【第6話】ハッピーニューイヤーのおとしまえ
南窓の天井付近に飾られた壁掛け時計は、今年があと十五分で終わることを示していた。隣の寝室で寝てしまっていた小絵さんが、起き出して一つ大きな欠伸をした。伸びをすると同時に、緩く巻かれた髪の毛がエアコンの風に揺られている。
小絵さんは紅白の結果の集計がされているところで、チャンネルを変えた。代わりに画面には大規模なホールが映し出される。観客席を満員に埋めんばかりの人とペンライト。中央のステージでは、凛とした男たちが歌っていて、黄色い声援を送られている。
「彼らも今年は大変だったよね」と小絵さんが言う。「そうだな」と南渕先輩が一言、返す。俺は何も言わず、待ち望んでいた。
大衆歌が響く中、南渕先輩が自分の部屋からお決まりの一式を持ってくる。慣れた手つきでアトマイザーにクスリを入れる。最初に小絵さんがガラスのストローを口に寄せた。「サエ」と書かれた白いシールの寸前まで唇が迫っていて、色めき立ってしまう。
小絵さんは煙を吸い終わると、斜め上の天井に向けて息を一つ吐いた。全身にクスリを行き渡らせているのだと気づく。口元を緩めると、俺と南渕先輩に向かって喜色満面、笑いかける。その笑顔がとても理想的で、クスリを受け入れる準備を整えてくれるようで、南渕先輩は毎日クスリのほかに、こんないい思いをしているのかと内心嫉妬する。
時計は十一時五十二分を指していた。
普段は二人で一袋を分け合うのだが、今日は一人一袋という大盤振る舞いになっていた。また新しくクスリが開けられる。次は真ん中にいる南渕先輩を飛ばして、俺の番になっており、その白い粒を見ていると、まだ吸っていないのに目眩がするようだった。
ライターの火がくらくらと揺れて、アトマイザーを炙っている。鼻から空気を出して、ガラスのストローを口につけ、思いっきり吸い込むと、生暖かい煙が唇に触れた。口の中がほのかに苦い。唾と一緒に飲みこむ前に、身体が浮遊するような心地がした。両手でガッツポーズを作る。全身が熱気で埋め尽くされている。
最後に南渕先輩がアブリを終えると時計は十一時五十八分を指していた。はしゃぎたいと気持ちを三人とも必死に堪えているのが可笑しかった。小絵さんが「手繋ごうよ」と持ち掛ける。小絵さんと南渕先輩は躊躇なく繋いで、俺も少しためらったが、テレビの中のカウントダウンはあと三十秒しかなく、差し出された南渕先輩の手を握った。長い指に、俺の手の甲は覆われている。
五、四、三、二、一。テレビはカウントダウンを刻んでいく。俺たちは少し縮こまって、ゼロと声がした瞬間に一気に伸び上がって、繋いだ手を新しい年に向かって突き上げた。テレビの中では銀テープが舞っていて、出演者全員が大合唱をしていて、歓喜に満ちている。それでもその歓喜が、俺たちに勝ることはない。
俺たちはハイタッチをして、手と足を振り回し、山奥の民族も腰を抜かすでたらめな踊りをしていた。南渕先輩だけでなく、小絵さんともハイタッチをした。女とのハイタッチは小学校の運動会以来だったが、全く照れることはなく、ごく自然に手を合わせていた。
「イェーイ」だの「フゥー」だの嬌声が飛び交う。テレビのカウントダウンは終わっても、俺たちのセレブレーションは終わることなく、それは永遠の存在を信じさせるには十分なものだった。
「明けましておめでとー!」と六時間ぶりに、小絵さんが破顔しながら言った。塞ぎ込んだ過去は飛んでいってしまい、あるのは未来だけだった。俺は「明けましておめでとー」と初めてため口で小絵さんに言う。小絵さんは怒る様子も見せず、鼻歌を歌いながら、南渕先輩に抱き着いていた。
「南渕先輩、明けましておめでとうございます!」
「弓木―!おめでとー!」
南渕先輩もタガが外れたかのように機嫌がいい。安心した弾みで、前々から感じていた疑問を、年を越したドサクサに紛れて聞いてみる。
「南渕先輩、ちょっといいですか」
「うん?」
「南渕先輩っていつもどうやってクスリ手に入れてるんですか」
「何よ、藪からスティックに。寝耳にウォーターだな」
南渕先輩はいつもより多めのクスリと、年を越した感慨で、かなり高揚しているようだ。
「いいよ。教えてあげる。俺が主に使ってるのはSNSね。クスリには隠語があって、『氷』がクスリ、『野菜』がハッパ、で、『手押し』が手渡しって意味なの。弓木もSNSやってるでしょ。ちょっと開いてみなよ」
ポケットからスマートフォンを取り出し、SNSのアプリを起動する。水色の画面を経てタイムラインが表示される。南渕先輩に言われた通りに、「手押し」でキーワード検索をしてみると、デフォルトのアイコンが大量に表示された。売人の投稿も購入を望む人の投稿も、ごちゃ混ぜになっている。「野菜手押し」の投稿には、緑と黄土色の吐しゃ物を固形にした物体もあり、吐き気で少し現実に押し戻されるような気がした。
「まあこんな田舎じゃ、なかなか買える機会も少ないんだけどね。あっ、よかったら紹介してあげよっか?」
「ぜひお願いします」
「うん、じゃあ今度ね」
時計は四時三十分を過ぎていて、三人ともはしゃいだ疲れが見えている。小絵さんは早々に寝室に戻っていく。俺は南渕先輩に、「今年もよろしくお願いします」とだけ残して、部屋を後にした。
マンションから出ると、今年最初の寒風が俺に刺さり、即座に鳥肌が立つ。空はいつの間にか雲一つない星空が広がっていた。真上に見えるオリオン座が、夜空に映えている。俺はしばらくマンションの玄関から動けなかった。目の前をカップルが横切る。女の手には赤いお守りが握られていた。
寒気に押されて、俺は電灯に照らされた国道を帰っていく。
(続く)