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【第5話】ニューイヤーズ・イブの嘘つき



 南渕先輩がライターで火をつけると、周囲の風景が歪む。クスリは固体から液体、液体から気体へと状態を変え、俺たちは一筋も逃がさないよう、ガラスのストローで吸い上げる。煙が口を経て、脳に届く。仕事でのストレスも、孤独の寂しさも一切合切、川の向こうに投げ捨てて、感情はクスリの熱に浮かされていく。初めて薬をやったときは期待外れで、少しがっかりしたが、使っていくにつれて快感は増していった。


 思えば以前は、金曜日は仕事が終わると、たまに映画館に行っていたのだが、南渕先輩とクスリをやるようになって、めっきり行かなくなった。映画には当たり外れがあり、つまらない映画にも遭遇する。しかし、クスリは確実で、一〇〇パーセント気持ちよくなれる。クスリがもたらす快感は裏切ることなく、俺を癒す。


 それに、人間関係はこの世で最も当たり外れの大きい事柄だろう。他人は俺の意に沿わない言動を平気で取る不確実の権化だ。野犬と一緒でいつ噛まれるか分かったものではなく、信じることなどできるはずもない。


 しかし、クスリはいつでも俺を心地よくしてくれる。この上なく確実なクスリで繋がっている俺と南渕先輩の関係も、また確実だった。南渕先輩は拒むことなくクスリをアブってくれて、一緒にガラスのストローで煙を吸う度に、誰にも言えない秘密を共有していることを実感する。今まで誰とも結べなかった「絆」というあやふやなものを、南渕先輩とは結べている気がするのだ。


 煙も出なくなって、アブリは終わる。目と目が合い、俺たちは声を出して笑った。明日が来て、明後日が来て、またその明日が来ることを俺は願う。髪の濡れた小絵さんが「ちょっとうるさいんだけど」とドアを開けて言うまで、俺たちは笑い続けた。






「じゃあ、本当に今年は帰ってこないの」


 スマートフォンから合成された音声が流れる。


「昨日言ったじゃん。今年は会社の人の家にお世話になるって」


 オートロックのかかったガラス扉の前で、俺は電話を続ける。庇に隠れて、この時期には珍しい雨を眺めながら。


「ああそう。その同僚の人の家で何するの」


「何ってそりゃご飯をご馳走になったり、紅白見たりとかじゃないの」


「それって家でもできるじゃない。湊も帰ってくるし、一年に一回ぐらいは家族団欒しようよ」


「いや、本当にごめん。俺にも会社での付き合いってものがあるからさ。来年はちゃんと帰るから今年だけは」


 電話の向こうで、水がシンクに当たる音が聞こえる。母親は黙ってしまったようだ。


「どうしたの?何かおかしい?」


「いや、まさか峻から『会社の付き合い』なんて言葉が出るとはね。会社で上手くやれてるようでよかったよ」


「俺ももう三年目だからね。良くしてくれる先輩だって一人ぐらいいるよ」


「あ、先輩なの?いいじゃない。分かった。今日はその良くしてくれる先輩の家で思いっきり楽しんでおいで。その代わり明日には帰ってくるのよ。おじいちゃん家にも挨拶に行くから」


「分かったよ。じゃあそういう訳だから。そろそろ切るね」


「うん、よいお年を」


 そこで、俺は電話を切った。「よいお年を」を今言う必要があるとは思えなかった。スマートフォンをアウターのポケットにしまうと、オートロックのモニターの画面に南渕先輩の姿が映った。一言二言言葉を交わし、「今開けるね」の数秒後にはピーッという音がして、オートロックは解除される。


 マンションの中は風が当たらない分少しだけ暖かくて、俺は手に白い息を吹きかけながら、南渕先輩の住む五〇二号室へ向かうため、エレベーターへと歩き出した。


 玄関を開けると小絵さんが「弓木くーん。明けましておめでとー」と、フライング気味の挨拶で俺を迎え入れてくれた。白いポリエステルの生地に、灰色の大きな水玉がいくつか浮かぶ暖かそうな上着と対照的に、クリーム色のキュロットスカートからは素足が見えていて、その不均衡さが目を引く。


