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【第2話】始まりにはパンの雨が降る




「弓木君って、いつもコンビニのパンを食べてるよね。飽きないの?」


 今まで話しかけられたことのない相手に、名前を呼びかけられたことに驚き、顔を上げた。横に立っていたのは、南渕先輩だった。六つ上で、短く切り揃えられた髪に、端正に整えられた眉毛が引き締まった印象を与える。


「そうですね。でも安いですし、おにぎりよりはパンの方が腹持ちもいい気がして、毎日食べてます」


 声が上ずる。南渕先輩は仕事もでき、愛想もよく、同僚との会話も何の苦労もなしにこなせてしまう。竹を割ったような性格で、俺とは正反対のような人間だ。世の中に必要とされる人間とは、きっと南渕先輩のような人を指すのだろう。


「そっか、でもちゃんと栄養は取らないと駄目だよ。最近、弓木君調子良くなさそうに見えるけど」


 南渕先輩がパイプ椅子を引いて座る。机の上に水玉のクロスに包まれた長方形の物体が置かれた。左手の薬指にはシルバーの指輪が、ぴったりと収まっている。


「そう見えます?」


「見えるよ。だって最近の弓木君って、いつも欠伸ばっかりしているでしょ。それに朝の挨拶もなんだか元気ないし。背筋も去年はそんなに曲がってなかったよね。ちゃんと夜眠れてる?」


「あの、最近は一時ぐらいに寝て、八時ぐらいに起きてるんですけど、四時とか五時くらいにはいったん目が覚めますね。寝つきもそんなに良くないかもしれないです」


「やっぱりね。もっと寝なきゃ。弓木君、丁寧に仕事するのはいいと思うけど、最近はペースがあからさまに落ちているから大丈夫かなと思って。体調管理も仕事のうちだから、そこだけは気をつけないとね」


 ありきたりなアドバイスが嬉しかった。社内でも一二を争うほどに仕事のできる南渕先輩は、特に仕事ができるわけでもない俺のことなんてどうでもよく、むしろ目障りだろうと感じていた。しかし、それは違った。南渕先輩の「仕事ができる」には、周囲への気配りも含まれているのだと、改めて気づかされる。


 南渕先輩は結ばれた水玉のクロスを解く。白い二層の弁当箱が現れた。蓋を開けると、弁当箱の中にはバランスよく食材が配置されていた。唐揚げ、ポテトサラダ、きんぴらごぼう、卵焼き。幸福な日常が思い浮かぶようだ。彩りが目に眩しい。


「南渕先輩、それって」


「ああ、これ。弓木君が思っている通り、ウチの奥さんの手作りだよ」


 南渕先輩が弁当箱の二段目の蓋を開ける。胡麻塩が振りかけられたご飯の中央に、梅干しが載っていた。


「美味しそうですね」


「ありがとう。せっかくだから弓木君も一つ食べてみる?卵焼きあげる」


 そう言うと、南渕先輩は弁当箱の蓋に、淡い黄色の卵焼きを置いた。箸も爪楊枝もないので、親指と人差し指で、卵焼きを挟んで持ち上げる。口に入れると、包み込むようなほのかな甘さがあった。広い草原のような、しばらく味わったことのなかった感触だった。




 昼食を摂っている途中、摂り終わった後も昼休憩が終わるまで、南渕先輩と二人で話した。休日の過ごし方だったり、南渕先輩が飼っているシーズーの話だったり、本当に他愛のない話をした。普段だったら三分も持たずに、席を離れたくなるのだけれど、南渕先輩の声はテノール歌手のように低く、簡単に離れることのできない魅力があった。


 休憩が終わる五分前になって、南渕先輩が席に戻る。その後に続いて俺も席に戻った。ふわふわとした夢心地が、自席についてもまだ覚めずに、頭の中を漂流していた。




 仕事が終わって会社の外に出てみると、雨が降っていた。雲は墨を溶かしたように灰色で、糸のような細い雨が次第に強さを増す。すぐに大雨になり、向かいの家のトタン屋根に打ち付けられる雨音がやかましい。にわかに風も吹き始めている。乗ってきた自転車の籠に雨合羽はなく、鞄に常備している折り畳みの傘では、横から打ち付ける雨を防ぐことはできないだろう。


 途方に暮れて立ち尽くす。時間が経てば少しは雨も弱まるだろうと踵を返して社内に戻ろうとすると、南渕先輩が近づいてくるのが見えた。南渕先輩は車のキーチェンを人差し指に差して、軽快に回している。


「降ってるな。今日は午後の降水確率二〇パーセントだって言ってたのにな。それがこんな豪雨だよ。やっぱり天気予報は信じるもんじゃないな」


「南渕先輩は傘持ってきてますか」


「俺?持ってきてないよ。俺って傘と日焼け止めは持たない主義だから」


 南渕先輩が右手で顔を掻く。日焼けした手の下に、真新しい肌の手首が覗いた。


「弓木君は会社までどうやって来てるんだっけ」


「自転車ですね。片道一〇分くらいです」


「そっか。じゃあこの雨の中はきついね」


 雨は止むことなくさらに勢いを増す。目の前が一瞬光り、十秒後に背後から雷鳴が聞こえた。南渕先輩は尻尾を踏まれた猫みたいに一瞬驚いた表情を見せる。そして、俺の方を見て笑う。俺も釣られて笑う。


「弓木君、家まで送っていってあげるよ」


「え、でも……」


「でも、じゃない。ほら、ついてきて」


 そう言うと、南渕先輩は雨に向かって勢いよく走りだした。困惑する暇もなく、俺も南渕先輩の後を追うようにして走り出した。十月の雨は、体温を奪うのに十分な冷たさだ。それでも、それに抗うようにメタリックシルバーの南渕先輩の車へと向かって走った。



(続く)

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