【第32話】自分を傷つける人間関係
この日は結局最後まで、深津が姿を現すことはなかった。プログラムは三〇分遅く始まったにもかかわらず、終わった時間は普段より一五分遅い程度だった。尿検査を終えて、帰宅しようと会場を出る。この建物を訪れるのも、あと二回かと思うと、少しの物寂しさを覚える。後ろ髪を引かれるように振り返ると、高咲さんがドアの横に立っていた。
「お疲れ様です、弓木さん。今帰りですか」
「そうですね。今日は特にやることもないので、このまま帰ろうかと」
「今日の話どう思いました?」
「自分を傷つける人間関係ですか。自分にも当てはまるところあるなと思いながら聞いていました」
「それは、ここにきている全員そうですよ、きっと。誰もが自責の念に駆られているんだと思います。おそらく今日来なかった深津さんも。弓木さん、これから深津さんがどこにいるか探しません?」
「そんな急に言われても……」
「弓木さん、今日は特にやることないんですよね。じゃあ探しましょうよ。深津さんのこと心配じゃないんですか」
高咲さんの目は少し潤んでいた。返す言葉は一つしかなくなる。
「分かりました。僕も手伝います」
「そうですか!ありがとうございます!確か弓木さんは自転車で来てましたよね。だとすると、駅前のホテルのあたりを探してほしいんですが、お願いできますか?」
「はい、分かりました」
「そうですか、私は車なので、道路沿いのネットカフェや、深津さんの通う大学周辺を探してみます。じゃあよろしくお願いします。また連絡しますので」
一つ頷いて、俺は駅前に向かって自転車を漕ぎ出した。駅前には地方都市らしくホテルが林立していて、俺はスマートフォンを見ながら、それらを一つずつ虱潰しにしていった。だが、どのホテルにも深津はいなかった。ホテルから出るたび日は落ち始めていて、俺の心を急かす。あまり栄えていない出口周辺のホテルも探してみたが、手応えはなかった。
やがて、日は完全に落ちた。ひりつくような寒さを受け、俺はコンビニエンスストアへと逃げ込んだ。肉まんを買ってイートインコーナーで食べる。火傷しそうなほどの熱さが、やや大げさな暖房とともに、俺の体を温める。食べ終わった頃に、高咲さんから電話がかかってきた。
「もしもし、弓木さん、お疲れ様です」
「お疲れ様です」
「どうでしたか、深津さん見つかりましたか」
「いいえ、見つかりませんでした」
「そうですか……。私の方も見つからなくて……。深津さん大丈夫でしょうか」
「たぶん大丈夫ですよ。というか大丈夫であってほしいです」
「そうですね。あの、明日も探したいところなんですけど、私明日は一八時くらいまで派遣の仕事が入っていて、できないんですよね。弓木さん、私の代わりに探すの続けてくれますか?」
「大丈夫ですよ。それほど広い範囲は探せないと思いますけど、精一杯やりたいと思います」
「よろしくお願いしますね。じゃあ明日のNAでまた会いましょう」
「はい、また明日」
スマートフォンをポケットにしまって、窓を見ると外では雪が降り出していた。粒が大きく、この様子だと明日は積もるかもしれない。そうなったら深津の捜索は断念せざるを得ないだろう。止んでほしいと願う自分がいる。それでも、降る雪は見る見るうちに強さを増していた。
次の日起きて外を見ると、案の定、雪は積もってしまっていた。俺の膝の高さぐらいまであり、これでは自転車を漕ぐことはできない。仕方がないので、俺はインターネットで市中のホテルを調べ、その一軒一軒に電話をかけた。昨日も最初からこうすればよかった。
それでも、電話越しに聞こえる言葉は「そのようなお客様は宿泊なさっていません」という言葉のみ。隣の市や町まで範囲を広げてみたが、結果は同じだった。深津はどこにもいなかった。
気づくと、外は暗くなり始めている。俺はコートを羽織り、NAが行われる教会へと歩き出した。長靴を履いていないので、みぞれが靴の中に入ってきて歩くたびに、足が冷やされていく。何度かコンビニエンスストアに立ち寄り、教会に着いたときには、開始時間の二〇分前になってしまっていた。
プログラムが行われる会議室に入ると、初回から変わらないメンバーと六角が座っていた。俺は、全員に挨拶をしてラックにコートを掛ける。暖かい部屋に入ると、急に尿意を催し、俺はトイレへと向かった。高咲さんはまだ来ていなかった。
用を足し終わっても、開始までまだ一五分あった。このまま会議室に行ってもスマートフォンを見るしかすることがない。どっちつかずの時間を潰すために、俺は会議室を通り過ぎ、階段を上った。
二階の聖堂のドアを開ける。深紅のカーペットが伸びる先に、一人の男が立っていた。灰色のジャンパーに耳まで伸びる髪。小柄なその男は、後ろ姿だけでも深津であると分かる。こんなところにいたとは。だとすると昨日はどこで夜を明かしたのだろう。
俺は入り口で十字を切ってから、深津の元へ歩み寄っていった。ステンドグラスが暗い夜空を気休め程度に彩っていたが、俺の目にはあまり入ってこなかった。足音はカーペットに吸収され、俺が斜め後ろに立っても、深津は振り返ることはしなかった。イヤフォンもしていないし、気づいていないはずはない。
「おい、ここで何してんだ?」
音がしない教会に、俺の声はよく響いた。深津はゆっくりと振り向く。顔は少しこけて、目の下にはクマができているように見える。
「お前、なんで昨日スマープ休んだ?」
「すいません……。あの、少し熱が出てしまって……」
「そんな、すぐバレるような嘘つくなよ。母親からは電話で『いつものように出ていきました』って聞いたぞ。お前、昨日本当はどこ行ってたんだ?」
「ど、どうでもいいじゃないですか……、そんなこと……」
「そんなことって言うけどな。高咲さん、昨日お前のこと探してたんだぞ。あっちこっちに車を走らせて。申し訳ないとは思わねぇのか」
「それは、はい、すいません……。昨日は、親戚の家にいました。誰からの連絡も取らないようにしてもらって」
「じゃあ、無事だったんだな」
「はい……。なんとか……」
力なくぶら下がった深津の手は、若干震えている。俺は安堵していたが、深津の口振りに不満も感じていた。頭を数回掻きむしる。俺たちのぎこちない会話を、磔にされたキリストだけが聞いている。
「ならいいや。それよりこれからNAのミーティングがあるんだけど、お前も出るか?」
「あの、NAって……」
「なんだ、分かって来てんじゃねぇのか。ナルコティクス・アノニマス。薬物依存者の自助グループだよ」
「それは知ってますけど、いきなり行っていいんでしょうか……」
「大丈夫だよ。最初は皆、誰かに誘われて来るしな。ほら、ミーティング会場は一階の会議室三だから。行こうぜ」
俺がそう言うと、深津は小さく頷いた。小動物がするみたいだったが、愛くるしさはない。俺は、扉へと引き返す。後ろから平べったい足音が聞こえた。
(続く)




