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【第19話】二〇二六年、行き場のない旅



 私服で外に出ても、蒸した部屋と暑さは変わらなかった。チェックのシャツの袖を捲りたくなる。頬を撫でる風に、過ぎ去ってしまった三回の夏を顧みる。よく覚えていない。今回は仮釈放はなく、三年の刑期を全うした。早く出られることはないと分かっていたから、諦めもついた。ゴールが決まっている分、日々は瞬く間に終わっていった。


 道を歩いても、何の感慨もない。ただ、脚を交互に踏み出しているだけだ。踏切を渡った先にあるコンビニエンスストアで、水を買おうと思い立つ。入るとレイアウトが変わっていて、ドアの真正面にレジが見えた。横のイートインコーナーの座席数も増えている。


 飲料水を手に取り、レジに向かう。片言の外国人が立っていた。名札から察するに東南アジア系に思える。まあ最後に来たのは四年前だから、変わっていても当然だろう。そんなことを思いながら、財布を開く。五十五円しか入っていなかった。


「ちょっとお金下ろしてきますんで。すみません」


 キョトンとした様子の店員をよそに俺はATMへと走る。トイレの入り口近くにそれはあった。キャッシュカードを入れて、暗証番号を入力する。ためらうことはなく、指が覚えてくれていたのに安心する。一万円と入力し、確定を押す。キャッシュカードを引き抜いた後に、一万円札は出てきた。


 取り上げてみて、目を見張る。数字で大きく「10000」と印字されていた。肖像画もどことなく違う気がする。見慣れない一万円札を出して、店員から帰ってきた千円札もまた違っていた。誰だ、この丸眼鏡を掛けた男は。ふと、世界は俺の知らないところで、確かに変わっていたのだと気づく。刑務所はタイムマシンだ。外には異なる世界が広がっている。そう考えると、コンビニエンスストアから出るのが無性に怖くなった。


 そのとき、スマートフォンが鳴った。耳になじまない和音に、俺は慌ててコンビニエンスストアから出た。携帯の画面には電話番号のみが、表示されている。連絡帳に登録されている(ほとんどは親戚だが)どの番号とも違う。よく考えずに、俺は応答していた。


「こんにちは」


 聞き慣れない声だった。記憶を検索しても、何も引っかからない。こんな抑制の利いた声、一度聞けば覚えているようなものだが。


「こんにちは」


「出所おめでとう」


「あの、どちら様でしょうか。出所おめでとうなんて、そんな人違いじゃないでしょうか」


「とぼけんなよ、弓木峻。お前釈放日、今日だろ。違うか?」


 声は耳から入り、そこで止まる。壁にぶち当たったかのようだ。


「久しぶりのシャバの空気はどうだ。といっても変わんないか。外と同じ空気を吸ってたんだもんな、中で」


 脳は電話を切れという指令を出しているのに、手はなかなか動かない。電話の向こうの相手に勘づいているのか。


「でさ、ウチ最近いいの入ったんだよ。上がうまくやってくれてな。純度は今までと比べ物になんねぇぜ。その分値段は張るけど、ヤッたときのことを考えれば、ぶっちゃけお買い得だ。お前だったら特別に安くしてやってもいい。どうだ、要るか?」


 親からは信頼されず、出所したばかりの人間は、社会的には存在していないのと大して変わらない。透明人間も同様だ。そうか。透明人間だから何をしてもいいのか。どうせ、目に留めてもらうことはないのだから。周囲を見渡してみる。四年前にはあった公衆電話がなくなっていることに、今更ながら気づいた。




 空になったポリ袋が、枕の横に転がっている。スマートフォンを見ると、二十二時間が経って、午後の六時だった。十何時間も寝ていた。そのことは両親が、俺に干渉してこなかったことを表している。もう愛想が尽きたのだ。三十も過ぎて、同じところを回っている愚かな息子に。刑務所での面会で、さっさと部屋を借りて家から出ろと言っていたことを思い出す。もう関わりたくないというその口調に、ひどく落胆したことを覚えている。