「ごめんね、弓木君。小絵もう飲んじゃっててさ」


 奥から南渕先輩の上機嫌な声がした。咎める様子は見られない。南渕先輩は黒いパーカーを着ていて、その中央には筆記体で英文が書かれていた。


「いいじゃん。別に飲んでてもー。今日が何の日か知ってるのー?年忘れー。無礼講だよー」


「無礼講って言っても、お前がこのなかで一番上だろ」


「え、小絵さんって南渕先輩より上なんですか」


「うん、一コ上。まあそれはいいから上がりなよ。ここに突っ立てても始まらないし」


「そうだぜー。弓木くんー。さあ、今晩は一緒に飲み明かそうじゃないかー」


「二人とも程々にしとけよ。この後のお楽しみが、不味くなるからな」


「分かってまーす」


 小絵さんに連れられて靴を脱いで、上がり框を跨ぐ。照明はいつにも増して煌々とついており、暖房がつつましく稼働していた。テレビでは、今年一年を振り返るニュースが流れていて、今年の夏は涼しかったから、来年もこれぐらい涼しいといいなんて、吞気なコメントを若いモデルがしている。



 テーブルの上には宅配の寿司が置かれており、中央には鮪が鎮座していた。ここ二年くらい味わったことのない大トロを見て、思わず唾を飲み込む。小絵さんが冷蔵庫から取り出してきた缶ビールは、外の寒さを彷彿とさせるぐらい冷えていた。雨音はもう聞こえなかった。


「え、じゃあ二人は、駅前でティッシュ配りをしていた小絵さんに、南渕先輩が一目惚れして、連絡先を渡したところから付き合い始めたってことですか」


「本当のことだけど、改めて言われると照れるな」


 テレビのチャンネルは紅白歌合戦に合わせられている。他にも選択肢はあるのに、二人が紅白を選ぶとは正直意外だった。


「なんかドラマみたいで素敵じゃないですか」


「いや、そんな安いドラマ今時ないでしょ。普通だよ、普通」


「連絡先渡されたときは、さすがにえ?って思ったけど、ほら、トモくんってけっこうカッコいいじゃん」


「そうかな」


「自分でもそう思ってるくせに」


二人は顔を見合わせて、互いに表情を緩めた。その後恥ずかしそうに顔を背けたところも含めて、まだ新婚の雰囲気がはっきりと残っている。



テレビでは今年ブレイクした女性歌手が代表曲を歌っていた。別れた彼への離れられない気持ちを歌うバラード。だが、幸せ満点の二人の仲に入り込むまではいかない。結構気に入っている歌手なので、二人の話を聞きつつ耳を傾ける。一番と大サビだけで終わってしまったのが少し残念だった。


「ところで、弓木君って彼女いるの?」


南渕先輩からの突然の質問に、口に入れたビールを吹き出してしまった。慌てふためていると、小絵さんが素早くキッチンからティッシュを持ってきてくれた。


「なんですか南渕先輩、急に」


 ティッシュでビールを拭きとりながら答える。


「いや、弓木君に女の影が全く見られないから心配で心配で。今いくつだっけ?」


「二十五です」


「二十五か。その年で彼女いないってちょっとヤバくない?危機感持った方がいいと思うよ」


「なんでいないって決めつけるんですか」


「じゃあ、いるんだ」


 南渕先輩はからかうことを全力で楽しんでいる。少し苛立ったが、彼女がいない自分を恥じているのは事実なので、反論はできなかった。


「いや、いると言ったら嘘になりますけど……」


「来年の目標が決まったね」


「そうですね……」


 下を向き、身体を縮こませながら出した言葉は五文字が限界だった。おおよそ達成不能な目標を勝手に掲げられて、不愉快だった。それでも思い返すと、今の俺にはクスリというコミュニケーションツールがある。もしかして、同じクスリをやっている女を見つければ、共通項ができて話も弾むのではないだろうか。


「頑張りたいと思います」


 一縷の望みを見つけて、言葉にもほんの少しだが力が戻った。ほとんど食べていないのに、卓上の寿司はどんどん減っていく。二人がテレビに夢中な隙を見計らって、大トロを掴んですぐさま口に運ぶ。二人は振り向き、大トロが一つなくなったことに気づいて、俺を見てスッキリとした笑みをこぼす。


 今年が一秒一秒、緩やかに終わっていく。



(続く)

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