【第31話】新年早々行方不明
テレビでは、売れようと必死な芸人が、渾身のネタを披露している。俺はそれを見てぎこちなく笑う。外は暗いままだが、つい一時間ほど前までとは、暗さの種類が変化しているように思えた。きっと外に出れば、震えあがるような寒さが新年を迎えたことを、俺に告げてくるのだろう。
思えば、俺は今まで一人で年越しをしたことはなかった。実家にいたときはもちろん、刑務所でも共同室に収容されていたので、たとえ寝ていたとしても、そこには他の受刑者がいた。一人だと、年を越したことを確認し合える相手はいない。俺はまだ、去年に取り残されたままだった。
南渕先輩の家で年を越したことを思い出す。豪勢な寿司に明るい部屋。そして、そこには何よりクスリがあった。クスリを炙って、高揚したまま迎えた新しい年。手を開くと、南渕先輩と小絵さんの感触が、蘇るようだった。
それに比べて、今の俺はどうだろう。机の上にあるのはカップラーメンの容器。床には衣服が畳まずに放置されて、掃除をしていない暖房の風はどこか鼻につく。抜け出したいが、この時間に行くところなど、どこにもない。俺は、まったく一人だった。
気付いたときには、スマートフォンでSNSのアプリを立ち上げていた。検索窓に七年ぶりの文字列を打ち込む。何も変わっていないことにがっかりし、安堵する。写真の中の恐ろしい怪物に怯むことなく、俺はダイレクトメッセージを送った。テレビは当然のように、浮いた笑い声を流している。夜が明けて、一歩外に出て、軒先の正月飾りを確認でもしたら、俺は新しい年にいられるのだろうか。元旦の夜は少しずつ終わっていく。
「あけましておめでとうございます」
外に出ると、軒先の正月飾りはもうほとんどの家で仕舞われていた。だけれど、五日もすれば年が明けたことを実感せざるを得ない。自転車を漕ぐ度に、刺々しい風が頬に当たって、大気はあの夜に一瞬にして切り替わったことに気づく。
「あけましておめでとうございます」
スマープ会場に入ると、暖房の生温い風が優しかった。新しい年になっても、部屋にいる面々に変わりはなく、高咲さんと六角が机を挟んで喋っていた。今日はそこに熊谷も参加している。思っていたよりもスムーズに会話に参加できているので、少し驚いた。
「今年の駅伝は凄かったですよね。途中まで洋光大学がトップを走っていて、このままいくかと思いきや、最後の十区で東上大学が三分差を逆転しての優勝。あれは痺れました」
「僕、見てないんですけど、そんなに凄かったんですか」
「何と言っても、初出場初優勝ですからね。あんな歴史のある大会でも前例のないことだって、解説者の方が言ってましたよ」
「そうなんですか。それは前代未聞ですね」
「弓木、お前もちょっとは世間に関心持った方がいいぞ。何してたんだよ、正月」
「もう特にやることもないのでずっと寝てました。あとは借りてきたDVD見たりですかね」
「あのな、もうちょっとニュース見たりとか新聞読んだりとかして、世の中のこと知った方がいいぞ」
金髪で刺青も入れている熊谷の口から、予想外の言葉が飛び出す。相応に年を重ねているらしい。
「そういえばさ、先週の新聞に載ってたんだけど、この建物、今年度末で取り壊されるらしいぜ」
熊谷の声は大きすぎて、密談に全く向いていない。だけれど、それが却って内容に現実味を持たせていた。
「老朽化が激しくて、耐震基準も満たせていないから解体するんだとよ。夏には、ここはもう更地になってるってことだ」
「熊谷さん、それって本当なんですか?」
「嘘だと思うなら、スマホでこの建物の名前と『解体』ってワードを入れて調べてみろよ。記事出てくるから」
確かに、熊谷の言う通り記事は出てきた。「二〇二七年度に解体」という青い文字に下線が引かれて強調されている。
「乃坂さん、ここが三月で解体されるって本当なんですか?」
「本当ですよ。この建物は老朽化のために解体されます。私たちは県庁近くの建物に映りますし、スマープも四月からはそこで継続される予定です」
「どうして言ってくれなかったんですか?もっと早く言ってくれれば、こんなに驚くこともなかったのに」
「すみません、今回のスマープのプログラムが終了したときに言う予定でした。でも、皆さんを見ているともっと早く言った方が良かったですね。ごめんなさい」