 寂しくはなく、ただただ悲しい。もうめっきり見なくなったが、道端に捨てられる子犬の気分だ。


 そろそろ夕食ができているだろうと思って、布団から這い出す。廊下を一歩一歩踏みしめる度に、ギイという音がした。ダイニングに入ると、机の上には食べ終わった皿が置かれていた。二セットしかない。


「母ちゃん、俺の飯は?」


「なんか作って食べて」


 母親はドラマが流れているテレビを見たまま、振り向かずに言った。俺が知っている俳優が一人も出ていないそのドラマを食い入るように見つめている。俺は、カップラーメンを買ってきて食べた。熱湯を注いで、待っている間の四分間、俺はずっと壁掛け時計を見ていた。なかなか進まない時計の針が、俺を嘲笑っている。価値のない人間だと責め立てる。


 空き容器をゴミ箱に入れて、俺はすぐに部屋に戻った。ドアを閉める直前に、もう一度リビングを見やる。そのドラマにはコマーシャルがなく、二人が振り向く様子は見られなかった。


 布団に再び横たわる。スマートフォンを手の届く範囲から遠ざけようと、壁に投げる。小さな音をして地面に倒れた。照明を消して、目を瞑る。


 信じられない。もう、自分が信じられない。間違いなくまたクスリをやる。意志なんて何のストッパーにもならない。鐘の音を聞くとよだれが出る犬みたいに、俺はクスリに支配されている。クスリを使わない自分が想像できない。クスリをやる自分は鮮明に浮かぶのに。前後左右から石壁が迫ってくるようなイメージ。綱にしがみついて、登らなければ押しつぶされてしまう。


しかし、その綱を垂らしてくれるのは、誰?





 結局、眠ることはできなかった。しばらく目を閉じて、スマートフォンを見て、これしか経っていないのかと失望し、また目を閉じる。そんなことを繰り返していたら、いつの間にか明るくなっていた。時計が八時三〇分になるのと同時に、俺は電話を掛けた。


「はい、倉石病院です」


「あの、初めてなんですが、アルコール関連外来を受診したいのですが」


「お名前は何と言いますか」


「弓木峻です」


「少々お待ちください」


 スマートフォンからは、オルゴール調にアレンジされたメロディが聞こえる。リラックス効果はない。


「はい、弓木峻さんですね。来週の月曜日の十五時なら空いていますが、いかがなさいますか」


「あの、少しいいですか」


「はい、どうぞ」


「こちらは、アルコール依存症の外来ですよね。あの、私クスリを使っていまして……。薬物依存症の治療も、こちらの外来では行っているのでしょうか」


「そうですね……。確認して参ります」


「どうしてもクスリを止めたいんです。頼れるのはここだけなんです」


「少々お待ちください」


 また、メロディが流れた。十回繰り返されても、終わる気配がない。足先が細かく動いている。三分ほど経ってようやく、また電話が取られた。


「大変お待たせいたしました。ただいま確認したところ、誠に申し訳ないのですが、当院では薬物依存症の治療は行っていないとのことで……。ご要望に添えず申し訳ありません。でも、もしよろしければ、当院の臨床心理士によるカウンセリングだけでも……」


「もう結構です。ありがとうございました」


 電話の向こうの受付係は、まだ何か言っていたが、俺は構わず電話を切った。沸々と燃えるような悔しさは、俺の中で大きくうねり、やがて怒声となって溢れ出る。スマートフォンを布団に強く叩きつける。県内の他の病院も特に薬物依存症については記載がなかった。治療には県外に出ていくしかない。どれだけ俺に金を使わせれば気が済むのか。やるにも金がかかるし、止めるのにも金がかかる。旺盛な金食い虫であるクスリの怖さが改めて身に染みた。


 病院は信用できない。ただ、まだ手段はあった。昨日、病院を調べている中で、それが明日行われることを知った。きっと役に立たないだろうが、参加してみなければ分からない。回復に向かう道だと信じたい。


 唇の震えが少し収まった。



(続く)

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