凪紗と栞
このページを開いていただきありがとうございます。
『青い日の君と旅をする』を書かせていただきました、ゆき屋です。
初めて書いたジャンルにつき、もしかしたら至らない点もあるかもしれませんが、自分では大変面白い物が書けたと自負しているので、短い作品ですが是非楽しんでいただけたらと思います。
彼女はとても強くとても弱かった。
そんな彼女の強いところを僕は見習いたい。
そんな彼女と同じ弱い人達を救いたい。
自分自身の為の人生はあの時に終わった。
僕はもう救われなくていい。
その分彼女に似た境遇の人達を一人でも多く救おう。
――――――――――
目を覚ました時に一番に映ったのは、今となってはもう見慣れてしまった白い天井だった。
それなりの時間を過ごしていっれば、本来であれば見慣れたくはないものも生活の一部になっている。
感染性心内膜炎という病気に罹った僕はこの病院に入院し、そして手術をした。
感染性心内膜炎は血液を経由し最近が心臓に入り込み、それが心臓内のほんの小さな傷に付着し病巣を作ることによって炎症を引き起こして罹る病だ。
この病は歳を重ねる程発症しやすく、十五歳という年齢で発症した僕はそれなりに珍しいそうだ。
高熱と倦怠感に苛まれ、食欲も湧かずに体重も著しく落ちた僕の身体は、ヒラヒラと舞い散る枯葉のように薄く、手足はゴボウのように細くなっている。
元々細い方ではあるが、今のように病的な細さではない。
腕を眺めていると、まるで別の人間の腕を見ているようにも感じてしまった。
いつまでもぼーっとしている訳にもいかないので身体を起こそうとしたが、力が上手く入らず身体を起こすことが出来ない。
どう表現したものか。身体が押さえつけられているのではなく神経が抜けて身体があるという感覚すら無いような感じだ。
それでも、手術前にあった身体の倦怠感などはなくなっているので、辛いと感じることはなかった。
とはいえ、起き上がれないとは思わなかった。
手術前は逆に起き上がることは出来たし、それなりに辛かったが歩くことも出来た。
仕方がなく顔だけを窓の外に向ける。
時刻は三時くらいだろうか、秋に近づき徐々に日が昇っている時間が減ってきているためこの時間でも遠くの空が若干赤くなってきている。
病院内の気温は常に快適に保たれているが、この様子だと外もとても過ごしやすそうだ。
しばらく何も考えずに外を眺めていると、足音が近づいてきているのに気が付いた。
目を覚まして一番に見る顔は誰のものになるだろう。色々と知りたいこともあるので諸々のことを知っている人物が好ましい。
この空間を隔離するように張られたカーテンが開き放たれると、ここに来てからお世話になっている看護士さんが顔を覗かせる。
「あら?起きたのね。おはよう凪紗君、どこか痛いところとかは無い?」
「だいじょ、ごほ……大丈夫です、身体はまだ本調子とはいきませんが」
声を出そうとした時に咳が出てしまった。その反動で身体に軽く痛みが走ったが、これはただ身体が弱っていてその衝撃に耐えられなかっただけだろう。
予想以上に僕の身体は弱っているらしい。
自身の身体のことを自身はそれほど分かっていないというのを聞いたことがあるが、まさにその通りのようだ。
こんな調子で情けないと僕は思い、出来うる限り身体に力を入れて上体を起こそうとしたが、看護士さんに止められた。
「まだ無理をしてはダメよ、いくら手術が成功したとはいえ体力が回復するわけではないんだから」
「どのくらい寝ていました?」
「三日よ、それだけ寝ていれば身体を動かすのが無理なのは仕方がないわ」
あの手術からそんなに経っていたことに正直驚いていた。
麻酔により意識を手放してから今までずっと意識はなかったが、体感では普段の睡眠と変わらない。それを自覚しているのは身体だけのようだ。
夢も一切見なかったことから深く眠っていたのだ。
まるで、時間が飛んでしまったような状況に戸惑いと、若干の気持ちの高揚がある。
僕の様子に看護士さんは軽く笑っている。
「待っていて、先生を呼んでくるから」
そう言って看護士はカーテンを閉めて去って行った。
一息ついて僕は再び天井を見つめる。
人と話をして、まだ起きていなかった思考が多少クリアになっていた。
クリアになった頭はこの暇な状況を埋めるべく思考を始める。
ここに来てからのことを思い出す。主に出てくるのは、病院という特殊な空間で偶然出会った同い年の、そして同じ病気に罹っていた彼女のことだった。
――――――――――
一月程前、高熱によって意識を失った凪紗は一駅離れた大きな病院に救急搬送された。
発熱で意識を失うなど物語内で体調を崩した時に用いられる分かりやすく表現するための方法だと思っていたが、まさか現実にしかも自分の身に起こるとは、それまで普通に生活していた高校生には想像も出来ないことだろう。
少なくとも凪紗はこんなことがあるとは想像もしていなかったし、そういう話を身近で聞いたこともなかった。
意識が回復して両親と共に検査結果を聞いた。
検査の結果、感染性心内膜炎だと告げられる。
その病名は初めて聞くもので、それだけでは自身がどういった状況になっているのかは分からない。
内心かなり心配だった。聞いた限りだとそれなりに重たい病気のようで恐ろしかったが、凪紗程の歳であれば、他に持病を抱えていたり、相当運悪く悪化しなければ大丈夫だと言う。
少し安心したが、それから辛い入院生活が待っていると思うと憂鬱だった。
続く高熱が歩けないという程ではない身体を動かすことをベッドに縛り付けていた。
ある時、薬により多少熱が下がり好奇心からか院内を軽く見て回っていた。
と言っても病人である凪紗が出歩ける場所など限られている。
入院している部屋のある階層のある一定の隔離空間の中だけを歩くことにする。
粘膜接触を避けていればほぼ他人に移すことはない病気なので、ある程度の自由はあったが、凪紗自身が不用意に歩くことを避けていた。
特に面白い物も無い病院の中を歩いていると、院内に設けられたフリースペースのようなところが目に付いた。
椅子とテーブルが置いてあり、雑誌や本なども種類はそこまでないが置いてある。
床屋等の待合室を思い浮かべてくれれば分かりやすいだろうか、最低限の時間を潰す為の場所だろう。
そんな場所に凪紗と同じくらいの年齢に見える女の子が一人静かに本を眺めていた。
別に特別なことではないが、凪紗の心境も相まってか何か特別な光景でも見ているかのような感覚があった。
それはそこにいる女の子の容姿も関係していたのかもしれない。
