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【第7話】一人じゃなければ出来ないこと



 信号が青になり、冬に着られた人々が歩き出す。車道の向こうではこの寒い中、ニット帽を被った男が弾き語りを披露していて、女性が三人しゃがんで聞きこんでいた。俺の座るロータリーには五分に一本、行き先もバラバラなバスがやってくる。バスのドアはしばらく開いたままだったが、俺が動かないのを見て、閉められた。実家の近くまで行くバスだった。最近、本数を減らされたらしい。


 一時間待っているが目当ての人物は現れない。だが、座ってスマートフォンを見て、暇をつぶしていると、男がいきなり話しかけてきた。予想していたよりも高齢で、髪には白髪が少し混じっている。サングラスをかけていて、目が見えなかった。手にはクリップボードを持ち、紙が一枚挟まれている。


「すみません。アンケートにご協力願えますか」


「これから帰ってペットの面倒を見なければいけないので、今はご遠慮願えますか」


「そうですか。ちなみに、そのペットというのは」


「ネオンテトラを三〇匹ほど」


 そう俺が言うと、男は後ろを向いた。右手を小さく振り「ついてこい」の合図をして、駅舎の方へと歩き始める。怪しまれないように一定の距離を取って、俺も歩き出す。駅舎を抜けると人の少ない東口に出た。デッキの階段を下りて、男は公衆トイレに入る。俺も吸い込まれていく。中には誰もいない。


「あんた、こういうの初めてなんだろ」


 男が、俺に問う。「そうです」としか返しようがない。


「だったらどうすればいいか分かってるな」


 見ることができないサングラスの奥の目が、睨んでいるような気がした。俺は、ズボンのポケットから財布を出す。一万円札を二枚抜き取った。福沢諭吉の目線を、無視して男に差し出す。


 男は二万円を受け取り、ウエストポーチにしまい、隣のポケットからクスリが入った五センチメートル角のポリ袋を取り出す。顎を振って、俺が右手を差し出すと、ポンと手のひらに乗せた。俺はしばらく見入り、「早くしまえ」と男に注意される。


 トイレから去っていく男は手を洗わなかった。男の後ろ姿を俺は半ば呆然としながら見送った。一世一代だと思ったその儀式は、七十年代の洋画のワンシーンのようでもあり、スーパーマーケットで割引になった惣菜を買って帰るみたいな、日常の風景のようでもあった。最恐と謳われるお化け屋敷がそれほど怖くないのと同じで、いざ身を投じてみれば意外となんとかなる。


 俺は肩から掛けたバッグにクスリをしまい、トイレを後にした。洗面台の上の鏡に映っていたのは、自分では見ることのできない張り詰めた横顔だった。



 コンビニでライターと、吸えもしない煙草を買った。煙草は一番安い銘柄を選んだ。店員は特に訝しむ様子もなく、レジ袋にそれらを入れた。七百二十円になりますという声が、店内に流れるラジオにかき消されそうだった。


 水色に塗られた階段を上って灰色のドアを開ける。買った煙草をゴミ箱に投げ入れ、バッグからクスリの入ったポリ袋を取り出す。存在が感じられないほど軽かった。百円ショップで買ったアトマイザーに入れる。暖房の風で飛ぶ心配はない。


 電子レンジの上に、ちょうど使っていなかったプラスチックのストローがあった。手に取り包装を破く。咥えてみると、零れ落ちてしまいそうだった。外で着けていた手袋を左手だけもう一度、着け直し、右手でライターを構える。クスリを焦がれる気持ちが逸って、安全装置をなかなか解除できない。


 三分経ってようやく解除し、スイッチに親指を乗せる。心臓の高鳴りが、鼓膜を飛び出しそうだった。


 ライターはオレンジ色の火を灯す。俺の目は、灰色がかったクスリに釘付けになる。口から吸って鼻から吐くことを続け、四回目になってようやく煙を吸うことが出来た。初めて自分で、自分の金で買ったクスリは三回吸うだけで終わってしまった。しかし、南渕先輩のときとは明らかに違う。じゃりじゃりとした雑味が混ざっていて、南渕先輩は不純物の少ないクスリを使っているのだと気づく。生活とクスリの感触は比例するらしい。下を見ると、ジャージに有意な膨らみが確認できた。


 そういえば、南渕先輩は、クスリをキメた状態で小絵さんとヤると、蕩ける様に気持ちいいのだと以前言っていた。だとすれば、それは自慰にも適用できるのではないか。


 一度思ってしまうと、うずうずして留まることが出来なくなる。キマっている頭でもスマートフォンの操作はできる。ブラウザを開き、いつも使っているアダルト動画サイトにアクセスする。上から三番目の動画を再生すると、喘ぎ声が最大音量で部屋に響いた。慌てて音量を下げる。ティッシュケースはいつでも使えるように炬燵の上に常に置かれていて、手っ取り早く五枚ほど掴む。ジャージとパンツを脱ぎ、ベッドに座った。


 動画の中の女が腰を振るのに合わせて、右手を揺り動かす。十二センチメートルはすぐに反応して、白濁色の液体を分泌してみせた。分泌の瞬間、それとは遠く離れた脳に恍惚が生まれ、日常の行為が特別なものに感じられた。感度は良好で、遮るものは取り払われ、普段使わないスラングを使いたくなるほど気持ちよかった。頭がひっくり返ってしまいそうだ。


 追加したティッシュペーパーで周りを拭き、ゴミ箱に投げ捨てる。一回で入ったのを見届けると、急に体の力が抜けて、そのままベッドにだらんと倒れこんだ。普段だったらシャワーを浴びるまでがセットなのに、その気にはなれない。水道まで足を引きずるようにしながら歩き、コップ一杯の水を飲んだ。大して冷たくもないその水が、喉と体を潤す。


 コップを置いて、またベッドまで戻り、また横になる。体を離れていく意識の向こうに、俺は昨日の俺を見る。テレビを見て性懲りもなく笑っている。馬鹿だなと思う。



(続く)

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