renyou/syu-siの時代
本日も拙作をお読み頂きましてありがとうございます。
「終止形が男性で、連用形が女性だなんて。いったいそんなこと、誰が決めたの?」
女みたいな名前とからかわれて、すぱっとあいつは切り返した。
五十嵐歩と出会ったのはもう二十年近く前になるだろうか。小中一貫校でのことだ。
名簿順が近いから。名前が似通っているから。席が前後だったから。
話すようになるきっかけなんて、単純な近さがあればいい。
とりわけ、大人と子どもが分離され、真っ暗な海に投げ出されているような日常に終わりなどないと思うようなあのころは、間近にいるぬくみが救命具だったのだろう。
浅野と五十嵐、呼び合う互いの名称はあっという間に亜由夢と歩に変わり、文法が授業で出てきた後は紛らわしいからと『しゅー』と『れん』に変わった。もちろん終止形と連用形の名詞化したものから来ている。
名前のせいで、ジェンダーの存在そのものに違和感どころか嫌悪感を感じ始めていたあいつは、自分自身をキャンバスに性別を塗り替える事に熱中していた。あれは性別でなにかが決まった枠の中に落とし込まれるのを嫌っての、抗議活動の一つだったのだろう。
俺もつきあってユニセックスな恰好をしたり、髪を伸ばしたりもした。女装はさすがに抵抗したが、メイクをこてこてに塗って自分とも思えない、ビジュアル系のような顔に化けると、なにかしら自分たちにも世界を変える力があるような気がした。
renyou/syu-siと名乗って、おれがかじってたギターやあいつの歌をメインに、動画を投稿することが別々の高校に入学してからも続いた。異性装が特徴的だからと、あいつが地元に伝わる舞いや踊りといった古典芸能の記録を上げていたのもあのころだったろうか。
パンデミックが燎原の火のように地球を舐め尽くし、世界が一変してからも俺たちの距離は変わらなかった。
いや、むしろ世界が変容したからこそだろう、俺たちはいっそう互いを互いのよりどころとして寄り添っていたように思う。
あいつに教えられたのは好きという感情、好きになるもの、そして好きなものを奪われたときの悲しみ。
性愛とか友情とか、名前をつけることのできる感情はそこにはなかった。互いを互いの色で塗りつぶしあうような季節はあっという間に過ぎ去ったが、あんなに濃密な関係を築いたことはなかった。他の人間とは築くことができなかった。
気づいた時には、他の人間なんていなかったのだから。
人というか、社会は脆い。
じわじわと俺たちの周りにも病禍が迫っていたのはわかっていた。離婚した俺の父親が重症者から死者へと書き換わったという知らせも受けた。だけどそれはまだ遠い街の話だった。
はず、だった。
品薄だったマスクに消毒液、防護服の増産がなんとか消費に追いついてきたころのことだ。
俺たちの住んでいた市内でもぽつぽつと死者が出始め、それはあっという間に土砂降りのように視界を覆い尽くし、日常は土砂降りに打たれる砂の城のようにみるみる形を崩した。
俺たちを含む未成年者の隔離が実施されたのも、そのころだった。
俺たちはばらばらに隔離された。ちょくちょく配置換えのように移動させられたのは、今にして思えば、現在の基点を移動する生活のプレモデルだろうか。
一方、社会人は従来通りの社会生活を送るように推奨された。エッセンシャルワーカーであろうとなかろうと、社会的活動を活発に行っている人間ほど残念ながら感染リスクが高くなる傾向がある。だったらせめて濃厚接触による家庭内感染拡大を防ごうというわけだ。
生活パターンが異なる社会人と未成年者とを分けることで、社会人がより効率よく休養と労働に時間を割けるようにしたということもあるのかもしれない。
落ち込んだ経済活動を回復させるため、労働力をぎりぎりまで効率よく絞り上げるという目的もあったのかもしれない。
女性保護を名目に、さりげなく性別ごとに隔離施設は分離された。
ヘイトクライムはノマドを対象とするものばかりではない。
パンデミックの最中では、普通の風邪を運悪く引いた人でさえ叩かれた。
健康ならざる者みなすべて感染者予備軍とでも思うのだろうか。健康というのが実に曖昧な定義で、自分も感染者なのかもしれない、ただ症状として顕れていないだけ。その可能性からひたすら目をそらすかのように、罵倒し、蔑み、追い詰め、互いに互いを攻撃しあうさまに、不和こそパンデミックのもたらす最悪な症状ではないかとある思想家は鋭く問うた。
雑踏の中、マスクをしない人間から身を遠ざけようとするのはまだいい。
微熱や咳といった症状そのものが、他人を危険にさらす人格破綻者を示す信号であるかのように攻撃するのはどうだろう。
まして、感染者に、そして感染者の関係者、濃厚であろうとなかろうと接触したかもしれない人間にまで向けられるまなざしは宇宙空間の方がまだマシだと思うほどに凍てついていた。
