【第22話】半年後に向けた第一歩
「では、これからプログラムを始めますが、その前にプログラムの指針となるワークブックを配りたいと思います。一人一部ずつ取って次の人に回してください」
俺は高咲さんからプログラムを受け取る。高咲さんはプログラムではなく、俺の目を見ていた。黒目が大きく純真といった感じだ。また、微かに笑う。薄紅の唇が揺れる。
ワークブックは数枚のプリントではなく、ちゃんと厚みのある冊子だった。受け取った瞬間、想像以上の重さに、手が少し下がってしまった。白い表紙に、パステルカラーの図形が簾のように流れている。俺は深津に最後の一部を渡す。深津がお辞儀を返さない。
「皆さん、行き渡りましたね。今回行う回復プログラムは『スマープ』といいます。スマープはファシリテーターである私たちだけではなく、皆さんと作り上げるプログラムです。変に構えることなく、リラックスして参加してくださいね。それでは、三ページを開いてください」
三ページ目には少しの文章と首を傾げる男性の絵があった。乃坂が次のページまでまたがる長い文章を読み、「じゃあ、ここからは皆さんで読み合わせしていきましょうか」と言う。高咲さんから時計回りに読んでいく。俺は五行ほどの短い文章を読んだ。クスリやアルコールはうつ状態を悪化させるらしい。
次の深津はぼそぼそとした声で、隣にいた俺でもよく聞き取れなかったし、熊谷は熊谷でポケットに左手を突っ込みながら、ぶっきらぼうに文章を読んでいた。項目は全部で七つあり、俺と高咲さんが二回読んだ。気後れしたが、高咲さんの歯切れのいい言葉たちが、俺を勇気づけてくれる。俺は何回か噛みながらも、ようやく読み終える。座る度に、パイプ椅子の感触は少しずつ柔らかくなっていく。
「はい、皆さんありがとうございます。このように薬物やアルコールを使用すると、自らの精神を傷つけてしまう。それは、とても悲しいことです。ぜひこのことを念頭に置いて、これからのプログラムに参加していただけたらと思います」
「それでは、ここからはワークの時間になります。薬物やアルコールを使うメリットとデメリット、その反対にやめるメリットとデメリットを、七ページにある表に書いてみてください。一〇分ほど考えていただいたら、それを発表していただきます。どんなに短くても、一行でも構いません。大事なのは書いて、現状を認識することです。では、どうぞお書きください」
冊子は丸々一ページが表に割かれている。いざ、書こうとしてみると、あまり書くことがない。五年も刑務所にいて、考える時間は飽きるほどあったはずなのに。自分の至らなさを恥じる。だが、考えているうちに不思議と少しは浮かんでくるもので、思いつくままに書き殴ってみる。
全て書き出して、時計を見ると、まだ五分も経っていなかった。俺は、下を向いて、手を動かすことで時間を潰した。「はい、そこまでにしてください」という乃坂の声がするまでに、三〇分くらい経ったような感覚がした。
「皆さん、書けましたね。では、今回の発表は挙手制にしたいと思います。我こそは!と言う方がいたら手を挙げてください」
手は斜め前から上がった。やはり、こういう時に先陣を切るのは高咲さんだ。彼女は、真っすぐ乃坂を、その先のホワイトボードを見ながら、発表し始めた。ワークブックを見ることはあまりなく、自信を持って発表している。さすがは経験者である。続いて、六角が発表した。ホワイトボードは少しずつ黒くなっていく。
六角の発表が終わる。乃坂が「次に発表したい方」と言うが、誰も手を上げない。部屋にはじりじりとした空気が流れている。俺はその嫌な空気に耐えきることができずに、小さく手を挙げてしまった。乃坂が指名すると、部屋中の視線が俺に集まる。
「私が薬物・アルコールを使うメリットは……」
マジックが擦れる音がする。
「というわけで、今回のプログラムはこれで終了になります。皆さんお疲れ様でした」
