【第26話】隠さなくたっていいところ
「今日は、俺から言わせてくれ」
部屋中に、不審な空気が流れるのを感じた。熊谷が、積極的にプログラムに参加するなんて今までなかったはずだ。どういう風の吹き回しだと、全員が思っていたに違いない。だけれど、乃坂は
「分かりました。すみません、高咲さん。今日は熊谷さんからお願いします」
と認めた。熊谷は立ち上がって、カレンダーを胸の前に掲げた。いつもの通りの青一色ではない。先週の今日には、赤いシールが貼られている。さらに、黄色いシールが一つ、その翌日にはまた赤いシールが貼られていた。初めて見る青以外のシールを、俺は固唾を飲んで眺めていた。
「今週一週間、俺は二回シャブをやった。プログラムが終わった後に一回。どうしても我慢ができなくてもう一回。どちらも静注だ」
熊谷は俺たちの顔を一人一人見て、さらに続けた。
「いや、今週だけじゃない。俺はここに来る前も、そして参加している最中も、週一回は必ずシャブをやっていた。せっかくシャブの誘惑の多い東京から、こっちに戻ってきて止められると思ったのにな。全然ダメだ。どこにもシャブはあって、俺を誑かしてくる。勝てるわけがねぇ」
熊谷はカレンダーを机に叩きつけた。カレンダーは跳ねなかった。熊谷の肩は少し震え始めている。
「先週言ってたことも嘘だ。『いつも使っていた』人は、遊び仲間。場所はクラブで、状況は飲んでいる時だ。俺は東京でクラブに入り浸っていた。シャブもそこで知った。逮捕されて釈放されて、こっちに戻ってくればやり直せると思ったのにな……。情けねぇな……俺……」
「熊谷さん」
重々しい空気の中で、最初に口を開いたのは乃坂だった。腰を少しかがめて、見上げるようにして、熊谷に話しかける。
「よくぞ言ってくれました。薬物から回復する過程の中で、一度も薬物を再使用しなかったという人は、実は多くありません。多くの人が挫折を経験しています。私もできれば薬物は使ってほしくありませんが、使うことよりも良くないことは、薬物を使ったことを隠すことです。熊谷さんが嘘をつかずに、正直に言ってくれたこと、私はとても嬉しいです。薬物を使ってしまったことは仕方がありません。それよりも、またこれから今日一日、どう薬物を使わずに過ごすかを考えましょう」
熊谷の肩の震えが大きくなった。六角が、熊谷を心配そうに見つめている。高咲さんは立ってハンカチを熊谷に差し出していた。俺に貸してくれたのとは違うハンカチだ。
「熊谷さん、立派ですよ。正直に『クスリを使ってしまった』なんて、なかなか言えないですもん。凄い勇気だと思います。だから落ち込まないでください。熊谷さんが告白したことは、むしろいいことなんですよ」
高咲さんにそう言われて、熊谷は、今度は両手で顔を覆った。俺と深津は、どうしようもなく熊谷を眺めるだけだった。
一〇分くらい経って、熊谷はようやく少し落ち着いた。乃坂が
「皆さんも薬物を使いたい、使ってしまったら、熊谷さんのように包み隠さず言ってくださいね。それがこのプログラムの大きな目的でもあります。大丈夫です。私たちは否定したり責めたりは決してしません。どうか安心して発表してくださいね」
と言って、プログラムは再開された。高咲さんが発表している。熊谷は下を向いて、鼻を擦っている。俺は持っているポケットティッシュを、熊谷に分けようと考えた。
その日のプログラムも、熊谷が落ち込んでいてあまり話さなかったこと以外は、概ね普段通り進んだ。熊谷はずっとうなだれていて、高咲さんや六角が励ましてもあまり効果はなかった。
プログラム後の尿検査。いつもは早く帰えらせろと、いの一番にトイレに向かう熊谷が、今日は椅子に座ったままでいる。時折、ドアの方を見ては立とうとするもためらい、また座るということを三回ほど繰り返していた。やはりクスリを使ってしまったことで、陽性が出るのをためらっているのだろうか。六角と深津はもう結果が出て、帰ってしまっているというのに。