長い黒い髪から覗くその顔は幼い可愛さから、綺麗になろうかといった感じでとても整っている。
いい感じに日の差す場所に座っており、まるで一枚の絵画のように様になっていた。
凪紗は何かに引き付けられるようにその女の子に足を向けていた。
その女の子はかなり真剣に本を読んでいるようで、近づいてきている凪紗に気付いている様子は無い。
目の前まで行っても気付いていないのか顔を上げないので、凪紗は思い切って声を掛けてみることにした。
「君もここに入院しているのか?」
面識のない女の子に声を掛けるなんて普段の凪紗であれば絶対にしないことだった。
ましてやこんなに馴れ馴れしく。いや、普段こんなことをしないからこそ馴れ馴れしくなってしまったのかもしれないが、何故か気になって声を掛けていた。
話しかけてからそんな行動に出たことを自覚して凪紗は途端に恥ずかしくなってくる。
せめて敬語で話しかければ良かったと今更ながらに後悔するが、出てしまった言葉を取り消す術はない。
女の子は凪紗に突然話しかけられたことに一瞬きょとんとした顔をした。
それもそうだろう、凪紗と女の子に一切の接点は無いのだ。知らない人から突然話掛けられれば驚くのも無理はないことだった。
しかしそんな表情も一瞬で、女の子は直ぐに小さく笑顔を見せた。
「うん、感染性心内膜炎っていう病気でね。……君は?」
女の子の言葉を聞いて驚いた。
まさか自分と同じ病気の名前が出てくるなんて思ってもいなかったからだ。
聞いたこともなかった病名を立て続けに聞くことになるとは、予想することは出来ないだろう。
女の子は身体ごとこちらに向き直る。
かなり無茶苦茶な入りだったが、こうして話す姿勢を整えてくれている辺り、それ程問題にはならなかったのだろう、凪紗は安心して椅子に座ることにした。
凪紗は改めて女の子の表情を見る。
熱や倦怠感で辛いはずなのだが、辛そうな表情はしていない。
しかしよく見ると肩で息をしている。一見大丈夫そうに見えるが、表に出さないようにしているだけだと凪紗は理解できてしまった。
凪紗自身いくら出歩けると言っても辛いことに変わりはない。
同じ病気でも症状の大小はあるので一概に共感することは出来ないが、多少は通ずることもあるので凪紗は妙な親近感が湧いた。
「それが……僕も感染性心内膜炎なんだ」
凪紗の言葉にその女の子は驚いたような顔をした。
「驚いた、まさか同じ病気になった同年代の人がいたなんて。ねえ君、名前はなんていうの?」
「白崎凪紗だ。君は?」
「私は桜木栞だよ! よろしく凪君!」
やはり同じ病気ということもあってか栞も親近感が湧いたようで、直ぐに表情が柔らかくなった。
初めて見た栞の笑顔はとても綺麗で、凪紗の心を掴むにはやりすぎなくらいに輝いたものだった。
顔が熱くなり何とも言えない不思議な気持ちが込み上げてきて、凪紗はたまらず顔を逸らす。
目を真っすぐに合わせえると上手く言葉が出なくなってしまう気がした。
急に来た自身の感情の変化を一旦落ち着くために深く呼吸をする。
まだその気持ちが何なのか凪紗は自覚出来ていなかったことが幸いしてか落ち着くまでに時間は掛からなかった。
「あー、桜木さんは僕と歳が近いように見えるけどいくつなんだ?」
「ふふ、別にさん付けなんてしなくてもいいよ。普通に栞って呼んで? 私は十五歳だよ! 今年から高校生」
どうやら凪紗と栞は同い年だったようだ。
栞と呼んでと言われたが、初対面の相手をいきなり名前で呼ぶのは凪紗にとっては些かハードルが高い。
だがそれを望まれてる以上名前で呼ばないわけにはいかなかった。
心情を悟られないように、凪紗は気を付けて話すことにする。
「まさか歳まで栞と同じだとは思わなかったよ。僕も今年から高校生なんだ」
「あれ? でも高校って別に十五歳から入るってわけじゃないよね。鯖読んでる可能性も……」
「え、いや僕は十五歳だ。もしかしてそんなに老け顔に見えるか?」
栞の言葉に凪紗は焦ったように言う。
凪紗は確かに童顔という程ではなかったが、高校生だということを疑われる程老け顔だとも自身では思っていない。
それでもそう言われてしまうとそうなんじゃないかとも思えてきてしまう。
凪紗の焦った様子を見て、栞は耐えられないといった様子で笑い出した。
「なんてね冗談だよ。別に凪君は老け顔なんかじゃないし疑ってもいなかったよ。少しからかってみただけ」
「……なんだ、焦らせるなよ」
「ごめんごめん、なんか凪君の顔を見てたらからかいたくなっちゃって」
舌を軽く出していたずらっぽい笑みを浮かべる栞はとても可愛らしく、怒り気は微塵にも湧いてこなかった。
何だかんだで凪紗と栞は仲良くなり、それからほぼ毎日同じ時間にこの場所で会うようになった。
何かをするわけでもなく、他愛ない話をして別れる。
病院という限られた空間の中でこの時間だけはとても楽しく、心安らぐものだった。
それだけではなく同じ病気を抱えているというのもあってか、どこかお互い支えあっているような励ましあっているようなそんなところもあったのかもしれない。
少なくとも凪紗は支えられていた。
今まで体験したことのない重い病気に罹り、一人でベットの上で過ごしていた光景を想像すると恐ろしいとさえ感じる。
別に一人でじっとしているのが恐ろしい訳ではない。
その状況が自身の意図したことではないからそう思うのだ。
実際、少し前まではそんな状況だっただけに、かなり確信を持てる想像だった。
口に出すのは恥ずかしいので、凪紗は心の中だけで栞にそっと感謝する。
ある日、栞は何やら本を広げて真剣に読んでいた。
初めて会った日と同じような本。あの時は気が付かなかったが、それは色んな地域の旅行雑誌だった。
テーブルの上には他にも旅行雑誌が置いてあるが、特定の県のものではなく全くバラバラに色んなものがあった。
凪紗も本はそれなりに読む方だが、旅行雑誌を好んで読むことは無い。
今読んでいるのは福島県の雑誌のようだ。
開かれているページには一枚の写真が掲載されており、見てみると大きな桜の木だと分かる。
栞の苗字にもなっている桜の木には何か特別な想いでもあるのかもしれない。
あまりにも真剣に読んでいるので流石に声を掛けずらかったが、タイミングよく栞が顔を上げたため気付いてもらうことが出来た。
「やっほー凪君」
「なんで旅行雑誌なんか真剣に見ていたんだ?」
「あ、それは……」
いつものような元気な様子で挨拶をしてきた栞だったが、凪紗の質問に表情を沈ませてしまう。
