【第28話】ナルコティクス・アノニマス
頬に当たる冷風に、そろそろアウターが必要な季節であることを知る。県道脇の道路を一本入ってすぐ、住宅地の中に会場となる教会はあった。真っ白な壁も夜の中に浮かぶと、グレーに染まってしまう。煙突の先にある十字架は闇に紛れてほとんど見えなかった。正面から橙の照明が覗く。
三〇分前に来たはずなのに、もう高咲さんと六角は辿り着いていて、入り口の前で俺を待っていた。
「あ、弓木さんこんばんは。迷わず来られました?」
「結構分かりやすいところにあるので大丈夫でした。お二人とも早いですね」
「初めてなので緊張してしまって。私は一〇分ほど前に来たんですけど、もう高咲さんがいて。びっくりしました」
「経験者である私が一番先に来ないと、二人も不安だろうなと思ったんです。でも、お二人ともきっちり時間前に来てくれて安心しました。少し早すぎるくらいですけど」
「それは、すみませんでした」
「別に謝らなくていいですよ。もう会場は開いてますし、行きましょうか」
格子扉を開けて、教会内に入る。礼拝堂、というよりは公民館と言った方が適切だろうか。玄関から廊下がまっすぐ伸びていて、いくつか部屋があるのが見えた。一番奥には体育館のような床が見える。俺たちは下履きからスリッパに履き替えて、受付を済ませる。高咲さんは受付の人とも知り合いのようで、少し談笑をしていた。
案内された第三会議室は、テーブルの真ん中に薄緑の造花が挿され、その周りにパイプ椅子が置かれていて、スマープの会場をさらに狭くしたような部屋だった。ホワイトボードは入り口脇に置かれており、右奥の棚の上にはミニチュアの聖母マリア像が飾られている。部屋には俺たちの他にはまだ誰もいなかった。
「高咲さん、NAってどんなことをやるんですか?」
「そうですね。最初に一二ステップを朗読して、その後はテーマに沿って話をするって感じですかね」
「一二ステップってどういうものですか」
「それは冊子が配られるので分かると思いますよ」
「テーマとはどのような種類のものでしょうか」
俺の次には、六角が聞いてきた。同じ不安を抱いているらしい。
「それは色々としか言えないですね。私が薬物を止め続けるためにしていることや、使いたくなったらこうするみたいな薬物に関するときもあれば、『過去の思い出』だったり『大切な人』だったり、漠然としたテーマのときもあります」
「ちゃんと話せますかね……」
「別に最初は皆、話せないですよ。聞くだけでも大丈夫です。あと初めての方はここに来るまでに、どんな経験をして来たのか話す方が多いかもしれません」
「そうですか……。頑張ってみようと思います」
時間があったので、二階の聖堂に行きながら、ミーティングは定刻通り始まった。司会者と思しき男が、「では、ナルコティクス・アノニマスのミーティングを始めます」と言うと、俺と六角以外の三人は、「よろしくお願いします」と一斉に答えて、小さく礼をした。俺は六角と目線を交わして、同じように頭を下げる。顔を上げると、迷路の入り口に立った気がした。
「最初に今日は嬉しいお知らせがあります。今回、新たに二人の仲間がナルコティクス・アノニマスに繋がってくれました。どうぞ皆さん、温かい拍手でお迎えください」
無精髭の男がそう言うと、三人の小さな拍手が俺たちに向けられた。俺には、その拍手がどうも不協和音のように聞こえてしまう。それは、俺がまだ警戒している証拠に違いなかった。六角が立ち上がろうとするのを、隣の高咲さんが制する。
「ここでは名乗らなくても、大丈夫なんですよ」
六角がまた座る。ほっと一息ついた様子だ。そして、俺たちは司会者の男から、白い本を渡された。表紙には「ナルコティクス・アノニマス」としか書かれていない。書店で手に取るフリーペーパーを、少し厚くした感じだろうか。「これ、ホワイトブックっていうんですよ」と高咲さんが教えてくれた。見た通りの名前だなと少し苦笑する。
「では、テーマについて話す前に一二ステップの朗読を行います。初めての方はホワイトブックの四ページを開いてください」
手に持ったホワイトブックは想像以上に軽かった。これで回復できるのか心許ない。
「ナルコティクス・アノニマスの一二ステップ、一」
『私たちは、アディクションに対し無力であり、生きていくことがどうにもならなくなったことを認めた』
俺と六角以外の三人は流暢に十二ステップを唱えている。俺も小さな声で音読してみる。自分より偉大な力だの、神だの、やたらスピリチュアルな単語が並んでいる。まるで聖書を朗読しているかのよう。そのあまりのスピリチュアルさに、ここがカルト教団ではないかと疑われるほどだ。そう考えると十二ステップやらの内容はあまり頭に入ってこなかった。
今回のミーティングのテーマは、「薬物を使いたいという思考をどうストップするか」というものだった。まず、高咲さんが指名されて答えた。買い物や食べ歩きをする計画を立てるなど、他の楽しいことを考えるというものだった。高咲さんには、未来が当たり前のように約束されている。六角は頷いていたけれど、緊張からか顔は笑っていなかった。
