【第30話】池と対話と右腕と
「ママ」
ざわめきを剥ぎ取るような声がした。しっかりしているが、まだあどけなさの残る声だ。見ると、山吹色のパーカーを着た少女が、三メートルほど離れたところに立っていた。背はほどほどに高く、やや丸みがかった目には六角の面影が窺える。彼女にとっても予期せぬ出来事だったのだろう。もちろん、それは六角にとっても。少したじろいで見せたのちに、背を向けて場を離れようとしていた。
「ねぇ、ママだよね。何で行こうとするの。私のこと嫌いなの?」
娘の呼びかけに、六角は足を止めて振り返る。口元が歪んでいた。父親も気づいたようで、六角の方を向いて、目を一瞬だけ見開いた。だが、すぐに真顔に戻ってしまう。真顔のまま近づいてくる元夫は、迫り来る壁のように六角には感じられたのかもしれない。年齢にしては、長い髪が歩くたびに揺れていて、無言の圧力があった。六角はうつむいて、目を逸らしている。
「久しぶりだな。離婚して以来会っていないから、もう五年ぶりになるか」
「そうね……。それ以来になるわね……。あのときは迷惑をかけてごめんなさい」
元夫が話しかける。六角の視線は、地面に生えた雑草に向けられている。目の前に色づいた紅葉があるというのに。
「今さら、謝られてもな。お前がああしていた以上、いつか別れるのは変わらなかっただろうし。お互いにとって一番いい選択をしたんじゃないか」
「そうだといいけど……」
「で、お前今どうなんだよ。きれいさっぱり止められたのか」
「今まで止めようとはしたんだけど、なかなか上手くいかなくて……。でも、ここ半年は何とか止めることができてる。自助グループにも参加したりして。あ、この二人、そのグループで知り合った高咲さんと、弓木さん」
不意をつかれて紹介されたので、俺も高咲さんも軽く会釈をすることしかできなかった。顔を上げると、元夫は明らかに俺たちを不審がっていた。「そうか」とだけ言われる。
「ところで、実結。今、十二歳よね。言えなかったけど、中学生でしょ。中学校入学おめでとう」
「うん、ママありがとう」
「お受験でもないし、義務教育におめでとうもないけどな」
「ごめんなさい……。私がどうこう言えることじゃなかった……。私のせいで、二人は大変な思いをしてきたはずなのに……」
「ああ、そうだよ。お前がいなくなってから大変だった。稼ぎは減るし、職場でも近所でも噂をされて、転職したり引っ越すしかなくなって。PTAでも大体が母親の中、父親は俺一人で気まずかったよ」
「そうだったのね……。分かってはいたけれど、私のせいで辛い思いをさせてしまって、本当にごめんなさい」
「だから、謝るなよ。正直に言うとな、俺は五年経った今でもお前を許せていないんだ。なんで俺がこんなに大変な目に遭ってるんだって何度も思ったよ。もういい機会だし、本当にこれで終わりにしよう。今後、俺たちには一切関わらないでくれ」
「……」
「今な、片親ってことで、実結は学校で少なからず言われているらしいんだ。それに、別れた母親が元ヤク中なんてことが発覚したら、実結がもっといろいろ言われちゃうだろ。今大事な時期なんだよ。頼むからそっとしておいてくれ」
六角は何とか顔を上げていたが、またうつむいてしまうことは、時間の問題であるように俺には思えた。
「それに、今は止められていても、またいつ再使用するかは分かんないんだろ。どうせそっちの二人だって、元ヤク中なんだろ。自助グループつったって、ヤク中同士が集まって傷の舐め合いをしてるだけなんじゃないのか。はっきり言って、俺にはお前が信じらんねぇよ」
「すみません、それは違うと思います」
高咲さんが、話に強引に割って入る。「傷の舐め合い」と言われて、俺も神経に障らなかったわけではない。だが、長期間参加しているだけに、高咲さんにとってはどうしても見過ごせなかったのだろう。