何か聞いてはいけないことを聞いてしまったようで申し訳ない気持ちになると同時に、いつも元気そうな顔をしている栞にこんな表情をさせてしまった自分を責める気持ちが凪紗の中に湧いてきた。
とても真剣に見ていたので、それに準じたプラスな感情を抱いていると凪紗は考えていただけに安易に聞いてしまったのだ。
「いや、ごめん。言いずらいことなら無理に言わなくていい」
咄嗟に謝ると栞は少し伏せていた顔をあげた。その時の表情は沈んだものとは打って変わりとても嬉しそうだった。
しばらく会っていて思ったが、栞は表情がころころ変わる。感情が先に顔に出るタイプのようだ。
「ふふ、凪君は優しいね。私、凪君のそういうところ好きだよ」
栞は突然そんなことを言い出した。
好きだなんて突然言われた凪紗は顔が熱くなるのを感じる。
無論恋愛感情的な意味合いで言ったのではないと分かってはいるが、それでも嬉しかったのだ。
勢いあまって変なことを口走らないように凪紗は理性で必死に自分を押さえつける。
「そういえば凪君には言ってなかったね。何で言っていなかったのか不思議なくらい……」
そんな凪紗の心情を知らない栞はこれまであまり語らなかった自分のことについて話してくれた。
栞は生まれつき身体が弱く、定期的に体調を崩しては入院するというのを繰り返していた。
もちろんそんな状態の栞は満足に遊ぶことも出来ず、ましてや旅行なんて今までで一度も行ったことがないのは考えなくても察することが出来る。
一つの病気を乗り越えてある程度体力が戻っても、また別の病気に苛まれる。
そんな日々を送る中、栞は自分が見に行くことのできない世界に対する憧れだけは増え続けた。
憧れは夢となり、栞は身体が良くなったその時には色んな場所を見て回ろうと考えたのだ。
健康な人達からすればなんてことのない夢だが、栞にとってはとても大きく、そしてどこまでも難しい夢だった。
「いつか旅行雑誌で紹介しているようなところに実際に行って沢山の思い出を作るの。そうすれば今まで私が戦ってきた意味が出来るのかなって、そう思うから」
「叶うといいな……その夢が」
「うん!」
この日から凪紗も栞と一緒に旅行雑誌を見るようになった。
夢を膨らませ夢を語る栞は何よりも輝いており、意図せずとも共にいる凪紗にも確かなものを与えていた。
凪紗は栞の夢を自分が叶えたいと、自信が広い世界に連れて行ってあげたいと夢に想うようになった。
しかしそんな楽しい時間も長くは続かない。
徐々に体力も落ちて、身体に重たいものが伸し掛かってくるようになる。
出歩くだけでも身体に大きな負担が掛かり、それに応じて減った体力も直ぐに限界が来てしまう。
それでもお互いに辛そうなところなど殆ど見せずに、会って話す毎日を楽しんでいた。
いよいよ手術が迫ってくるといったところで、凪紗と栞は最後にいつもの場所で会っていた。
身体はいよいよ限界が来ており、いくら隠そうとしていても目に見えて辛そうな様子を二人は見せていた。
「もう会えなくなるね」
「また元気になって会えばいいさ」
いつになく弱気な栞を元気づけるように凪紗は言葉を繋ぐ。
これには凪紗の個人的な願いも入っていたかもしれない。ただ単純に今後もこうして栞と会って話していたかったのだ。
栞はそれを聞いてにっこり笑ったので、凪紗は少し安心感を覚える。
「凪君は初めての手術だよね?何か聞きたいこととかある?」
「そうだなあ……こうしておいた方がいいみたいなことってあるか?」
「んー、気持ちかなー。負けないぞ!っていう気持ちが大事!」
「……まあ気の持ち方は大事か」
病は気からという言葉もあるくらいだ、オカルトチックな部分はあるかもしれないが覚えておこうと凪紗は心に刻む。
それに栞と夢を語る日々が凪紗に勇気をくれていた。今ならば何でも乗り越えられる気さえしていた。
「それじゃあまた」
「……うん」
お互い体調も良くないので長話はやめてこの辺で別れることにする。
どの道手術が終わればまた会える。ゆっくり話すのはその後でも出来ることだ。
今は体調を整えて万全の状態で挑むことが大事だろう。
病気に負けるとは微塵にも思わない凪紗は、身体は重いが気持ちは軽くあることが出来た。
「――頑張って」
小さく呟くように言った栞の言葉は、病室に戻っていく凪紗の耳には届かなかった。
――――――――――
栞はどうしているのだろう。
無事に手術を乗り越えた今考えるのはそれだった。
今すぐにいつもの場所に行きたい気持ちはあったが身体が思ったように動かないのであれば仕方がない、体力をある程度戻すのが先になるだろう。
何とももどかしい感じだった。
やがて目を覚ましたという報告を受けて両親がやってきた。
二人とも辛くはないか、どこか痛いところはないか等何度も聞いてきた。
ここまで心配をかけてしまったことに申し訳ない気持ちが湧いてくる。
凪紗自身も心の中ではやはり不安だったのかもしれない、両親の顔を見るとどこか安心した。
しかしいつまでもこの調子ではあれなので両親に落ち着くように言う。
その後少ししてから凪紗を見てくれている医師がやってきて、そのまま両親と共に手術のことや容体のことを詳しく聞くことになった。
手術は成功、後は再発を防ぐ為に薬での治療を行い血液検査で問題ないという結果が出るまでは入院が必要等、丁寧な説明を受ける。
まだ熱などは続くそうだが、凪紗くらいの年齢で他に持病等もないなら余程のことがない限りは大丈夫だそうだ。
手術を乗り越えたということもあってか、かなり気持ちも軽く気が抜けた感じだ。
早く体力を戻して栞に会いたい。そんなことを思いながら、重たい身体を休ませることにした。
二週間が経ち、ようやくそれなりに身体が動かせるようになった。
病院の関係者達からはやはり若いですねと言われるが、正直どう捉えていいのか分からない。
細かいことははっきり言ってよくわからないが、体力が戻るにつれて体調も良くなってきている気はしていた。
気の持ちようもあるだろうが。
楽しみなことがあるというプラスな思考がどれ程影響を及ぼしているのかは実際には分からないが、こういってはアレだが経験が多い栞が気持ちが大事と言っていたので、何かしらの恩恵を身体にもたらしているのは間違いはなさそうだ。
本日の検査の時間になった。
大した量ではないが血を抜かれるのはいい加減嫌になる。
もちろん自分の為だと分かってはいるが、それとこれとはまた別の話だ。
少しずつ抜かれていく自分の血を見ていると、鳥肌が立ちそうになる。
あまり痛くはないが変な感じを覚える注射を終え、病院の先生がこちらの顔を覗き込む。