恐怖による攻撃行動を阻止しようという理屈はわかるが、当時可能だった中でも最善の人道的措置だったと言われても、俺は、パンデミックヘイトを予防するために取られた手段は今でも間違いだったんじゃないかと思っている。
俺たち未成年者は、完治、ないしは清浄、クリーン、陰性であることを何度も確認されながらシャッフルされた。
感染者だというだけで悪意が向けられる。ならば、感染者が誰であるかまったく分からないようにしてしまえか、転々と施設をたらい回しにされる間に、顔ぶれは入れ替わり、見たこともないやつらとの集団生活が当然となっていた。
話を聞けば、感染者すら出たことのない地域の同世代もまた、目眩ましのためにシャッフルされていたようだ。
個人情報保護という名目でSNSからはかなりのデータが失われた。防護服と白い壁に隔てられ、人恋しさを拗らせようにも、俺たちは互いにしがみついていたぬくみから手を放さざるをえなかった。
失われた世代という言葉がかつてあったが、俺たちは過去を奪われた世代だといってもいいだろう。
パンデミックが一応の終熄を迎えたとき、俺たち隔離施設の中で成年を迎えた元未成年者は、解放された。どちらかというと放逐に近い形で。
ようやく帰り着いた家は大きく玄関を破られていた。非常事態宣言国民健康特例措置法に基づく強制執行だった。
ワーカーに運び出された遺体袋の中身は、母さんだった。
盛大に嘔吐物を撒き散らしながら、俺は家族と現実感を失った。
あいつは街に戻ってこなかった。
離れ離れになっていても、しばらくは交互に投稿をしていた俺たちのチャンネルは『更新されていません』と示される期間がどんどん延びた。
すべての連絡が途絶え、送るメッセージは未達になった。
renyou/syu-siとしての最後の投稿は、俺一人。メイクなしで弾き語りを一曲。
あれを、あいつは見ただろうか。
それから数年は、親の遺産を食い潰しながら学んだ。大学までは行く、それは母親との約束だったからだ。
隔離施設の中でも教師はおらず、集団学習の機会は失われていたけれど、とうにオンライン学習が一般化していたおかげで、自学環境はある程度保証されていたこともある。
大学も当然ほぼオンラインだった。だから俺は視聴無料のアーカイブ講義を中心に片っ端から受講した。そんなものがかなり豊富に残っていたのは、パンデミックに学問の府が巻き込まれることを懸念した教授会の判断によるものらしい。
寝る以外はかたっぱしから学習にあてた。無利子の奨学金目当てだったから、成績もそこそこ良かったはずだ。
だからだろうか、進路をノマドにすると決めた時には、大学の進路指導部が連絡を寄こしたものだ。
政策は十年スパンで社会インフラの冗長化を最優先したものになっていたから、正直就職口はたくさんあったし、就職率を下手に下げられては大学のネームバリューにも悪影響があるからだろう。
何人かの教授が単位を盾に翻意させようと説得に当たったが、俺はは拒否した。
「墓碑が建てられないんです」
なに言ってるんだコイツはという目で見られたが、正直な気持ちだった。
失ってしまい、二度と会えない家族がいる。
失ったけれど死んだかどうかわからない相手がいる。
嘆いても悼んでも欠落は埋まらず、その欠けは就職すれば、何事もなかったように自分一人だけが生きていれば、いつかは満ちるとはとうてい思えなかった。
「墓碑を建てられないのはつらいね。建てるのもつらいが」
唯一、震災で家族を失ったという哲学科の教授がわかってくれた。
「ぼくには、墓碑を建てる場所すらないんだ。実家のあった集落も、そこの墓地も一切合切流されてね。……整地されて、赤土で固められた墓地はね、故郷の面影どころか、古い墓石もひとっつもないの。全部新品ぴっかぴかで、顔が映るくらいに。それがせつなくってね……」
淡々とした口調が壮絶な体験を刻み上げる。息を呑むしかなかった。
「君の人生だ。旅を栖とするも、君の選択だ。だけど、君がいつか幸せを見つけられるように願うよ」
「ありがとうございます、メンター」
「おや」
意表を突かれたように、老師は目をしばたいた。
「ぼくをメンターと呼んでくれるのかい」
「ええ、人生のメンターです」
そして、つい聞いてしまった。
「先生は、人生の幸せを見つけましたか?欠けた場所は塞がりましたか?」
「……ぼくはね。この年になっても、まだ欠落は埋められないでいる。それでも、見つけることはできたんだ。先へ進むだけの力をくれるものをね。――浅野君。生き延びなさい。今は」
「生き延びる、ですか」
「生きていれば、いつか君も見つけることができるかもしれないからね。先へ進ませてくれるものを」




