表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
21/38

【第20話】突然の再会



 家電量販店の角を曲がると、午後の太陽が急に顔を出して俺を照らした。自転車を漕ぐ右手には、広い階段とその先に、ガラス張りの楕円形の建物が見える。広い駐車場には、車は一台も停まっていない。以前、週末にキッチンカーが並び、人が溢れているのを見たことがある。くすんだガラスは、日光をも濁らせる。そろそろ改修が必要な時期なのかもしれない。


 その奥に、五階建ての薄い茶色のビルが見える。立方体に近いそのビルは、暗い雰囲気を帯びていて、立ち入るのには勇気がいる。北面には、白樺を背景に動植物が描かれている。リンドウの紫の花が、雨垂れに汚されていた。中に入ると、照明は心もとなく、リノリウムの床はキュッキュと音を立てる。右奥にはカフェがあるが、一人しか客がいない。階段は非常灯が照らすのみで、一段一段踏み出す度に、背筋がゾクッとするような心地がした。


 突き当たりの部屋に入ると、一転、蛍光灯が眩く室内を照らしている。事務机がいくつも並び、その上には書類が散乱している。壁には分厚いファイルがいくつも棚にしまわれている。見回していると、横から声がかかった。


「今日はどうされましたか?」


 突然の声に驚き、一歩後ずさりしてしまった。下を向いて答える。声は殻に閉じこもっていく。


「薬物依存症の当事者グループに参加したいと思って来ました」


「事前に電話で予約はされていますか」


「あ、あの……。してないです……」


 受付係は困ったような様子を見せ、少々お待ちくださいといって部屋を出ていった。一人取り残されると、なんとも心細い。昼休みから戻ってきた職員が、後ろから入ってくる。薄い水色の半袖のワイシャツにネームプレートがかけられている。部屋に人は続々と増え、仕事だという空気が出来上がっていき、俺は部屋を出ていきたくなった。受付係が戻ってくる。


「ただいま係の者に確認したところ、今回は大丈夫だとのことでした。今、用紙を用意いたしますので、そちらにお名前と住所、簡単なアンケートに記入いただいて、中でお待ちください」


 同時に渡されたボールペンで回答を書く。住所はとりあえず実家のものを書いた。


 アンケートを受付係に渡し、また別の部屋に案内される。ブラインドから日差しが差し込み、壁の本棚には薬物やアルコールに関連した本が収録されている。白い長机が四台。一つの机に椅子が二つずつ寄せられている。お盆に個包装のお菓子が用意されていた。ワイシャツを着た女性が一人。キャラクターもののTシャツを着た男性が一人、窓際に立っていた。もう一人ポロシャツを着た男性がいて、ホワイトボードに何やら書き込んでいた。


 長机を挟むようにして、一番奥の席に二人座っている。一人は、妙齢の女性。ほうれい線に少し皴が寄りつつあり、年齢としては五十代のように思える。髪は黒いがもしかしたら白髪染めをしているのかもしれない。無地のグレーのシャツに、黒字に白い細かい水玉が浮かぶスールが、若々しく見せようという思惑を感じさせる。実際、伸びた背筋と合わさって快活な印象がある。


 もう一人は眼鏡を掛けた男。目と目の間が広く、童顔だが、髭の剃り残しが彼を成人男性であると窺わせる。白と青のストライプのシャツを着ており、長い間着用しているのか、首元が大分よっている。猫背でスマートフォンを見ていたが、身長は俺よりも高いだろう。お金がかかっていない無造作な髪型に、見た目に頓着しない彼の性格が感じられる。学校での休み時間に隅の席で、一人で本を読んで過ごしていそうな、俺と近しいタイプに見えた。


 俺は、男の方の隣の席に歩いていった。俺が「よろしくお願いします」と言うと、男は小さく口を動かして、軽く会釈をしてくれた。近くで見ると、薄い口元が想像以上にあどけなく見えた。俺は椅子を引き、男性の横に座る。座ってすぐに、ワイシャツを着た職員と思しき女性が話しかけてきた。ネームプレートには「乃坂灯里」と書かれていた。


「本日急遽来られた方ですか?」


「はい。予約もなしに、なんかすみません」


「いえいえ、結構ですよ。初めてですよね?緊張してます?」


「それは、はい」


「まあ最初は誰でも緊張しますよね。でも、和やかなプログラムですので、ぜひリラックスした状態で参加してください。まだ、始まるまでに時間がありますので、お菓子でも食べながら待っていてくださいね」


