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【第23話】錨と引き金



 その日は朝から雨が降っていた。道路の脇に小さな川ができるほどの激しい降り方だった。気温も急激に下がって、羽織るものが必須となっていた。俺は、バスで会場に向かった。バスから降りると、傘からはみ出たワイシャツの袖がすぐに濡れた。階段を上がる。部屋に入ると四人全員が一人も欠けることなく待っていた。六角の服は雨に濡れ、熊谷の腕には龍が汗を垂らすように、水滴が落ちている。深津はあまり濡れていない。高咲さんはまた菓子を食べていた。


 俺は、バッグから卓上カレンダーを取り出す。上は少しふやけてしまっているそれに、シールを貼った。七日間、全て青のシールだ。そして、これまでの二一日もすべて青い。そして、それは他の四人も。ここまでの三回で、誰も赤や黄色のシールを貼っておらず、プログラムの前には「今週は一週間、薬物を使わずに過ごすことができました」というのが常套句となっている。それを聞いて、この日も、全員のカレンダーは青かった。


「皆さん、一週間無事に過ごせていますね。この調子で今週も続けていきましょう」


 プログラムは始まる。今回のテーマは薬物を使用してしまう「引き金」について。「引き金」には外的と内的の二種類があると言い、この日は自分を取り巻く環境の中にある「外的な引き金」についてのプログラムだった。ワークブックに列挙された外的な引き金のうち、俺は六個当てはまっていた。


 乃坂がワークブックを読んでいく。「この人だけは絶対に悲しませたくない」「この人の前では薬物やアルコールを使えない」。そんな人、今の俺にはいない。親だって俺を信用していないし、たとえ目の前で薬物を使ってみせても、うろたえることなく警察に通報するだけだろう。俺の周りには誰もいないのだ。今も昔も。南渕先輩と小絵さんを除いては。


 プログラムの最後に「引き金」と薬物を使わずに押しとどめる「錨」についての一覧表を書く機会があった。俺は「たいてい使っていた」の欄に「職場の先輩といるとき」「火曜日と金曜日」「自慰行為」と書いた。しかし、発表できたのは二つだけだった。「女性向けのアダルトビデオを見ているとき」と恥ずかしげもなく語っていた高咲さんを羨む。


 六角と深津が発表して、最後は熊谷の番になった。熊谷は相変わらず、椅子を引いたまま仕舞わない。ホワイトボードを一瞬見て、吐き捨てるような口調で発表を始めた。


「『いつも使っていた』人は、昔の彼女。場所は家。状況は飲んでいるとき。『たいてい使っていた』人は、職場の同僚。場所は同僚の車。状況は駐車場でカーラジオを聞きながら。『ほとんど使わなかった』と『決して使わなかった』はねぇよ」


 ワークブックから片時も目を話すことなく、言ってやっているという雰囲気のまま、熊谷の発表は終わった。椅子に座る隣で、高咲さんが頷いていた。高咲さんは全ての発表の後に頷くようにしているらしい。そうやって反芻しているのだろうか。乃坂は、熊谷の冷たい態度にも負けることなく、友和的な声で


「熊谷さん、ありがとうございました。正直に言うのは勇気がいることだったと思います。でも、今回『引き金』を認識したことで、熊谷さんもそれを避ける生活ができるようになります。ぜひ、気をつけて日々を過ごしてください」


 と言う。仕事と割り切っていては、決して出てこない熱意を感じた。


「では、皆さんも今回確認した引き金をなるべく避けて、まずは今日の残りを過ごしてみてください。経過はまた来週聞かせてくださいね。では、最後に尿検査を行います。キットを配りますので、準備のできた方から採尿をしてきてください」


 乃坂の挨拶が終わった後、一番にトイレに向かったのは熊谷だった。これまでの四回すべてで熊谷が最初に採尿を済ませている。俺は、貰ったペットボトルの茶を一気に流し込んだ。むせてしまって、それを見た高咲さんが「大丈夫ですか」とハンカチを持って、机の反対側まで駆けつけてくれた。ハンカチには、テディベアの刺繍がなされていた。





 プログラムが終わっても、雨は降り続いていた。多少弱くなったとはいえ、道行く人は全員傘を差している。俺はガラス張りの建物の前にあるバス停へと向かう。バス停に着くと、そこには熊谷がいた。コンビニで売られているようなビニール傘を差して、スマートフォンを見ている。俺は、少し距離を置いて、同じようにスマートフォンを取り出した。SNSにも飽きて空を見上げる。大きなパラボラアンテナに雨が滴っていた。


「あれ?弓木さんと熊谷さんじゃないですか」


 声の方を見ると、高咲さんがベージュのチェックの傘を持って立っていた。カーキ色のローファーが雨を存分に弾いている。


「奇遇ですね。お二人ともお家はこちらの方向なんですか?」


「いや、私は駅前に住んでるんですけど、今日は雨が降っていたのでバスの方がいいかなと思いまして」


「そうですか、弓木さんいつも自転車で来てますもんね。熊谷さんもそうですか」


「別にそんなのどうだっていいだろ。話しかけてくんなよ」


 そう吐き捨てると、熊谷はバッグから音楽プレイヤーを取り出して、ワイヤレスのイヤフォンを耳にはめた。音楽プレイヤーには髑髏のシールに、刺々しいバンド名のステッカーがいくつも貼られていた。熊谷はそのまま正面を見てポケットに手を突っ込んで立っている。俺は高咲さんと顔を見合わせる。高咲さんは少し困ったように首を傾げていた。そして、その向こうに白いバスが見えた。


 バスの中には四人しかおらず、どこでも好きな席を選ぶことができた。俺は後ろから二番目の席に座った。高咲さんは俺の反対側の列に座って、一つ大きな欠伸をした。熊谷は前の席に座っている。窓には「優先席」と書かれている。


「どうですか?弓木さん。プログラムにはだいぶ慣れてきましたか?」


 高咲さんが身を一杯に乗り出して話しかけてくる。


「そうですね……。何となく雰囲気は分かってきたんですけど、まだ少し慣れてないかもしれないです」


「でも、お菓子もあって和やかな雰囲気でしょう」


「確かにこんなにリラックスしたプログラムだとは思っていなかったですね。もっと厳しいのかと」


「乃坂さんも言ってましたけど、大事なのは来続けることですからね。私も打ち解けるまでに二ヶ月ぐらいかかりましたし、弓木さんもきっと大丈夫ですよ」


 高咲さんが胸の前で拳を握って俺に見せてくれた。きめ細かな肌に、銀のリングはついていない。


「ところで、弓木さんこの後時間あります?」


「あるといえばありますけど」


「よかった!じゃあこれからちょっと付き合ってくれません?」


「え……。どこにですか?」


「買い物ですよ、買い物」


 バスは止まらずに走っていく。料金メーターが、また一つ上がった。



(続く)

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