背が高くボーダーのシャツを着た男は、使いたくなったらとりあえず音楽を聴きながら走って、シャワーを浴びてみると提案し、眼鏡の上の太い眉が印象的な女は、親や友達に電話をして気を紛らわすと、か細い声で絞り出していた。
前者はともかく、俺には友達もいないし、親からは拒絶されているので、できそうにもないなと心の中で呟く。それはとても悲しいことで、心は泣いていたけれど、それはただ構ってほしいだけのポーズだろう。
「では、続いてそちらの女性の方、お願いします」
指名されたのは六角だった。六角は他の人がしていたように立ち上がり、言葉を紡ぎ始めた。
「先ほどの方は、親や友達に電話すると言っていましたが、私は親をとうに亡くしてしまいました。電話できるような友達も差し当たっては思い浮かびません。私は五年前、元夫と離婚しました。私の薬物使用が原因です」
六角の突然の告白に、会議室が水を打ったかのように静まり返った。いるだけで神経が削られそうな空気だ。俺は耐えきれず、自分でも知らないうちに声を出していた。「ちょっ……」とまで言ったところで、俺のカーディガンの袖を誰かが引っ張った。見ると高咲さんが、唇に人差し指を当てている。ここはスマープと同じく人の話に口を挟んではいけない場所。肩をすくめ、六角の話を聞くことに集中する。
「私が薬物を使い始めたのは、一〇年ほど前です。当時、家事と子育ての両立に疲れていた私は、元気になれると聞き、薬物を初めて使用しました。体の底から力が湧いてきて、はっと目が覚めた時のことを、今でも鮮明に覚えています。
それから私は薬物を使用して、騙し騙し日々を過ごしていましたが、きっといつか崩壊するだろうことは確信していました。それでも、一度あの高揚感を経験してしまうと、やめられない魔力が薬物にはありました。夫に薬物の使用が発覚したのは、同じく五年前のことです。夫は私が薬物を使用しているのを知ると、すぐに役所から離婚届を持ってきて、判を押させ、まだ七歳だった娘と一緒に出ていきました。
一人になった私はこれ以降きっぱりと、薬物を止めようとそう誓いました。しかし、気づいたら薬局で抗不安薬を買い込み、一度に服用する目安の二倍三倍の量を飲んでいる自分がいました。薬物からはどうやっても逃れられないのだと、私は深く沈み、自分が嫌になりました。
それでも、何とかしたいという思いは常にあり、とあるきっかけでこちらの女性と繋がることができ、そしてここに辿り着いたという次第です」
そこまで、一気に言い終えると「すみません、こんな話して」と六角は申し訳なく頭を下げていた。拍手はなかった。この場にいる全員が六角の話を自分のこととして受け止めた証拠だろうと、俺は思った。少しの沈黙の後、司会者が口を開く。
「ありがとうございます。よくぞ言ってくださいました。ナルコティクス・アノニマスの一二ステップの一番目は、まず自分が薬物に対して無力であることを認めることです。あなたはそれができている。どうぞ、安心してミーティングに参加してください。ここでは同じ悩みを持ったアディクトが、きっとあなたの力になってくれます」
拍手が起こった。ここはカルト教団ではないことが徐々に分かり始める。こう受容してくれるなら通い続けるのも悪くないと、心の片隅で感じる。
「では、最後、そちらの男性の方お願いします」
そう言われて、立ち上がる。見渡してみると、全員が俺を見ている。俺もここに来るまでどんなことがあったのか話そうと思ったけれど、上手く言葉になる気がしなかった。代替手段も「自慰です」なんて言えるわけがない。結局、「カラオケに行って、思いっきり歌って発散しています」ということにして誤魔化した。本当のことを言えない罪悪感が、俺の胸を押し潰そうとのしかかる。
六角以外が代替手段を述べると、ミーティングは他にも方法がないか、自分にも取り入れられる部分がないか検討する段階に入った。慣れた三人が盛んに意見を交わしている。六角も、気まずそうだったが、一言二言参加していた。一方で、俺は自分の番が終わると全く喋らなくなった。罪悪感は俺の中でどんどん膨らんでいく。だけれど、破裂する前にミーティングは終わり、何とか命拾いをした。
「どうでしたか。初めてのNAは」
教会から出た俺に、高咲さんが聞く。
「緊張しました」
俺はそれだけしか言えなかった。だけれど、
「よかったら来週も来てくださいね」
そう高咲さんに言われたら、行く以外の選択肢は存在しない。もしかしたら、来週は緊張が解けて、少しは喋ることができるようになるかもしれない。そう自分に言い聞かせる。二人で駅の方へ帰っていく六角と高咲さんの後ろ姿は、角を曲がって見えなくなった。
俺は自転車をまた漕ぎ出す。夕飯を食べていないことを思い出し、ラーメン屋に寄ってから帰った。
(続く)