ホワイトボードは文字で埋め尽くされている。乃坂が挨拶をしたときに、時刻は一五時を回っていた。机の中央の菓子は半分ほどに減っている。六角の前に、菓子を開けた後の袋が、いくつか置いてある。高咲さんもいくつか食べていたが、その度に小さなゴミ袋を出して、しまっていた。俺も含む男三人は特に何も食べていない。特に、深津は出された茶にも手を付けていなかった。エアコンが効いているとはいえ、外はまだまだ暑い。
「では、ここからは次回以降の流れについて説明させていただきます」
そう言って、乃坂は俺たちに卓上カレンダーを配った。日付と曜日の他には何もないシンプルなカレンダーだった。
「このカレンダーには、次のプログラムまでの、一週間の薬物使用状況を記録してもらいます。次回からこちらで青、黄、赤の三種類のシールを用意するので、プログラム開始前に、薬物を使わなかった日には青のシールを、最終的には薬物を使わなかったけれど、強い欲求が出て危なかった日は黄色のシールを、そして薬物を使ってしまった日には赤のシールを貼ってください。毎回、このカレンダーを基に近況を発表していくことを、プログラムの始めに行いたいと思います」
カレンダーを見つめる。来週の同じ曜日が目に飛び込んでくる。
「それと、このスマープでは毎回プログラム終了後に、尿検査をするのが決まりとなっています」
「おい、なんだよ。俺たちを信用してないっていうのかよ」
熊谷が乃坂を見つめて、小さくない声で反駁した。六角が少しびっくりした様子を見せている。
「熊谷さん。この尿検査の結果は治療以外の目的には使いません。たとえ陽性反応が出たとしても、警察に通報するようなことはしませんので、どうぞ安心してください」
熊谷はまだ納得できていない様子だった。首を傾げて、鼻から息を吐いている。腕の刺青と相まって、周囲を威圧するには十分だった。だが、乃坂から薄黄色でスティック状の尿検査キットが配られると、「分かったよ。やりゃあいいんだろ。やりゃあ」と、渋々部屋を後にしていた。それに続いて深津も何も言わずに立ち上がり、ドアへ向かっていく。六角も「私も行ってきます」と、席を離れた。座っているのは俺と高咲さんしかいなかった。
「弓木さんは、トイレに行かなくていいんですか」
「今、ちょっとしたい気分じゃなくて」
「そうですか。実は私もです。こういうのってコントロールできるものではないですもんね」
高咲さんが唇に手を当てて笑った。下げた手の甲に薄っすらと口紅が付着していて、そこだけ微かにピンクが浮き出ている。その仕草がスッと胸に沁みこんでくるようで微笑ましかったが、俺の顔は笑っていなかった。
「あの……」
「弓木さんって六年前の冬、裁判を受けていませんでしたか」
「そうですけど、もしかして……」
「やっぱり、あのとき、傍聴席にいたの私なんです」
「え、どうして。なんで覚えてるんですか」
「弓木さんは私のこと覚えてました?」
「そりゃ覚えてましたよ。だってあのとき、傍聴席には二人しかいなかったですし」
「私も、あのときが初めての傍聴だったんですよね。映画を観て裁判に興味が出てきて。で、実際に行ってみて。視線が合った時の弓木さんの悲しそうな顔。これが現実かって思いました」
「酷なものを見せてしまってすみません」
「いえいえ、こちらこそ勉強になりましたし、久しぶりに会えて嬉しいです。これからスマープ、一緒に頑張っていきましょう。よろしくお願いします」
「こちらこそ、改めてよろしくお願いします」
今度は俺もちゃんと笑うことができた。高咲さんの周りには、暖かい空気が常に流れていて、俺の緊張を解きほぐしてくれる。もう少し浸っていたいと思うところで、ドアが開いた。「お前らまだ採ってないのかよ。こっちは帰りてぇんだよ。早くしろよ」と熊谷が言う。俺は「すみません」とだけ言って、早足でトイレに向かった。ふと振り返ると、高咲さんはまた、菓子を開けて口にしていた。口元についた菓子のくずが、一瞬光ったように見えた。
(続く)