「六角さんは、毎回のプログラムも真摯に取り組んでいますし、着実に回復への道を歩んでいます。その姿勢に、私たちは勇気づけられています。それに、私たちがしているのは『傷の舐め合い』ではなく『励まし合い』です。回復の過程では、同じ当事者からの励ましが必要なんです。六角さんは、私たちのグループにとって、とても大事な存在なんですよ」
「そうだよ、パパ。ママが昔はクスリ使っていたって言われても、今は使っていないって言えば済む話でしょ。昔のママと今のママは違うんだよ。そんなことも理解できずに言ってくるクラスメイトなら、私は関わらなくても大丈夫だから」
「でも、それだと実結は寂しくないか」
「パパとママがいつまでも仲が悪いことの方が、私は寂しいよ。せっかくのいい機会なんだし、これからもママに会える方が私は嬉しい。だから、お願い。仲悪くしないで」
愛娘からの懇願を受けて、元夫は二回頭を掻いた。そして、横を向いて、池に映った紅葉を眺める。地上と水面のコントラストは、変わらずに暖かくそこにあった。風が一つ吹いて、元夫の髪がなびく。
「まぁ、そのなんだ。実結もこう言っていることだし、今度一回飯でも食おうか。お互いのことはそのときにでも、もっと落ち着いた状態で話そう。俺、携帯の番号変わってないから」
遠くで風に吹かれて、葉が一枚落ちた。少し流れて、水面に着地した。
「ほら、実結行くぞ」
「うん。ママ、また今度ね」
「うん、またね」
そう言って、元夫と娘は池を後にしていった。恥ずかしいのか足早に立ち去る元夫を、娘が駆け足で追いかける。振り返ってみると、六角の表情は晴れやかだった。自らが発した言葉の余韻を噛みしめているかのようだ。水面に葉がまた、一枚一枚と落ちていく。遠方の山の向こうには、雲一つない青空が見える。この紅葉は見られる期間が短く、来週にはもうほとんど葉を落としてしまうらしい。
高咲さんが、もう一枚写真を撮るという。俺は、そそくさと六角の元を離れた。一人スマートフォンのカメラに映る六角。撮られた写真は、下で手を組む六角をささやかな日光が照らしていて、温厚で鮮明だった。六角がどんな顔をしていたのかは、言うまでもない。
*
バスは山道を下っていく。ガラス越しに見る紅葉は、少しくすんでいたけれど、目に染みるほど綺麗なことにはあまり変わりがなかった。行きとは違ってバスの中には、会話がない。みんな歩き疲れて寝てしまったようだ。窓側の席に座っている弓木さんも、窓の縁に肘をついて、右手で頭を支えて、もたれかかるようにして眠っていた。耳につけているイヤフォンからはどんな音楽が流れているのだろう。
私たちを乗せて、バスはループ橋へとさしかかった。まだ緑の残るこの時期のループ橋は、遊園地のアトラクションみたいに思える。遠心力が働いて、私は弓木さんの方に思わず寄りかかってしまう。アウターの生地は着古されているのか固く、筋肉の少ない細腕はすぐに骨の感触がした。だけれど、私が寄りかかっても、弓木さんは起きることはなかった。私は、すぐに弓木さんから頭を上げた。どうか寝たふりではなく、本当に寝ていてほしい。
しかし、私が頭を離した瞬間、弓木さんの手から頭がずり落ちた。アウターの袖が引っ張られて捲れる。私の目に景色は入ってこなくなった。バスのエンジン音も聞こえない。私の目線は、ただ一点のみに向けられていた。私の脳裏には、初めてのスマープにワイシャツで来ていた弓木さんの姿がよぎっていた。
弓木さんはそれを拍子に、起きてしまったようだ。辺りをきょろきょろ見回して、私に軽く会釈をしてからもう一度目をつぶった。今度は腕を組みながら。私は考える間もなく、会釈を返していたけれど、その会釈はどこかぎこちなかった気もする。きっと表情も笑えてはいない。
弓木さんはそれを秘密にしておきたかったのだろう。だとしたら、この困惑は私の中に留めておくのが最善だ。私も、気持ちに蓋をするように腕を組んで目をつぶった。バスは市街地へと運行を続けている。音楽がないと、着くまでの時間がやたらと長く感じられた。
(続く)