「かなり顔色が良くないましたね。大丈夫そうであれば少しなら歩いてきてもいいですよ」
遂に待ち望んだ言葉を聞くことが出来た。
あまり喜んだ様子を見せるのも恥ずかしかったので平静を装うが、内心は今すぐに飛び出していきたい程だった。
何を話そうか、凪紗はそんなことばかり考えてしまう。
ただ、栞がまだ出歩ける状態かどうかは分からない。
元々身体が弱いと聞いていたので、その後の経過次第ではまだ会うのは先になるだろうと冷静になって考えるが、会いたいという衝動は胸の中に荒々しく渦巻いていた。
そしてようやくはっきりと心の中で口にする。
栞が好きだと、どうしようもなく栞のことが好きになってしまったのだと。
流れるような綺麗な髪と大きな瞳で見せる眩しい笑顔、感情がすぐ顔に出るところや稀に見せる茶目っ気な部分。
もし出会い方が違っても栞のことを好きになっていたと疑わない。
はっきりと意識し栞との日々を思い出すだけで胸の鼓動が自然と早くなる。
退院するまでにこの気持ちを伝えたい。
そう思い立ち上がる。
別に今すぐ伝えようと思った訳ではない、単純に早く会いたかっただけだ。
凪紗のそんな気持ちを無視するかのように視界が揺れる。
急に立ち上がったせいで強烈な立ち眩みが襲ってきたのだ。
冷や汗が出た。しばらく寝たきりだったのだから当然の結果なのだが溢れ出る感情の前にそんなことを考える余地が無かった。
立ち眩みが収まるまで壁に手を付き無理には動かない。
ここで無理をして万が一があっては、会えるものも会えなくなってしまう。
十秒程が経ち、立ち眩みが収まってくる。
完全に収まったところで軽く頭を振り久々の一歩を踏み出した。
久しぶりに歩いたがとても身体が重く感じて、まるで自分のものではないように感じてしまう。
やはり無くなった体力や筋力はそう簡単には戻らないようだ。
それでも前に進む足が止まることはなかった。
いつもの場所まではそれほどの距離は無い、それでもかなり時間がかかったように錯覚する。
それは病室からここまで来るまでの時間ではなく、手術後から動くことの出来なかった空白の時間があったが故だろう。
あの日々に比べてしまえば、例え何か別の出来事があったとしても色褪せて感じていたはずだ。
適度に日が差し快適な気温が保たれている栞の特等席に彼女の姿はなかった。
凪紗もこの結果は予想していたが、少し気落ちしてしまいそうになる。
だからといって会いたいという気持ちは抑えきれない。まだ来てないだけかもと思うようにしてしばらく待ってみることにした。
窓際に座り、空いた窓から外を眺めると学校帰りの学生達が楽しそうに談笑しながら歩いているのが見える。
凪紗は元々友達とあまり騒いだりするタイプではない。
友達がいないわけではないが、青春を謳歌するといった表現が似合うような学校生活は送っていなかった。
無論、眩しい青春というものに興味が全く無い訳ではないが、なまじ頭の回転も良く、色々と余計なことまで考えてしまう性格のせいで人間関係の面倒臭さ等について深く考えてしまう。
そういった煩わしさを含めると、他人に対してどうしても一歩踏み込むことが出来ないでいた。
それでも学校は楽しいし早く復帰したいとも思うのは嘘ではない。
栞はどうなのだろうと考える。
定期的に入院を繰り返している栞は青春というものを送ることは出来ているのだろうか。
大人達は学生時代が人生の中で最も楽しい期間だとよく言っている。そんな大事な期間を病気に邪魔されて苦しくはないのだろうか。
答えなど聞かなくても分かるだろう、苦しいに決まっている。
普段は笑顔が絶えない栞だが、心の奥にしまいこんでいる見せない苦悩は必ずある。
これが凪紗であれば恐らく耐えられない。
もし栞が病気も何もない健康体で普通に学校に通えていたら、凪紗とは違い周りには人が溢れているのが容易に想像出来た。
整った容姿に気軽に話しかけれそうな雰囲気、積極的な人付き合いをあまりしない凪紗に対しても気持ちよく話し掛けてくれることだろう。
凄くモテてイケメンの彼氏がいて青春を謳歌しているという表現がとても似合う。
だが、こんなこと思ってはいけないと分かってても少し嫌だと思ってしまう。
恋愛は辛いというけど本当にその通りなのだと、今の凪紗であれば理解することが出来た。
病気が良くなって青春時代を過ごしてほしいと思うし、病気が良くなれば僕が色んな場所に連れ出してあげたいという気持ち。
表裏一体のこの感情をどう処理すればいいか、凪紗には分からなかった。
旅をして色んな景色を見たいと栞は言っていた。
凪紗には夢と言える程のものは何もなかった。
何も目標が無く盲目的な日々を消化して、そんな自分が栞にしてあげられることなどあるのだろうかと、あんなに眩しく夢を語る栞の近くにいる資格があるのかと。
凪紗は自分と栞を比べて、その違いを明確に理解しているだけにどうしたらいいのかに関してはどんどん分からなくなっていった。
凪紗が多くのことを考えていると徐々に日が落ちてきていた。
長らく思考の海に身を沈めていたが、結局栞は来なかった。
仕方がないと諦め、凪紗は病室に戻ろうと立ち上がる。
そこにタイミングよく看護士が通りかかった。
今後無駄足になっても嫌だったので栞のことについて聞いてみることにする。
知っているか、教えてもらえるかは分からないが、どうしても気になってしまった。
「すいません、少しいいですか?」
「大丈夫ですよ。どうかしましたか?」
「ここに入院している桜木栞さんはどうしているか、話して大丈夫なのであれば教えていただけますか?」
そう聞いた凪紗に対して、看護士は心なしか苦虫を噛み潰したような表情をする。
嫌な予感がした。手汗が溢れ、反対に喉が乾燥するが声を絞り出す。
「もしかして何かあったんですか?」
焦っているような口調になっていたかもしれない。
だがそんなことを気にしている余裕は凪紗にはなかった。
この不安がただの杞憂であってくれと、祈るようにその後の言葉を待つ。
「栞ちゃんのお友達の方ですか?」
「……いえ、何というか。この場所で偶然知り合って」
「なるほど……君が凪君ね?」
どうやらこの看護士は凪紗のことを知っているようだ。
面識はなかったが、何処で凪紗のことを聞いたのかは凪紗の想像通りだろう。
納得した様子の看護士は真剣な顔で凪紗を見つめる。
「栞ちゃんは、その……亡くなられました。2週間程前のことです」
「え? 亡くなった?」
突然の宣告に凪紗は頭が真っ白になり、身体から力が抜けて立っていられなくなった。
栞が亡くなった? あんなに元気に笑っていたのに?