「あの、皆さん。あちら……」
六角が遠慮がちに声を上げた。ドアの方を向いている。そこには深津が立っていた。焦げ茶色のジャンパーを着ていたが、血色の悪い顔が寒そうだ。深津はいつもそっとドアを開ける。この日は、話に夢中で誰もそれに気づいていなかったようだ。
「あの、深津さん、今の話聞いてました?」
高咲さんが覗き込むように話しかけるが、深津は何も答えずに、自分の定位置にゆっくりと歩いてきた。「あけましておめでとうございます」と、例によってボソリと一言だけ発して座る。
「えっと……。皆さん、揃いましたね。じゃあスマープの準備をしましょうか」
カレンダーは二〇二七年になっていた。俺はそれに青色のシールを五つと黄色のシールを二つ貼った。ふと見ると、隣の深津は、何も言わずにスマートフォンを眺めていた。深津のカレンダーには青いシールが七つ貼られていた。少し訝しんだが、本当のことは深津しか知らない。
ただ、熊谷のようにもう少し打ち解けてほしいと思う。だけれど、その思いは言葉には出さないので、決して伝わることはなかった。
翌週、俺はスマープが始まる三分前になってようやく会場に着いた。自転車を停め、もうすぐ取り壊される階段を、息を切らしながら上がる。部屋に入ると、高咲さん、六角、熊谷はもう席についていて、カレンダーの準備を終えていた。深津の姿はまだ見られない。そのまま五分経っても一〇分経っても、深津が現れることはなかった。
「深津さん、どうしたんですかね?いつもだったら開始時間までにはちゃんと来てるのに」
高咲さんが不審そうに尋ねる。
「確かに少し遅いですよね。ちょっと、深津さんの携帯に電話してみます。皆さんは待っていてください」
そう言うと、乃坂はスマートフォンを取り出し、部屋の外へと歩き出していった。壁掛け時計を見ると、開始時間から既に一五分以上遅れている。
「深津さん、大丈夫ですかね」
「心配ですよね、途中で事故などに遭われていないでしょうか」
「大丈夫なんじゃねぇのか、おおかた寝坊しただけだろ。大学生は生活も不規則になりがちだしよ。じきに現れるって」
「確かに、少しの遅刻なら寝坊の可能性が高いですよね。実は今日僕も、昨日東京に行った疲れが取れずにギリギリまで寝ていましたし」
「なに、お前昨日東京行ったの?何しに?」
「観光ですね。それは別として。もしかしたら深津さんも昨日大変なことがあって、今日はずっと寝ていたかったのかもしれません」
「だといいんですけど……」
誰もが深津を心配していて、会話はあまり盛り上がらなかった。五か月も週に一回顔を合わせていると、言葉は少なくとも、知り合い以上の関係性になるようだ。たとえ喋らずとも、この部屋は深津を必要としていると感じた。
束の間、沈黙が流れ、乃坂が戻ってきた。眉間に皴を寄せ、苦い顔をしている。
「たった今、深津さんの携帯に電話しましたが、電源が切れていて繋がりませんでした。また、深津さんのご自宅にも電話したみたところ、お母さんが出て『彰良なら一時間ほど前に家を出ていきましたけど。そちらにいらっしゃらないんですか』とおっしゃっていました。心配ですけど、とりあえずはプログラムを進めていきましょう。途中で来てくれるということもありますし」
異論を挟む者はいなかった。何かを言ったところで、深津が現れるわけではないことはその場にいる全員が分かっていた。空気は目に見えるくらい淀んでいる。それでも、俺たちは促されるがまま、あと三回となったプログラムに移った。カレンダーでの発表は俺の番で終わってしまって、深津の不在を否応なしに感じさせる。
俺は、深津のことを忘れようとプログラムに没頭しようとした。今回のテーマは「あなたを傷つける人間関係」。薬物の問題を抱えている人の中には、自分に自信が持てない人が少なくないという。その傾向を持つ人は、自分を傷つけるような人間関係に巻き込まれやすいらしい。そして、自分を傷つける関係性には、「否定される関係性」と「支配される関係性」の二つのタイプがあるというのが今回の要旨だった。
それでも、滔々と語る乃坂の声は遮るものがないまま、俺のところまで届く。他の三人が音読していても、声は俺の隣をすり抜けていくようで、妙に落ち着かなかった。ホワイトボードも四人分の意見しか書かれず、スペースが中途半端に余ってしまっていた。
(続く)




