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【第3話】ペペロンチーノ・クライシス



 南渕先輩に部屋の住所を教えて、車は県道を走っていく。途中で国道にぶつかり、赤信号に止まる。スクランブル交差点を、我が物顔で行き交う人々。一人一人の顔が、わりによく見える。


「弓木君ってさ、いつも家に帰った後、何してんの?」


 エンジンの音だけが響く車内。南渕先輩の唐突な質問が刺さる。


「そうですね……。コンビニでご飯買って食べたり、テレビ見たり動画見たりしてます」


「また、コンビニなんだ」


「また」という言葉が、責めるように聞こえる。また、コンビニ。また、テレビ。また、自慰。また、生きているか死んでいるかも分からない時間を過ごすだろう。このまま家に帰ったならば。


「これから家に来られる?」


 南渕先輩のその言葉は突拍子もなく、全く予想していなかったので、俺はしどろもどろになった。歩行者信号は点滅を始めて、中年が駆け足で車の前を横切っていく。


「は、はい……。時間的には大丈夫だと思います」


 口から出た言葉に南渕先輩は素早く反応した。振り向いて、ニコッと笑ってみせる。その笑顔は和やかだったけれど、既製品のようでもあった。冬に向かっている今の季節よりも温度のないその表情に、心臓が縮こまり血の気が引くような思いが、ほんの一瞬した。


 車が左折する。俺の部屋に行くには右折しなければならないので、どうやら本当に南渕先輩の家に向かっているらしい。俺なんかよりもずっと価値のある家に向かって、車は雨の中を走っていく。コンソールに置かれたコーヒー缶の飲み口に、煙草の灰が付着していた。






 オレンジ色の照明がテーブルを照らす。ダイニングはさっぱりしていて、余計なものがない。フラットな椅子に座る俺の前には、ペペロンチーノが置かれていた。南渕先輩の妻の小絵さんは「急に言われても、簡単なものしか作れないよ」と言っていたが、その言葉通りのシンプルな夕食だった。


南渕先輩と小絵さんは、駅前にできたカフェの話題で談笑している。小絵さんの薬指に銀色の指輪が光る。小絵さんは背がスラリと伸びていて姿勢もよく、顔立ちも雑誌のモデルのように端麗だ。まさに完璧な美男美女といった組み合わせ。人間はやはり収まるところに収まるのだ。


「弓木さん、どうしたんですか。どうぞお食べになってください」


 呆然としているところに、視線に気づいた小絵さんが声をかけてきて、現実に引き戻される。「あ、はい、いただきます」と言って口に運んだペペロンチーノは、絶妙な塩加減で、パスタも柔らかすぎず、鷹の爪の辛さがいいアクセントになっていた。すぐに二口目、三口目と食べ進める。


「とても美味しいです。レストランで出されていてもおかしくないくらいです」


「そうだろ。小絵ちゃんの作る料理はプロにも負けてないからな。俺はこれを毎日食えるんだぜ。どうだ。羨ましいだろ」


 小絵さんは「ちょっと、トモくん言いすぎだってば」と、南渕先輩の肩を軽く叩いていた。満更でもない様子だ。俺は、そんな二人を見て「羨ましいです」とだけ返す。自分とは違う別世界の住人のように感じられて、嫉妬も敗北感も一切出てこなかった。


「よかったら、これからもたまに家に遊びに来なよ。歓迎するからさ」


「はい、そうします」






 小絵さんが洗い物を終え、「じゃあ私お風呂入ってくる」と言って、バスルームに向かっていったのは、二十一時を過ぎてのことだった。一人になった部屋で俺はスマホを見ながら、妄想を働かせる。小絵さんがシャワーを浴びるところや、湯船に浸かるところを想像すると、気分が高揚した。


「弓木君、今エロいこと考えてたでしょ」


 気づいたら横に立っていた南渕先輩が茶化す。「そ、そんなことないですよ」と慌てて誤魔化すが、南渕先輩は笑って看過し、「まぁ小絵ちゃん可愛いからな」と咎める様子もなく流してくれた。


「そうだ、ちょっと来てくれない?」


 緩まりかけた心が一気にまた引き締められ、警戒を取り戻す。何か良からぬことをされるのではないか。そう直感したが、断るに足る理由が見つからなかったので、言われた通りにソファから立ち上がり、南渕先輩についていった。


 リビングから出て、玄関へ向かう廊下の途中、左側にあった部屋に、南渕先輩は入る。きちんと整頓されていたリビングとは違い、脱ぎ捨てられたジャージが床に転がっている。点けられた照明も部屋中に行き渡ることはない。


 南渕先輩は、正面にある棚の一段目を開けて、細長いガラスケースを手に取った。筒状になっていて、銀色の蓋が目を引くそれは、俺が初めて見る物体だった。南渕先輩曰くアトマイザーといって、香水を入れるために使うらしい。俺には、縁のない代物である。


 さらに、南渕先輩は同じ段からストローを二本取り出した。そのうち一本を俺に向けて、投げかける。慌ててキャッチすると、ストローはプラスチック製ではなく、しっかりとした質感を持ったガラスのストローだった。ひんやりと冷たい。


 次に南渕先輩が開けた二段目の引き出しには、クリップやシールなどがごちゃ混ぜになっていた。その中から南渕先輩が取り出したのはライターだった。コンビニで買うような百円ライターだ。ポケットにしまう仕草を含めて、この日、俺は一番南渕先輩を身近に感じた。


 最後に取り出されたのは、小さな閉じ口付きのポリ袋。中には真白の粉末が入っている。


「南渕先輩。それって……」


「ああこれ。憂さ晴らしだよ」


 そう言うと、南渕先輩は粉末をアトマイザーに注いだ。粉末はきめ細かく、まるで白い砂浜のようだった。ポケットから百円ライターを取り出し、点火スイッチに親指が当たる。カチッという音とともに、オレンジの火が灯る。南渕先輩はそれをアトマイザーの下に持っていった。アトマイザーの底で粉末がじっと溶け始めていた。


 南渕先輩はガラスのストローを口にくわえ、頬と喉を動かす。気化された煙は透明だったが、ストローの先端に集まっていくことが、俺には何となくだが分かった。ガラスのストローを高揚が上っていく度に、南渕先輩の顔面は喜色が強まっていく。誘拐犯が人質に銃を突きつけるような、実に不敵な笑みだった。


「南渕先輩、何やってるんですか」


「だから、憂さ晴らしだって。気晴らし、皴伸ばし、レクリエーション。エブリシンガナビーオーライだよ」


「なんで英語なんですか。それに、こんなことやってたらダメなんじゃ」


「じゃあ、弓木君は会社でストレス感じないの?この仕事上手くいかねぇなーとか、あいつうぜぇなーとか。これやれば、そんなこと忘れられるよ。フィールズライクヘブンだから、これ」


「でも、奥さんにバレたら……」


「大丈夫大丈夫。小絵もやってるから。あいつも風呂から上がった後、いつもやってるから。でも、今日は小絵に先んじて、弓木君にこうやって勧めてるわけじゃない。ね、やるよね?」


 俺は、ガラスのストローを握り締める。いくら力を込めても割れないくらいには頑丈だ。


「で、でも……」


「やるよね?なぁ弓木?」


 先程まで笑っていた南渕先輩の顔が急に強張り、眉間に皴が寄る。俺たちの距離はそれほど近くなかったが、南渕先輩が眼前にいるように感じられた。



(続く)

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