無論そんなのは無理していたからだとは元々分かっていた。しかし凪紗にそんなことを思い出せる程の冷静さはなかった。
看護士は栞ちゃんは頑張ったんだけど身体の方は限界でなどと色々なことを言っていたが凪紗の脳はその言葉を処理することを拒んでいる。
表情とは裏腹にあっさりと告げられた現実を、どう受け止めるのが正解なのか。
抜け殻のようになった凪紗は連れられるがままに病室に戻ることしか出来なかった。
――――――――――
一日ゆっくり寝て、ある程度落ち着いた。
落ち着いたといっても心の中に渦巻く感情や喪失感が無くなったわけではないが、単純に物事を考える余裕、思考力が戻っただけだ。
逆に思考力が戻ったことによって栞が死んでしまったことに対する悲しみの感情は大きくもなっていた。
ショックによって頭の中が真っ白になり何も考えられなくなるのは人の持つ一種の自己防衛なのかもしれない。
昨日は涙一粒出なかったのに、今は思い出せば思い出す程涙が溢れてくる。
過ごした時間は短いものだったが、凪紗の中では人生で一番濃密と言っていいほどの日々だった。
僕は栞のために何をしてあげられただろうか……、人生で初めて好きになった相手に僕は何もしてあげることが出来ていなかった。
楽しい話題を提供してあげれてたわけでもない、心の支えになれていたとも思えない。
何よりも栞があそこまで夢に見た様々な光景を見せてあげることが出来ていない。
僕はこんなにも病気の不安を支えられ幸福な時間をもらったというのに……。
自分の不甲斐なさや栞への思いは決壊したダムの水のように次から次へと溢れ出てくる。
泣きすぎて手足が痺れるような感覚が襲う。息も苦しい。過呼吸を起こすほど泣くなんて少し前の自分からしたら考えられないことだった。
そんな凪紗の様子に気付いた看護士が慌ててやってきて透明な袋を手渡してくる。
この中で大きく息をしてくださいという言葉に盲目的に従う。
息苦しさは無くなったが、涙は一向に止まることはなかった。
一時間程泣き喚きようやく落ち着くことが出来た。
「すいません、ご迷惑をお掛けしました」
凪紗が泣いている間、看護士はずっとそばにいてくれた。
仕事と言われればそれまでだが、どうしようもないときに近くに人が居てくれるのはありがたいことだ。
「いえ……落ち着きましたか凪紗君」
「はい。……それで、栞のことについて詳しく聞くことって出来たりしますか?」
聞いても辛くなるだけなのは分かっている。それでも栞のことで目を背けるのは絶対に嫌だった。
これは凪紗なりの矜持だったのかもしれない。
何もしてあげられなかったと考える凪紗だが、それでも栞を好きだったのだと。自分の中に少しでも栞のことを残そうとする意地でもあったのかもしれない。
「それについては私からは何とも言えないわ。――少し待っててね」
看護士はそう言い残して行ってしまった。
何か確認でも取るのだろうか、いずれにせよ凪紗には大人しく待つ以外の選択肢はなかったが。
五分程で看護士は戻ってきた。
もう確認が取れたのだろうか。そう思って凪紗は顔を向けると看護士以外にも誰か来ているようだった。
普通に考えれば栞のことを担当していた医師だろうが、どうやらそうでもないらしい。
「お待たせ凪紗君。少し、君と話したいという人達を連れて来たわ」
「こんにちは。君が凪紗君ね」
「えっと、こんにちは」
挨拶してきたのは全く面識のない女性だった。
事の流れからどうしてこの女性が現れたのだろうかの不思議に思う。
話があるとのことだったがどんな話だろうか。
少々困惑していると、その女性の後ろから更に面識のない男性が顔を覗かせた。
まさかこの人達は……。
何となく予想がついてしまった。
その予想を裏付けるかのようにその女性は言葉を繋げる。
「いきなりごめんなさい。娘がとても楽しそうに話していたものだからどうしても一度会って話しておきたくて」
「もしかして栞……さんのご両親ですか?」
女性は肯定するように頷く。
おもわず身体が強張ってしまう。まさか栞の両親が出てくるとは思ってもいなかったからだ。
「あなたと出会ってからの栞はとても楽しそうだったわ。だから、とても感謝している」
「いえ、僕は感謝されるようなことはなにも……」
「もしあなたがそう思っていたとしても私達も、そして栞も感謝しているわ」
本当に栞はそう思ってくれていたのだろうか。
凪紗は自分ではそう思うことが出来なかった。
「栞はどこかで覚悟している様子だったわ。――手術前栞は私に言ったの「もし私に何かあったら凪君には何も隠さずに話してあげて。これは私の我儘。凪君は辛い思いをしてしまうかもしれないけど」ってね」
栞はそこまでの覚悟をしていたのか。
いや、今思い出してみれば最後に会ったとき彼女はもう会えなくなるねと僕に言った。何で気付けなかったんだ。
凪紗はまた会えるなどと、何も考えずに栞に言葉をかけた。
あの時自分が栞の言葉の真意をしっかりと理解していれば、もっと違う言葉をかけることが出来たのではないかと後悔が生まれる。
結局、僕の短絡的な考えで言いたかったことも何一つ伝えることが出来なかったのか……
「栞の最後の我儘、聞いてくれるかしら?」
「――僕なんかにそれを聞く権利は……いえ、せめて最後の我儘くらいは聞きます。それが栞さんの望んだことであれば」
「ありがとう凪紗君」
栞のお母さんは、まず栞の置かれていた状況を教えてくれた。
小さい頃から身体が弱かったのは凪紗も知るところ。
軽い風邪程度の元から入院が必要なものまで定期的に罹り、それに伴う勉強の遅れなどを取り戻すのも大変だったらしい。
軽い風邪程度と言っても栞の身体にとってはとても辛いもので常に薬も持ち歩いていたようだ。
季節の病に関しても、常に何かしらの薬を服用していたせいで予防接種を受けることが出来ない。
新たな病気に罹るたびにボロボロになっていく身体。医者からももう厳しいかもしれないと言われていた。
そこに重なるように感染性心内膜炎になってしまった。
「自分のことは自分が一番分かっているというけどその通りね。栞が覚悟を決めているなか私はどうしてもその覚悟が出来ずに栞に言葉をかけていた」
