表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
35/38

【第34話】スリップ



 病院に行くと、二〇七号室に案内された。エレベーターはなかなか降りてこないので、乃坂を先頭にして階段を上がる。深津が入院したと聞かされたのは、その日のプログラムが終わった後だった。約束したのに深津が来ないのはどういう訳かと高咲さんが、乃坂に問い質して聞き出したのだ。誰もが沈んでいて、プログラムにもあまり身が入らなかったことを思い出す。深津は俺たちの中で既に不可欠な存在になっていた。


 病室のドアをくぐると、深津はすぐ右側にいた。水色の病衣を着て、生気の薄れた顔をしてただテレビを眺めていた。左足にはギブスがなされている。テレビはなんてことはない昼のワイドショーを流している。やがて、入ってきた俺たちに気づいたのか、深津は一瞥する。頭の動きが潤滑油を差されていない機械のようにぎこちなかった。


「深津さん、大丈夫ですか」


 俺たちを代表して、乃坂が深津に話しかけた。


「まあ、何とか。ご心配をおかけしてすみません」


「どうして謝るんですか。私たちは深津さんが無事ならそれでいいんですよ」


「そうですよ。深津さんの命に別条がなくて本当によかった。危篤状態になっていたらどうしようかと……」


「そんな大げさな。別に大丈夫ですよ」


「何も大げさじゃねぇよ。俺たちはこういう問題を抱えた人間だろ。他の人間よりも、死はそばにある。お前が平気で、いや平気じゃねぇんだけど、それでもこうやって無事に会うことができて、俺は正直ほっとしてるよ」


「そうですか。ありがとうございます」


「それで、具合の方はいかがですか。どこか痛いところあります?」


「そうですね……。折れた肋骨が今も少し痛むくらいですかね。脳震盪も起こしていたみたいなんですけど、今は松葉杖を使えば普通に歩けます」


 他の四人は、矢継ぎ早に深津に質問を投げかけていた。だが、俺は深津に何かを聞くことはできなかった。深津の伏せられた瞳に、言葉は封じ込められてしまう。いつも隣の席に座っているのに。


「深津さん、あとどれくらい入院しますか。来週で今クールのスマープは最後ですし、ぜひ来ていただきたいのですが」


「先生にもこのまま何事もなければ明後日には退院できると言われましたし、来週のスマープにはまた参加できるようになると思います。だけど、僕なんかが行って本当にいいんでしょうか」


「それはどういうことでしょうか」


「僕は薬物の他にアルコールにも依存しています。お酒を飲んでから薬物を使うのがセットになっていました。それでも、最近は薬物こそ使っていないものの、お酒は飲み続けています。正直いつ薬物を再使用したとしてもおかしくありません。そんな僕が立派に止め続けている皆さんと、顔を合わせていいんでしょうか」


「今さら何言ってんだよ。俺は今でもたまに薬を使っているけど、スマープには毎週来てるぜ。来ること自体に価値があるんだよ」


「そうですよ、深津さん。またスマープに来てくださいよ。一緒に回復しましょう」


「そうですよね。でも正直、僕にはお酒や薬物を止める自信がないです。気づいたら手を伸ばしてしまっていて。本当に駄目な人間ですよね。こんなんで将来、先生になりたいとか、笑っちゃいますよね。真人間じゃない僕が、人を育てることなんてできるはずがないのに」


 深津は、自嘲していた。自己否定の蟻地獄に落ちていくようだ。引っ張り上げようと、高咲さんたちは声を掛け続けたが、どの言葉も深津には届いてはいない様子だった。


「ああそうか。そもそも僕も真人間に育てられていないのか。父親も僕と同じアルコール依存症だったから。仕事から帰って来ては、お酒ばっかり飲んですぐに酔っぱらって。僕と母親は父親のご機嫌伺いをすることに必死で。何か気に食わないことがあればすぐ暴力を振るわれるし。あんな人間にはなりたくないとずっと思っていたはずなのに、気がついたら自分がなってる。母親は『この人は私がいないと駄目なの』と言って離婚しないし、僕も僕で、薬物やお酒にお金を使ってしまって、一人暮らしのための資金は一向に貯まらないし。ああ駄目だ。僕に生きている価値なんてないな」


