【第4話】さよなら空白地帯
「やるよね?なぁ弓木?」
先程まで笑っていた南渕先輩の顔が急に強張り、眉間に皴が寄る。俺たちの距離はそれほど近くなかったが、南渕先輩が眼前にいるように感じられた。
「はい、やります」と伝える。南渕先輩は一転して上機嫌に戻り、机に向かっていて、また新しいアトマイザーとポリ袋を取り出した。アトマイザーは三つあり、一つには「サエ」と書かれた白いシールが貼られていた。
新たに粉末がアトマイザーに開けられる。南渕先輩が下からライターを当てると、粉末は再び泡立っていく。南渕先輩の真似をして、俺もガラスのストローを内容物に向けた。恍惚する南渕先輩の横で、俺は始めの方は息を止めて、煙を吸わないようにしていた。だが、頭の片隅から好奇心は広がりを見せていく。その快感を知りたいという欲求は、とめどなく溢れてくる。気づけば口を開けて、煙を吸い込んでしまっていた。
学生のときの薬物防止教育で聞いたことがある。薬物を使用すると脳がパッと晴れて、自分には何でもできると、万能感が湧いてくると。俺は吸うときに、明日の仕事のことも、やかましい同僚のことも忘れることを期待した。
だが、現実は期待を越えてはくれなかった。頭の奥が少しツンとする感覚はしたが、全く大したことはない。気分も少しは高揚したが、罪悪感の方がまだ勝っている。正直こんなものかという感じだ。何が、エブリシングガナビーオーライだ。
「どう、弓木君?気持ちいい?」
そう聞いてくる南渕先輩の声は弾んでいる。軽妙な声色はシャボン玉のように脆い。だから、壊さないようにするためには、「はい、最高です」と言う他ない。
本意に反していたとしても、すぐに見透かされるようなぎこちない笑顔でも、しゃにむに演じるしかない。今の俺はちゃんと笑えているのだろうか。それでも、南渕先輩は満足気に頷いたので、何とかこの場はやり過ごせたらしかった。
「よかったら、これからもたまに家に遊びに来なよ。歓迎するからさ」
あやふやに頷く。何もなくなったアトマイザーの底が、一瞬照明を反射して光り、今日は浴びることができなかった日光を思い起こさせた。
*
会社から二〇〇メートル離れたディスカウントストアから外に出ると、みぞれが舞っていた。二リットルのペットボトルやらビール缶の箱やらが入ったレジ袋を駐車場の奥にある社用車に運ぶ。何往復もしたので、八度の気温でもこめかみに汗が滲んだ。
部署内にはモニターを通して、社長の訓示が放送される。来年のオリンピックになぞらえて、期待に応えるために努力することの重要性を語っていた。何の期待もされない人間などいないとでも言いたげな口ぶりに、俺は辟易した。
有意義だけれど、長ったらしかった訓示も終わり、部長の乾杯の音頭と共に酒宴が開始される。俺が紙コップに緑茶を注ぎ、オードブルセットをつまんでいる間に、社歴の浅い者は先輩にお酌をして交流していた。ようやく自分が出遅れたことに気づいたときにはもう遅い。お酌という行為は、会話を始める絶好のきっかけであり、チャンスはそうそう巡ってこないと悟る。
同期とも特に仲の良くない俺は、オードブルの中から枝豆を数個頂戴し、窓際で緑茶を啜ることしかできなかった。
「お疲れ、弓木君」
緑茶を足そうとしたとき、呼びかける声があった。声の方向を向くと、立っていたのは深緑のネクタイをした南渕先輩だった。
「お疲れ様です。南渕先輩」
「いやぁ、今年も大変だったね。特に八月九月とか本当に忙しかったでしょ。みんな残業していたし」
「そうですね。あのときは結構しんどかったです。でも、南渕先輩が中心となってくれたおかげで、何とか終わらせられましたし、南渕先輩ってやっぱり凄いなって思いました」
「弓木君、意外と褒めるの上手いね。でも、年取ってくると大変だよ。関節は痛むし、脂肪はどんどんつきやすくなってくるし。弓木君はまだ若いから大丈夫だろうけど、気を付けた方がいいよ。二〇代後半はボーっとしているとあっという間に過ぎて、気づいたら三〇オーバーのおっさんになってるからね」
「はい、気を付けます」
「そうそう、アイスのことなんだけど、最近また新しいのが入ったから」
あの日から、毎週金曜日は南渕先輩の家にお邪魔するようになった。いつ来ても南渕先輩の家は綺麗に片付いていて、実家よりも居心地がよく感じることが増えてきている。それに甘えて、南渕先輩に頼み込んだら、金曜日に加えて火曜日も家に来ていいということになった。
小絵さんの手料理も味わえるし、クスリは使える。南渕先輩の家に行く度、天国への階段を一歩一歩上っているような心地があった。
「今回のアイスってどれくらいのものなんですか」
「向こうが言うには『不純物が少なく、高い効果が期待できる』って。値段もいつもの一.五倍くらいしたかな」
「それ、めっちゃいいじゃないですか」
「うん、たぶんいいと思う。これ終わったらまた家に来なよ。一緒にやろう」
「おー、弓木君じゃん。飲んでる?」
背後からの声に、肩が持ち上がって、口に運ぼうとした緑茶が少しこぼれた。遠慮のない声の主は、隣席の上野だった。チューハイ缶を手に持ち、両の頬は紅潮している。上野は缶の中身を全部飲み干し、少ししてゲップをした。
「で、二人今何の話してたの?アイスがどうのこうのって言ってたけど」
「いや、何のアイスが好きって話ですよ。ほらアイスにもいろいろ種類があるじゃないですか」
「今、冬なのに?」
「それは……」
「いや、冬に暖房の効いた部屋で、こたつに入りながら食べるアイスは最高だって話。ほら餅みたいなアイスあるじゃん。あれをテレビでも見ながらぬくぬくした状態で食べると、超美味いよねみたいな。ね、弓木君?」
「はい、そんな感じです」
「そう。ならいいけど。ところでさ、営業二課の竹村っているじゃん。あいつ実はさ……」
上野は納得したようで、根も葉もない噂話を喜々として話し始めた。俺はどうでもいいとしか思えず、頷くことしかできないけれど、南渕先輩は大げさにも思えるリアクションを取って、会話を盛り上げていた。
「トイレに行ってもいいですか」と言って、場から離れる。向けた背中に、二人の締まりのない声が刺さる。俺は振り返ることもせず、やはり談笑する人間の隙間を潜り抜けていった。
(続く)