「そんな大きな覚悟なんて……普通は出来ませんよ」
「そうね……でもしなくてはいけなかった。私は親としてその立場にあるし、全てを見届けないといけないから」
結局覚悟が出来ていたのは栞だけだったのだ。
「本当に強い子だったわ。怖くて震えて泣き喚きたいはずなのに最後まで笑っていたのですもの」
何故栞はそこまでの気を持っていられたのだろう。
それに比べ僕はもう栞と会えないと思うと苦しくて、辛くて。笑顔などもう浮かべられそうにないのに。
「笑顔は凪紗君の話をするようになってから増えたように思うわ。毎日どんなことを話したか、嬉しそうに聞かせてくれた・――本当だったら折れていた栞の心をあなたが支えていたのかもね……」
栞は出会った時から弱いところはほぼ見せなかった。もし僕と出会ってなくても彼女は最後まで自分の足で立っていただろう。
「栞のお墓の場所は決まったら教えるわね。あの子も凪紗君が来てくれたら喜ぶだろうし」
「ありがとうございます。必ず足を運びます!」
「あとこれ――うちの住所。何か困ったことや聞きたいことがあれば訪ねてきて。栞に出来た唯一のお友達の力にはなるべくなってあげたいから」
紙に住所を書いて僕に渡すと最後に両親ともお辞儀をして帰っていった。
身体の力が一気に抜けそのままベットに身を預ける。
今日一日で凪紗の身体を埋めた感情の嵐と栞の両親の言葉。考えることや整理することは多いがもう頭は働いてくれなかった。
体力の戻りきらない身体は既に疲れ果てていて自然と瞼が落ちてくる。
無くなりつつある意識の中、凪紗は一つの決意を決めた――
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気温が程よく暖かくなってきた。
春が近づいてきている証拠だ。
勉強ばかりの日々が長いこと続いたが、ようやく肩の荷が多少降りた。
医者になると決めてから一心不乱に勉強を続けてきて、都内の有名大学の医学部に合格してからもしばらく凪紗は勉強を辞めることが出来なかった。
自分の頭の出来がいい方とは凪紗は全く思っていない。
そう自覚があるからこそ、今後のことを考えると手を休めることが出来なかった。
一心不乱に勉強を続けてきている内に、高校生らしさというか……凡そこの歳で持ち合わせているだろう心の大切な部分が削られていくようだった。
表情にはあまり感情が浮かばなくなり、ここ最近は笑うことが殆ど無かった。
確かな意志の元に選択した凪紗自身の進路に、両親は心配しつつ止めることだけはしなかった。
二月に入り、大学入学に向けた準備は殆ど終わっていた。
自由登校になってからも勉強を続けてきたが、ここに来て少しは身体を休めるようにと両親に言われる。
大学に入ってからはもっと無理をするだろうと自分では分かっていた。だからこそ両親に従って、今だけは軽い勉強だけに止めて休むことにしたのだ。
ただ、いざ休むとなると何をしたらいいのか分からなくなってしまった。
凪紗の高校生活は青春とはかけ離れたもので、友達と遊ぶといったことも絶っていた。
一度でも甘えが出てしまえば、この張りつめた心が緩んで戻れなくなってしまいそうで怖かったのだ。
どうしようか一日悩んだ挙句、とある場所を訪れることにした。
他の場所とは隔離されたような雰囲気が漂っているが、多少の自然とゴミ一つ無い場所。
墓地である。
栞の両親から事前に聞いていた霊園に初めて来ることにしたのだ。
今まで来ていなかったのは決して忘れていた訳ではない。
栞のことを忘れたことなど凪紗は一度たりとも無い。
ただ、栞に会いに来る勇気が出なかったのだ。
今の凪紗は栞に胸を張って会えるような生活は送っていない。
楽しい思い出話を出来る訳でもない。
そんな自分が会いに行ってもいいのだろうかと、そんなネガティブな感情ばかりがずっとあった。
正直、来ることを決めたことに自分でも驚いているが、決めた以上は逃げずに会っていこうと決心した。
広い敷地内を歩いていくと、直ぐに栞の元にたどり着くことが出来た。
その前で何もせずに立ち尽くす。
来る前は自分がどのようになるか想像出来なかったが、実際に来てみると驚くほど落ち着いていた。
「久しぶり。来ることが出来なくてごめん」
自然と言葉が零れていた。
「僕の高校生活は終わったよ。栞に胸を張って言えるようなものではなかったけど……」
話すことなど何も考えていなかったのに文字通り零れていく。
「僕は前に栞が普通に学校に通っている姿を想像したことがある。――栞は高校でも輝いていて、友達もたくさんいて、男子にも人気があって」
いつだか思い描いた日常が脳裏を過る。
「僕と栞は同じ高校に通っていて。でも栞の輪の中に僕はいなかった」
例え栞と出会っていても出会っていなくても、自分自身の青春時代に大差はなかっただろうとも思う。
「今の僕を見て栞はどう思ったかな……。呆れたかな、怒ったかな。大事な時期を他人との関係を断って過ごしたことに」
いくら勉強をしていたとしてももっとやりようはあったはずだ。
友達作りも遊びも、自分と同じ道を目指している他の人達も全く断って過ごすことなんてしているとは思えない。
「それでも決めたんだ。栞が青春を過ごせなかったのなら僕もそれを捨てて、その代わりに将来栞と同じ境遇の人達を救おうって。だから……栞を言い訳にさせてくれ」
逃げるような、懺悔するような言葉しか出てこない自分に嫌気が差す。
「僕は、きっと長生きは出来ない。医者を目指している僕が言うのもおかしな話だけど、こんな生活はどこかで必ず身体が耐えられなくなるから」
こんなことは誰でも分かるだろう。
知識など無くたって、無理を続けていればその未来など容易に想像出来てしまう。
「僕がそっちに行くまで待っててくれ。そしてまた会えたら沢山怒ってくれ」
それまではどんなに苦しくても頑張るから。
祈るように目を瞑って心の中で言った。
『そこに私はいませんよー』
ハッとして振り返る。
透き通るように綺麗なその声は、忘れるはずもない聞き覚えのある声だった。
「――え?」