俺がトイレに行って尿の採取をしている最中に、後ろのドアが開いた。一瞬驚き、尿の勢いが止まる。熊谷が俺の隣に立った。言葉はない。熊谷がどんな顔をしているかは気になったが、俺は熊谷のことを見ないように努めた。しかし、気にしようとしなければしないほど、却って意識してしまう。俺は足早にトイレを出た。照明もつかず、薄暗いトイレは居心地が悪い。
尿検査キットで検査結果が出るまでには五分ほどかかる。俺と熊谷は連続してキットを使ったため、ほとんど同じ時間を待つことになった。高咲さんはトイレに行っているのか、不在だ。乃坂や磐城は手持ち無沙汰に結果を待っている。押し潰されそうな重たい空気。目の前の菓子を食べる気も起きない。「熊谷さん」と無意識のうちに話しかけていた。
「なんだよ」
「あの……。今日は大丈夫でしたか。あまり調子が良くないように見えたので……」
「心配してくれてんのか」
「いや、そういうことではなくて……」
「じゃあ、どういうことなんだよ」
「どういうことかと言われましても……」
「まあ調子は良くはないわな。なんでシャブやっちまったんだろうっつう後悔でいっぱいだよ。俺って本当にダメだよな」
「そんなことないですよ」
「励ましてくれてんのか?」
そう言うと、熊谷は顔を上げて、天井を見た。口元から笑い声が少し漏れる。再びこちらを見た時には、すっかり柔らかい表情になっていた。
「ありがとな」
熊谷が感謝を口にするなんて、今までの突き放したような態度からは考えられないことだった。小さく「ありがとうございます」と呟く。熊谷には聞こえていない様子だった。
高咲さんが帰ってきて、一分も経たないうちに尿検査の結果が出た。先に結果が出たのは熊谷だった。乃坂が熊谷を呼ぶ。結果について小さい声で二人が話している。熊谷の背中に微かな空白が見えた。肩を落としているところを見るに、陽性反応が出たのだろう。「そうですか……」という熊谷の声が聞こえた。乃坂の「陽性反応が出ると分かっていて来るなんて、なかなかできることではないですよ。立派なことです」という声も。
「今後使わないようにこれから一週間のスケジュールを立てましょう」と乃坂が、熊谷を元の席に座らせる。ワークブックを開いたページには、一週間が一時間ごとに区切られた表があった。熊谷は乃坂と相談しながら、そこに予定を書き込んでいく。「弓木さん、結果出ましたよ」という磐城の声が聞こえる。俺は席を立って、熊谷を見ながら磐城の元へと向かった。熊谷の表情には、光明が少しずつ取り戻されていた。
*
涼しいというにはいささか寒すぎる風が吹いている。もう半袖ではいられない季節になった。私は階段を一段飛ばしで上り、プログラムが行われるいつもの部屋に入る。二〇分も前なのに、そこには弓木さんが座ってお茶を飲んでいた。彼は私に気付いたようで、笑いかける。不慣れで不器用な笑顔だ。それでも、悪くはない。
なぜなら、今日の彼は見た目からして違う。今まではワイシャツに黒のパンツといった、いかにもフォーマルで、警戒していますよという服装だったのに、今日の彼はグレーのパーカーに紺のジーンズを履いていた。皴が寄っていて、綺麗ではなかったが、彼の素顔というものを垣間見ることができる。ようやくこのプログラムにも慣れてきたのだろうか。そう思うと、ファシリテーターでもないのに、なぜだか嬉しくなった。
やがて、六角さん、熊谷さん、深津さんも入ってきた。みんな、弓木さんを見て、少し驚いていた。それくらい今日の彼は、大きな一歩を踏み出したのだ。菓子に気軽に手を伸ばしていて、私たちに心を許してくれた感じがする。
プログラムの開始前。私が一週間の状況を発表し、最後に弓木さんの発表になった。弓木さんのカレンダーには黄色いシールが二つ付いていた。
「先週は、金曜日と日曜日にクスリをやりたいという気持ちが大きくなりましたが、もうとにかく寝ようと、早いうちから布団に入ることで、なんとかやり過ごすことができました」
そう言う弓木さんの視線は、相変わらず下を向いていたけれど、表情はほんの少し晴れやかに見えた。パーカーの紐がだらしなくぶら下がっている。彼にも生活があるのだと、強く感じた。
(続く)




