【第8話】否定する。下に見る。
スマートフォンのアラームが速くなっていく。寝ぼけ眼で止めて、時間を見ると八時五分になっていた。まだ会社には間に合う時間帯だ。そう考えると体はますます怠く、頭は重くなっていく。次にスマートフォンを観たとき、時刻は九時三〇分になっていた。完全に遅刻だ。鉄のようになった体を起こし、洗面台まで行って顔を洗う。鏡の中の俺は目尻が下がり、髭が伸びていて、いつにも増して気持ちが悪かった。
会社に着き、おはようございますと周囲に向けて挨拶をする。周囲の反応は薄い。席に着くと、隣の席で上司の滝尾佳江が心配そうな目でこちらを見ていた。
「弓木君、今週に入って二回目の遅刻だよね。どうしたの?体調悪いの?」
「最近、ちょっと寝ざめが悪くて……。暖かくなってきたことですし」
「もしきつかったら有給取って休んでもいいけど」
「それは大丈夫です」
滝尾佳江は「そう」と言って、自分の仕事に戻っていった。
昼休憩。何か話さねばならないという衝動に駆られて、今日も休憩スペースに向かう。最近遅刻がちなことを責められたらとも思ったが、スマートフォンを見ながらパンを食べる俺に、話しかけてくる人間はいなかった。安堵と同時に寂寥も覚える。五個入りのレーズンバターロール。最後の一個を食べようとすると、隣に南渕先輩が座ってきた。目の下にクマはない。
「今日は暖かいね。もうすぐコートもいらなくなるかな」
「そうですね。もう沖縄の方は桜が咲いているって言いますし、いよいよ春ですね」
南渕先輩は俺の顔を覗き込む。俺は、唇にパンのくずがついているのに気づいて、舌で取り除いた。
「弓木君、最近遅刻多いよね。やっぱり春眠暁を覚えずで、起きれない?」
「まあそんな感じです」
「よかった。アイスのせいだと思ってたから心配だったんだよね」
「アイスはうちでは全然ヤってないですよ。高いですし」
「そっか。じゃあ今晩も家に来ることは可能なわけだ」
「お世話になっていいですか」
「いいよいいよ。小絵も弓木君のこと、『可愛い』って言ってたしね」
「じゃあお言葉に甘えて。お世話になります」
南渕先輩は小絵さんのお手製の弁当に箸を伸ばした。今日は右上に大きなハンバーグが入っている。デミグラスソースがかかったそれを、南渕先輩は実に美味しそうに食べる。俺は、欲しがっていると思われるのも嫌なのでスマートフォンに目を向ける。逮捕された著名な政治家が、不起訴処分になったらしい。
昼休憩は普遍性を盾にして、何事もなく過ぎていく。
*
「東京から子供を連れて来ました。魚を釣ったり、綺麗な星空を眺めたり、普段では味わえない貴重な経験が出来たと思います」
「バーベキュー美味しかったー!」
「また来たい?」
「うん!」
太陽も少しずつ傾き始める午後一時。ようやく起き出して、テレビを点ける。最近、起床する時間が日を追うごとに遅くなっている。昼のバラエティ番組が流れていた。都心に近いキャンプ場にやってきた観光客の声を届けている。カメラ目線の親も人差し指を加える子供も、テレビ用ではなく本心から楽しそうだった。
昨日、夕飯を食べた後にクスリをキメた。アブリで吸うと、基礎代謝に毛が生えた程度の疲労感でも、憑き物が落ちたかのように一気に滅却され、視界がクリアになった。冴えた思考回路は、自慰に消費される。三回目を終えたところで、倦怠感は波となって押し寄せた。海に浮かんでいるかのように体の力は抜け、自然とベッドに横になる。洗い物は流し台に残したままだ。
真っ暗になった視界で考える。ここ数日、俺は何もしていない。スタジアムにも映画館にも行くことはなかった。首位浮上を懸けた試合よりも、世界的巨匠の十年ぶりの新作よりも、クスリの方が俺に快感を確証してくれることに気づいたからだ。ナマケモノのように日中を過ごし、寝る前にクスリをキメるか自慰をするかというのが、大型連休に入ってからの俺の過ごし方だった。
昨日の残した分の洗い物をしながら、テレビを聞く。軽はずみな笑い声が耳に入った。脳内で遮断し、思考を巡らす。俺は人間の屑になってしまったのだろうか。いや、断じてそんなことはない。
例えば三日前に偶然早く起きられたとき。借りたDVDを返しに行こうと自転車に乗ってレンタルショップを目指す途中にパチンコ屋のそばを通りかかった。そこでは、開店前だというのに二桁に上る人間が列をなしていた。煙草を口にする率の高さに、俺は目を逸らした。人間の屑というのはああいう奴らのことを言うのだ。俺はまだあそこまで堕ちていない。
そう思うと、安らぎが俺の心を満たした。スポンジの泡が食器の汚れを落とすのと同時に、俺の疑念も落ちていくようだった。
食器を洗い終わると、再びベッドに横になり、電話をかける。相手は三回目のコールで、明快な声を俺に聞かせた。
「もしもし、峻。元気してる?」
「うん、元気してた」
俺は天井を見ながら嘘をつく。たとえ肉親相手だったとしても。
「で、どうしたのいきなり電話かけてきて」
「ううん、ゴールデンウィーク戻れなくてごめんね」
「いいよいいよ、そんなこと。またいつでも戻ってくればいいし」
「そう。ありがと」
寝返りを打って壁の方を向く。ここからが本題だ。
「あのさ、ちょっとお願いがあるんだけど」
「なに?」
「三万貸してくんない。ちょっと生活苦しくてさ」
「そうなの?え?給料は何に使ったの?」
「それはあれだよ。仮想通貨。最近始めた。で、投資した分が回収できるまでには、まだ時間がかかるんだよね。回収出来たら必ず返すから。お願い」
電話の向こうの母親が押し黙る。親なのだからさっさと貸してくれよと、身勝手な思いが渦巻いている。
「分かった。銀行の口座に振り込めばいいね」
「うん、よろしくー」
「ちゃんと返してくれる?」
「もちろん。一年以内には返すから。絶対」
「じゃあ来週までには振り込んでおくから。確認できたらまた電話ちょうだいね」
「ありがと。じゃあね」
「じゃあね」
電話を切って、再び仰向けになる。二分で考えた言い訳は通じるかどうか不安だったが、どうやら上手くいったらしい。これでまたクスリが買える。俺は、手を突き上げて喜んだ。全く日焼けをしていない白い肌に、深緑の静脈と気休めの跡が浮き出ていた。