流れるような長い髪に今の季節だとまだ肌寒そうな白いワンピースを着た女の子。
その顔には初めて会ったときに見せていた、いたずらっぽい笑顔を覗かせていた。
「栞……」
『やっほー! 久しぶり凪君!』
そこにはあの頃と何も変わらない栞の姿があった。
いや、あの頃に垣間見えた身体が辛そうな様子が全くない。正真正銘元気そうな様子を見せていた。
無理のし過ぎで幻覚でも見ているのだろうか。
頭を振り目を瞑り頬を叩いてみたが、栞は確かにそこにいた。
まあ、そもそもこの程度で幻覚が治るとは思っていないが。
凪紗のそんな様子を見て栞は膨れて少し怒った様子になった。
『ちょっと凪君? 流石に酷いんじゃない?』
「え? あ、ああ。いやでも……」
『まあ無理もないとも思うけど』
「どうなってるんだ……」
『そんな凪君に答えを教えてあげる。――私……、幽霊になっちゃいました!』
言い放った栞は何故か得意気だった。
勿論そんなこと簡単に受け入れられるわけがない。頭の中は酷く混乱していた。
『ごめんね凪君。死んじゃっても凪君に会いたくなっちゃったみたい』
「いや、それは嬉しいけど……そんな望んで幽霊になれるものなのか? というか本当に幽霊なのか?」
『最後に思ったことが凪君に会いたいだったから、それしか考えられないんだよね。あと幽霊かどうかだけど、実際のところは私にも分からないんだ。でも状況からしたらね……』
栞自身も多少困惑しているようだった。
「自我? があったのはいつからだ? というよりもこうして出てこれるようになったのはいつからなんだ?」
『ずっとほんわかしたような何とも言えない感覚だった気がする。眠りは浅いけど夢を見たり何かを考えたりは出来ない感じ。それが凪君の声を聞いた瞬間一気に目が覚めた、みたいな?』
「つまり今の今までは何も出来なかったと」
『そんな感じ! 訳が分からないよね」
想像出来るような栞の説明で更に頭がこんがらがる。
混乱はしているが、一度冷静になり考えてみることにする。
栞が実は生きていたという可能性はまず無いと思う。仮にもそんなことがあれば栞のご両親から何かしらの連絡が来ているはずだ。
ダメだな。あり得ないことだと分かっていても幽霊になったこと以外の可能性が思い浮かばない。
心身を削りながら勉強したことにより凪紗にはかなり多くの知識が備わっていたが、幽霊のようなオカルト方面のことは流石に調べてこなかった。
例えそれなりに調べていたとて簡単に納得出来るかは怪しいところではあったが。
凪紗はこれ以上考えても仕方がないと割り切り、栞が幽霊であることを認める。
逆に認めてしまえば凪紗にとっては嬉しいという感情しかない。
あんなにも想った栞とこうして再開することが出来たのだ。
大した言葉も掛けられず、何一つも伝えられずに別れが来てしまったのだ。そこには果てしない後悔の念しか生まれない。
やり直しではないが、また始めることも出来るだろう。
更に凪紗は確信は無かったが、あの頃の栞には無かったものが今であればあるのではないかと直感的に思った。
「一先ず栞が幽霊になったことは納得したよ。――それで、体調はどうなんだ?」
幽霊に体調の良し悪し等あるのかは分からないが、凪紗はどうしても聞いておきたかった。
結局のところ2人の関係と行動はこの一点により変わってくるからだ。
『……信じられないくらい身体が軽いよ。幽霊だからってこともあるかもしれないけど』
「っ!? そっか……よかった」
「え? 凪君!?」
栞のその言葉を聞いた凪紗の頬には涙が流れていた。
だが、無理もないだろう。短い時間ではあったが栞の苦悩を知って、栞の夢を願っていたのだ。
突然泣き出した凪紗を見て栞は困惑する。
『なんで泣いてるの?』
「ごめん……嬉しくて」
『もー、何かあったんじゃないかって心配になるよ。でも、ありがとう凪君。やっぱり優しいね!」
栞の柔らかい微笑みを見て鼓動が早くなる。
ああ、やっぱり栞が好きだ。
もうこの場で気持ちを伝えてしまおうかと一瞬思ったが、それはしない。
凪紗の中にある自己嫌悪がそれを許さないからだ。
栞の欲しいときに欲しい言葉をあげられなかったこと。栞に何一つしてあげられなかったこと。そして今の自分の現状がどこまでも自分に救いを与えることを拒んだ。
それでも栞には何かしらしてあげたい。いつまで幽霊でいられるのかは分からないけど栞には出来る限りの幸せを感じてほしい。
僕は栞に何をしてあげられるだろうか……いや、考えなくても答えは出てるな。
「栞! 旅をしよう!」
『た、旅!? 急にどうしたの?』
「色んな所を見て回るんだ。栞の夢を叶えよう!」
『でも……私幽霊だし、凪君の迷惑になるよ』
「迷惑だなんて思わない。だから一緒に行こう!」
『……本当にいいの?』
「何も気にしなくていい。僕が栞と色々なところに行きたいんだ」
これは本心だ。栞との旅ならば絶対楽しいだろう。
それに栞の為であれば、多少自分に甘くなってもいいと思うことも出来る。
卑怯だと自分でも思うが、栞の幸せの前では些細なことだ。
「僕と旅をしてくれるか?」
『凪君にこんなに言われて断れるわけないじゃん……、私を連れてって凪君!』
悩んでいたが栞も本心では行きたかったのだ。
その証拠に決めた後の表情はとても嬉しそうなもので、凪紗の選択は間違い出なかったと分かる。
今すぐにでも行きたい気持ちがあったが、少しの間出掛けるとなると凪紗にも準備がある。
巡る場所や順番も凪紗に任せると栞は言ったので、その予定も組まなくてはならない。
そんなわけで帰路につく。
栞はどうするのだろうと思った凪紗だったが、栞は普通に付いてきた。
別に見られて困る物は家には無いのでいいのだが、両親にどう思われるだろうかが少し気になった。
その心配も他所に両親は仕事で、明日の夕方まで帰らないとのことだった。
そして栞は他の人にも普通に見えていた。
駅の改札も反応する。
どういう原理なのか不思議だが、そもそも幽霊になったという時点で不思議なので考えても答えは出ないだろうと思い考えるのを辞める。
着替えは想像しただけで着替えられるようなので心配は要らない。
