいという感情をほぼ抱かなかったことから考えても、凪紗が本当に必要としていたのはクラスメイトとの青春ではなかったのだ。
「栞……ありがとう」
『? なんで凪君が私にお礼を言うの?』
「なんとなくかな……」
何の脈絡もなく飛んできたお礼に栞は困惑している。
その答えを凪紗は曖昧にしたまま、黙った外を眺めていた。
僕に欠けていたものをくれて、本当にありがとう……。
流れていく景色を眺めながら、凪紗は心の中でもう一度お礼を言った。