 その言葉は誰でもない深津自身に向けられていた。鋭利な言葉の刃で、深津は自分の心を抉っていた。


「深津さん、そんなこと言わないでください。確かにお酒や薬物を止めることは難しいかもしれません。でも、そんな上手くいかない状況も含めて、深津さんなんですよ。毎日を必死に生きている深津さんには、それだけで価値があるんです。私たちは誰もその価値を貶すことはしません。だから、安心して来週、スマープに来てくださいね」


「乃坂さん、ありがとうございます。考えておきます」


 そう言った深津の唇は乾いていて、今にもひび割れそうだった。その後も俺たちはしばらく深津のそばに居続けた。会話は思い出したときになされるのみ。だけれど、深津はそれを拒絶しなかった。面倒くさそうにしながらも、ちゃんと返事をしていた。開け放った窓から風が吹き、カーテンの裾が揺れている。深津は、やがて眼を閉じて眠った。






 照明をつけると、ゆとりのない光が俺に差した。俺以外誰もいない部屋で、俺は二時間前のことを回顧していた。窓から覗く空は、黒が青を侵食し始めていた。


 深津は、自分のことを駄目な人間と語っていた。生きている価値がないとも。まるで自分のことなんてどうでもいいという口ぶりで。俺もかつて深津と同じように感じていた。クスリを使っていたころの俺は、何もかもがどうでもよかった。仕事も、生活も、人生も。クスリを使うためだけに生きているも同然だった。


 そして、今の俺には仕事がない。スマープやNAでもあまり発言できていない。毎回会場を後にするたびに、打ちのめされたような気分になる。俺は今でも駄目な人間だったのだ。社会に何も貢献せずに、のうのうと生きていることが恥ずかしい。


 鬱屈した気分を紛らわすために、俺は久しぶりに酒を飲んだ。コンビニエンスストアで買った安い発泡酒だ。しばらくぶりだった酒を、体はなかなか受け付けてくれず、俺は咳き込んでしまった。虚しく響く咳は、孤独をより一層浮かび上がらせる。残りの酒は流し台に捨てた。シンクに酒がこぼれる音が、俺を余計に惨めたらしくしていた。


 振り払いたかった。悲惨も、無情も、全てを投げ捨てたくなった。はっきりとした意識を持って俺の体は動く。棚の三段目の引き出しからライターとストローを手に取り、キッチンの横のアルミホイルを無造作に巻き取った。そして、衣装ケースの奥に手を伸ばす。プラスチックの袋に入ったきめの細かい白い粉末が俺を迎え入れた。アルミホイルに開けると、溶けることのない雪のように望ましく、おぞましかった。


 ライターを手にする。あとは火を点けるだけなのに、なかなか点けられない。本当は分かっていた。自分なんてどうでもいいと言っていながらも、心の底では自分を諦めきれていないことを。自分を大切にしてやりたいことを。労り、慈しみ、自分に価値があると信じたいことを。自分はどこまでいっても自分で、決して投げ捨てることができないことは、理解していた。そのつもりだった。


 だが、こんな自分なんていらないという破壊衝動が勝る。俺は、ライターのスイッチを押し、火をつけ、アルミホイルを下から炙った。発生した煙をストローで一気に吸い上げる。酒とは違い、クスリは何の問題もなく馴染んだ。どこか上から自分を見ているような心地に陥る。疲れはあっという間に消えて、歓喜を叫びたくなった。これが有頂天というやつだろうか。ならば俺はそれに「おかえり」と言おう。クスリを使っていた自分の帰還を、俺は何の抵抗もなく受け入れた。頭のもやが晴れて、このまま何時間でも起きていられそうだった。


 床に、丸められたアルミホイルが、力なく転がっている。



(続く)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