つまりは栞に関しては色々なことを気にしないで済むので、楽しむことだけを気にしておけば大丈夫そうだった。
両親に出掛けることを連絡する。
少し反対されることも考えていたが、むしろ嬉しそうに楽しんでくるように言われた。
金銭的な問題も遊びなどで使っていなかったものを両親が貯金しておいてくれたようで、金銭面的にもなにも問題は無さそうだった。
荷物をまとめ残った時間でスマホを使ってとりあえずの目的地を絞っておく。
今全てを決めてしまわなくても、実際に回りながら予定を組めばいいと考えていた。
それでも最後の場所だけは決まっているが。
ある程度決まったところで早めに身体を休めることにする。
幽霊でも寝るようで、栞にはベッドを譲り布団を敷く。
別に一緒でもいいと邪推なく栞は言ってくれたが、落ち着いて寝ることが出来なさそうなので断る。
明日は早朝に出ることになっているので、それに合わせて目覚ましを設定して眠りについた。
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アラームが鳴り目が覚める。
外はまだ日が昇りきっていないため少しだけ薄暗い。
それもそうだろう。現在時刻は五時、いつもならばまだ寝ている時間だ。
昨日は色々とあり寝れるか心配だったのだが、気が付けば熟睡していたようだ。
ベットを確認すると栞が可愛い寝顔を晒している。
栞との再会が嘘だったとは思ってはいなかったが、改めて実感出来るとホッとする。
昨夜のうちに荷物をまとめて置いたお陰で、出発するのに時間は掛からない。
とりあえず栞を起こすことにした。
「栞起きろ。朝だぞ」
『ん、んん~』
声を掛けてみたが、栞は起きない。
仕方がないと身体を揺らしてみる。
するとゆっくりと瞼を開き、小さく欠伸をしてから栞は身体を起こした。
『おはよぅ凪君……おー、凄い寝癖』
「おはよう栞。恥ずかしいから寝癖のことは触れないでくれ」
寝癖のことを栞に言われ、凪紗は恥ずかしくなり顔を逸らす。
『ごめんごめん。とりあえず準備しよっか! 早めに出るんでしょ?』
「準備が出来次第出発するつもりだ。とりあえず顔を洗って寝癖を直してくるよ」
そう言って洗面所に向かう。
頭から水を被りドライヤーで乾かす。歯を磨きスッキリしたところで、朝食をどうしようかと考える。
栞は食事も普通に出来るようで、昨日も夕食を用意すると美味しそうに食べていた。
行先で食べてもいいのだが、移動時間もそれなりにかかるので家で済ませてしまうことにする。
一度部屋に戻ってからキッチンに行くのも面倒なので、洗面所からそのままキッチンに移動して食事の準備をする。
作るのは目玉焼きとベーコンを焼くだけの簡単なものだ。
凪紗は多少の料理は出来るが、人を楽しませるような料理が出来る訳ではない。
見栄張りたい気持ちも多少あったが、失敗して余計な時間を使うのも馬鹿らしいので、誰でも出来るようなものを用意することにしたのだ。
冷凍庫からラップに包まれた米をレンジに入れて温める。
焼けた目玉焼きとベーコンを皿に移し、レンジから十分に温まった米を茶碗に移してテーブルに運ぶ。
箸はテーブルに割り箸が常に置いてあるので大丈夫だろう。
食事の準備が終わったので部屋にいる栞を呼びに行く。
「お待たせ。朝ごはんの準備をしておいたからリビングに行ってて。僕も着替えたら行くから」
『ありがとう凪君! お言葉に甘えてご馳走になるよ』
流石に栞が部屋にいる状態で着替えるのもアレだったので先にリビングに行っててもらう。
動きやすい服に手早く着替えて、何かおかしいところがないか軽く確認する。
今まで身だしなみなど殆ど気にしてこなかった。といってもだらしない恰好をしてた訳ではないが、それでも気にしてしまう。
結局はお洒落な服など持っていないので、無難なところでまとめるしかないのだが。
あまり待てせても仕方がないので、程々にして凪紗もリビングに行く。
栞は食べずに待っていたようで、用意した食事には手が付けられていなかった。
「先に食べてもよかったのに」
『そんなこと言わないで一緒に食べよ! 一人で食べても寂しいじゃん』
ここ数年は勉強の合間に手早く食事を済ませるようにしていたので、栞の言葉は凪紗には非常に耳の痛い話だった。
とりあえず栞の向かい側に座り朝食を取る。
簡単なものだが、栞は美味しいと言って食べてくれているので作った側としては嬉しい限りだった。
量自体はあまり多くないので、十分程で食べ終わり、胃を休める。
『そういえば今日からどこに行くの?』
「まずは関西の方に行こうと思ってる。細かく言えば京都、大阪、奈良とかその辺だな。修学旅行気分で楽しんでくれたらいいよ」
『修学旅行かぁ。うん! 楽しみ!』
凪紗自身、修学旅行中も勉強等であまり楽しかった記憶がなかったので、単純に旅行として行くのは楽しみだった。
大阪、奈良、京都の順番で三泊四日で予定を組んでいる。
回るところが少ないと思われる順に、最後の京都を二日間で回れば丁度いいだろう。
宿が取れるか心配だったが、時期的にあまり混み合っていなそうだったので、問題なく予約を入れることが出来た。
食事に関しても色々と調べてある。
後は事故が無いように気を付けるだけだ。
「さて、そろそろ出るか」
起きてから一時間が経ち六時になっていた。
ここから東京駅まで三十分強。新幹線で新大阪駅までは三時間掛からないくらいなので、到着はだいたい十時前くらいになる。
少々早い到着な気はしないこともないが、ゆっくり見て回ることも考えれば別に問題無いだろう。
手早く食器を洗い、部屋に戻り忘れ物などが無いか、最終確認を行う。
栞はそもそも荷物がほぼ無いので、凪紗の確認が終わりいよいよ出発する。
「じゃあ行こうか栞」
『しゅっぱーつ!!』
昨日同様よく似合う白いワンピースにサンダルという格好の栞を伴って、叶えることが出来なかった夢を叶える為の旅が始まった。
読んでいただきありがとうございます。
出会い、別れ、また出会いとあり二人の旅が始まります。
旅の中で二人が何を思い、どういう結末を辿るのかを見届けていただけたら嬉しいです。