 言われた通りに、個包装がされた菓子を手に取る。赤い袋を開けてみると、チョコレートだった。カカオの味よりも、砂糖の味の方が強い。


「こんにちは」


 左斜め前に座る五十代女が話しかけてきた。前かがみになり、スールがはためく。


「こういうところって、お二人は初めてですか」


 俺は「そうですね」と素っ気なく言った。隣の眼鏡男は軽くうなずいただけで、スマートフォンにすぐ視線を落とす。


「私も初めてなんですよ。今日はよろしくお願いしますね」


 会釈をしたのは俺だけだった。宙ぶらりんな時間が流れる。


「ここがプログラム会場ってことでいいんだよな」


 ドアを背にして立っていたのは、百八十センチメートルはあろうかという大きな男だった。黒髪に金髪がメッシュで入っていて、両耳に銀色のピアスが光っている。しかし、その威圧感の主因となっていたのは腕の刺青だろう。アルファベットで埋め尽くされたTシャツから覗く右腕には龍の文様が彫られている。初めて刺青を間近で見ると、恐れにも似た慄きを感じてしまう。


 乃坂が「はい、そうですよ、どうぞお好きな席に座ってください」と言うと、刺青男は品定めをするように部屋を見回した。俺はこちらには来ないでほしいと痛切に願う。その願いが通じたのか、刺青男は五十代女の隣に座った。すぐ隣には龍がこちらに睨みを利かせている。五十代女の体が少し右に逸れた。五十代女には可哀想だが、刺青男が向こう側の席に座ってよかったと少し安堵する。


 ただ、刺青男は俺の正面にいる。気を抜くとすぐ刺青に目が行ってしまう。見ていると突っかかって来られそうな気がしたので、刺青男の後ろの本棚に視線を集中させる。刺青男は、子供のように周囲を見回している。しかし、無邪気ではない。


 ちらりと横を見ると、眼鏡男はずっとスマートフォンを見ていた。刺青男に食ってかかられないか心配になる。壁掛け時計を見上げると、十三時二十八分を指している。プログラムの開始予定時間まであと二分だ。


 ドアがそっと開く。入ってきた女を見て、俺は目を瞬かせる。ライトブラウンの髪は、緩く巻かれていて、薄黄色のフリルのカットソーが檸檬のように瑞々しい。少し頬は下がっているが、薄紅のグロスが塗られた唇が若々しく、そして、なによりも目元の小さな黒子。


 ふっと脳裏に記憶が浮かんだ。生暖かいエアコンの風。硬いソファの座り心地。よれよれのスウェット。木目調に塗られた柵。あの時はじっと見ることができなかったが、今は遮蔽するものは何もない。俺は彼女を凝視する。彼女は、俺の方を見て少し笑った。


 しかし、続いたのは、「乃坂さん、今回もよろしくお願いします」という言葉。その微笑は俺ではなく乃坂に向けられたものだと気づくと、胸に小さな穴が開いた気分になった。彼女は、刺青男の隣に座った。前髪をかき上げる。動じている様子は見られない。






 ドアを開けて驚いた。座っている四人の中にうっすらと見覚えのある顔がいたからだ。一重瞼に厚い唇。肌は手入れがなされていないのか、そばかすだらけだ。こうして近くで見ると、覚えていたよりも小さい。彼の名前は確か、弓木峻。記憶は徐々に鮮明になっていく。裁判官に自分の名前を聞かれて、消えそうな声でそう言っていた。見た目があの時と全く変わっていない。刑務所には時を止める効果でもあるのだろうか。


 しかし、彼の服装はどうだろう。ワイシャツにスラックス。ここは会社ではないのだから。袖のボタンもきっちり締めていて、真面目だ。ワイシャツに皴は少なく、クリーニングに出したかのようだ。きっと彼は彼なりに緊張しているのだ。だから精一杯身なりを整えて、ここに来たのだ。彼は私をじっと見ていて動かない。彼がじたばたしている様子を思い浮かべると、自然と笑みがこぼれた。彼の目は大きく開く。


 奥に乃坂さんがいたので、私は挨拶をする。ペンを持っている磐城さんにも、ホワイトボードを細かく動かしていた綿地さんにも。彼の隣には気まずくて行けないので、私は筋肉質な腕が印象的な男の人の横に座った。チラチラと右腕の刺青が見えたけれど、あまり気にならなかった。耳の丸ピアスがかえってチャーミングなくらいだ。詳細は分からないが、いい匂いもする。


 壁掛け時計を見上げると、ちょうど十三時三十分になった。乃坂さんがホワイトボードの横、机の正面に立つ。ショートの黒髪が相変わらず艶めいている。どんなトリートメントを使っているのだろう。


「それでは、第一回の当事者グループプログラムを始めます」


 乃坂さんがハキハキした声で言った。斜め前に座った彼は、背筋を伸ばしたけれど、まだ少し丸まっていた。


 半年間の長いプログラムが始まる。



(続く)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